はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

初歩き:湖北五山初詣1

2017-01-09 15:00:14 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


 今年の初詣は5年続けていた小笠越えの遠州三山を止めて、6年ぶり4度目になる 「湖北五山」 を歩いてきました。
湖北五山とは浜名湖の北に位置する初山宝林寺、龍潭寺、奥山方広寺、大福寺、摩訶耶寺の五寺で構成する霊場です。
詳しくは6年前に歩いたこちらを参考にしてください。

 前の3回は家から電車で出発地の天浜線金指駅まで行ったのですが、金指到着が8時31分着と遅く、当時より大分歩行速度が
落ちた今では、ゴールの三ケ日駅に到着するのが5時過ぎになってしまいそうです。
そこで早い電車を調べると藤枝駅を5時34分と暗いうちの出発になり、更に都合の悪いことに、天浜線に乗換えの掛川駅で30分
以上の待ち合わせになってしまいます。暖房の効いていない待合室で30分も潰すのは気が進みません。
ではと車を調べると、吉田ICから浜松西IC経由で行けば1時間ほどで着く事が分かり、料金も電車で1500円で東名は1600円
程度とほぼ同じくらいでした。それなら車にしようと家を出たののが6時5分でした。

 金指駅は遠鉄利用者には無料の駐車場が準備されているので、帰りに三ケ日駅からここまで電車に乗るのだから良いだろうと
自分に都合よく解釈をして利用させてもらいました。


                    金指駅から初山宝林寺までと実相寺分岐までの地図

◎道案内1
 ・天浜線金指駅前から国道362号に出て東に向かう。10分ほど歩くと左側に「初山宝林寺」の看板がある。
 ・実相寺には今歩いてきた国道を西に戻り、最初の信号を右折して登り道に入る。

 
               赤い幟は直虎のか?                              山門は工事中

 宝林寺の看板の先に赤い幟が見えるが、あの幟は今月8日から始まるNHK大河ドラマ 「女城主 直虎」 の宣伝用幟かと期待したが
残念違っていた。幟は宝林寺の願掛けの「鎮守龍文坊大権現」を祀る物でした。
龍文坊大権現にはこんな話が言い伝えられているそうです。

 「今から300年ほど前、地元の村に神童と讃えられている子供がいました。子供は成長すると宝林寺の小僧となり、名を 「龍文」 と
名乗りまして。
当時寺には大勢の修行僧がいましたが、竜門は非凡な才能を発揮して、住職の補佐が出来るまでになりました。
ある日、龍文は裏山に入ったきり帰って来ませんでした。その夜、宝林の総本山で京の都にある萬福寺の庫裡が火事になり、その時
 「初山の龍文」 と名乗る僧が火を消したと伝えられています。
この宝林寺が300年も厄火もなく続いたのは、龍文さまの守護があればこそと昔の禅堂の後に龍文堂を建てました。
現在でも 「火伏せ」 「家内安全」 「商売繁盛」 の神として信仰されてます。」


このような話を聞くとへそ曲がりな私はすぐに次なる興味が移ってしまう。
龍文さんの出身地でさえお堂を建て祀っているのだから、火事を防いでもらった萬福寺は当然感謝の気持ちから龍文さんを大切に
祀っている事だろうと、京都の萬福寺のHPを見て見たが、龍文さんの事にも火事の事にも触れられていない。
そうなるとどうなんでしょうね、この言い伝えは本当に有った事なのか、それとも作り話なのか分からなくなってしまいますね。

 国道に面した宝林寺の山門は工事中で防護幕を張られ中が見えなくなっていた。
今年は直虎ブームで参拝者が否、観光客が押寄せてくる可能性があるのに何とも無粋なことだ。
この山門の扁額は日本にインゲン豆を伝えた隠元禅師の書いた 「初 山」 の文字が金色に輝いていたのだが。

 
            仏殿(国指定重要文化財)                          方丈(国指定重要文化財)

 拝観時間は10時からでまだ3時間ほど早すぎる。ここは少々失礼させてもらって境内だけ見せてもらう事に。
正面にデンと構えた建物は国の重要文化財に指定された仏殿(本堂)です。
宝林寺の宗派は 「黄檗宗(おうばくしゅう)」 と余り聞くことのない宗派だが、江戸時代に明国の隠元禅師が伝えた禅宗の一派だという。
宝林寺の開祖は隠元禅師と共に日本に来た禅僧なのでかなり格式の高いお寺なのだろう。 創建当時は七堂伽藍も整い、5万坪を
超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいたと言うのだから立派なものだ。
それが明治になると廃仏毀釈の波に飲込まれ数多くのお堂が倒壊しまったらしいが、全くバカな事したものだとつくづく思う。

 方丈とは1丈(約3m)四方の部屋の事で、禅宗寺院の住職の居室や建物を、さらには住職をも意味するらしい。
確かに住職を 「方丈さん」 と呼んでいるのを聞いた事はある。
ここの方丈の建物は昔の庄屋のような萱葺の建物で、当然3m四方ではない。ならこの建物の中に3m四方の部屋があるのだろう。
拝観料をケチるとそれも確認できない。
そうそう仏殿も方丈も私の目には純和風な建物に見えるが 「中国明朝風様式を現代に伝える大変貴重な建物」 だそうです。

         
            弥勒菩薩半跏思惟像                         金鳴石(きんめいせき)

 仏殿の裏に弥勒菩薩の半跏思惟像が祀られている。私は仏像の中でこの半跏思惟像が好きなのだが、ここの像は首が真っすぐ
すぎて、余り考え事をしているようには見えない。もう少しく頭を曲げていた方が思索的だと思うのだが。
尤もロダンの考える人のように体まで曲げてしまうと、思索的と言うより悩める人になってしまう。

 「金鳴石」 は前回も叩いたが、今回も軽く叩いてみた。金属を叩いたように甲高い音でとても石の音のようには聞こえない。
案内板には 「独湛禅師が中国から持ってきた摩訶不思議な石で、叩くと “お金の成る石”」 とある。
前回も叩いたが結局お金を手にする事はなかった。今年は果たしてどうだろう。
 「奥浜名 参れ立ち寄れ 宝林寺 願い叶える 金鳴の音」 お金も欲しいが、それよりも今年一年健康で歩けますように・・・・・・

 
             阿弥陀三石仏と方丈                                石仏五如来

 阿弥陀三石仏は 「勢至菩薩 阿弥陀如来 観音菩薩」 とあり、左の合掌した女性姿の勢至菩薩。中央は来迎印を結ぶ阿弥陀如来、
右には観音菩薩が宝珠と花(?)を持つ女性像になっている。

 五如来とは阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、薬師如来、宝生如来とあるが、宝生如来はあまり聞いた事のない名前だ。
ウィキペディアによれば 「日本における宝生如来の彫像は、五仏(五智如来)の一として造像されたものが大部分であり、宝生如来
単独の造像や信仰はまれである。」
とあった。
ここで思い出したことがある。東海道53次の岡部宿に 「五智如来公園」 があり、そこに安置されている如来は、宝林寺の五如来と
一つ違っていて、薬師如来の代わりに “阿閦(あしゅく)如来” だった事だ。
どうやら五智如来あるいは五如来は宗派によって祀る如来が違うようです。

 宝林寺にある三石仏や五如来は宝林寺独特なもので 「初山系石仏」 に分類されると云う。
だが何処が初山系なのか見ただけでは分からない。矢張りは移管料をケチってはいけないな。


                       初山宝林寺から実相寺までの地図

◎道案内2
 ・実相寺には国道を西に戻り信号を右折して登り道に入る。最初の西に向かう道を左折して暫く直進する。
 ・道がT路でぶつかったら右折して北に向かう。
 ・最初の角を左折して西に向かう。引佐赤十字病院の前を通り交差点を直進する。
 ・次の交差点で右折する。歯医者の前を通り、道なりに進む。
 ・突き当たった道を右折して暫く行くと左側に金指小学校と実相寺がある。

 
                古民家                                    金指の街並み

 引佐赤十字病院を過ると道が上り坂になってきた。前回も気になった頑丈そうな民家はまだ建っていたが、物置としてでも使われて
いるのだろうか。
更に上っていくと左に金指小学校の入口があり、その横が実相寺の山門に続いている。道の横に句碑が建っている場所からは、今
歩いてきた金指の街並みを見る事ができる。

 
             実相寺の鐘楼門                                開基近藤家夫妻の廟

 実相寺は初山宝林寺の開基近藤貞用が父季用(ひでもち)の十七回忌供養のため、奥山方広寺の末寺新正院にあった墓を当地に
移転し、併せて実相寺の寺観を整えたのが始まりと云う。秀用は小田原城の戦いで一番乗りを果たし秀吉から青毛黒馬の下賜される
など数々の武勲を立て、家康の近侍に取り立てられていたという。
言うなれば宝林寺より格が上なのだろうが、死んだ父親より先ずは自分の事を優先して宝林寺に力を入れたのだろう。
でも何となく腑に落ちないのは、実相寺を建てたのは息子で、祀ったのが父親。それで開基が父親になるのだろうか?

そうそう実相寺の名は季用の戒名からとったのだそうです。

         
                                 実相寺庭園(県指定名勝庭園)

 庭園の築山の後ろに近藤夫妻の墓の一部が見えているが、この庭園自体が近藤夫妻の廟を遥拝し、菩提を弔うための庭園だった
らしい。それにしては墓の見える部分が少なすぎると思えるがこんな物だろうか。
庭園の入口に釦を押すと庭園や建物を案内してくれる装置があり押してみた。確かに石の配置など案内されれば、なるほどと納得
出来たが、聞き終わった時点でもう忘れてしまった。

ついつい録音を聞いてしまい予定より長く休んでしまった。先はまだ長い少し急がないと。

                         前回の初山宝林寺と実相寺のブログ

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