歩行時間:5時間50分 休憩時間:2時間50分 延時間:8時間40分
出発時間:7時55分 到着時間:16時35分
歩 数: 42、394歩 GPS距離:-.-km
行程表(2014-1-12)
藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅
藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
花倉城跡
清水寺の横の農道を登って行くと清水山経由で蓮華寺池公園に向かうハイキングコースの分岐に出る。
今日はハイキングコースには行かずに左の助宗に向かう農道を行く。この道は現在は農道だが路傍の
古い石仏があるの見ると、かっては清水寺の参道ではなかったかと思わせる雰囲気のある道だ。
次の分岐の道標は、左は助宗で右は何も書かれていないが、下にある古い石の道標には「左助宗 右花倉」
と彫られている。以前駿河一国33観音霊場巡りで清水寺から花倉の補陀落寺に向かう時、右の花倉への道を
歩いたが少し進んだ先で道らしい道は無くなり、微かにある踏み跡を辿って行くと清水山のハイキングコースに
出てしまった。後で清水寺の人に話したところ「以前は道があったが新東名の工事で遮断されしまった」のだ
そうだ。本来なら新しい道を作る以上、古い道もそのまま維持するべきだと思うが、島田市野田のバラの丘公園
から島田二中に抜ける国1バイパスを越す山道を歩いた事で、そんな意見は言い辛くなってしまった。何故なら
そのバイパスを越す歩道橋のために、何のためなのか分からないが手摺のあるジグザクな道を造ってある。
それでもこの道が歩かれているなら文句は無いが、私が歩いた時は雑草や落葉で余り歩いた形跡は無かった。
これも地元の要望で作ったのだろうが余りに我田引水な行いだと思ったものだ。(その歩道橋の地図)
それに比べれば、ここの道が廃道になるのは仕方ない事かもしれない。少し遠回りすれば済むのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/4a/4591f214f14f5a41215c272de5b6c160.jpg)
清水寺の裏道にある石仏 花倉八幡宮の常夜燈 角度のある馬頭観音
新東名からは藤枝PAに出る新しい道を歩いてみると、予定いていた道より随分近道で花倉に抜ける事が
出来た。ただこのPAへの道はPAへ寄ると遠回りになるので、途中からガードを潜って花倉に行く方がよい。
花倉は東西に尾根が通った南北に広がる細長い平地で、花倉城はその北の突き当りの山の上にある。
その花倉の谷の西の入口には、今川家が駿河に進出してきた当時創建された偏照寺(へんしょうじ)があり
東側には今川氏が制定した駿河一国33観音霊場の札所補陀落寺もある。
花倉城の里にあった今川館は偏照寺前にある水田のあたりが居館跡とされ、 かつては土塁が残っていたと
いうが現在は遺構は残っていない。また居館跡の東側に馬場という地形が残っていたと書いてあるものも
あるが、その場所が何処か私は特定できていない。 当時の花倉城への登城路は、城に入口等を考えると
東の尾根を辿ったと思われるのだが、ここで一つ疑問が湧く。
今川家は本拠を花倉から駿府に移した後も、偏照寺の住職は代々今川家の一族が務め、駿府の西の守りとして
いた。その要の今川館は偏照寺の前にあったとされる。ようは寺と館は一体化されていたのだろう。
山上の詰城と麓の館の関係は、一般的には麓の館を当初の防衛施設とし、最終拠点は詰城で、支城に対する
本城に関係だと思う。
詰まり敵が攻めてきた時の最初の防御は麓の今川館で行い、敵わないとなったら館の後ろから詰城の花倉城に
移動(逃亡)して最終戦を行う。
だが花蔵の今川館の位置は、そんな作戦が成立しない場所にある。西の尾根の下にある偏照寺の前に今川館が
有ったとなると、敵は館の前の東側から攻めて来るので、いざ詰城に逃げようとすると前面の敵の中を通り
東の尾根に登らなければならなくなる。これでは逃げ場のない背水の陣になってしまうし、まだ前哨戦の段階で
こんな作戦を取る分けはない。
そうなると私の妄想的歴史観が蠢きだす。花倉の今川館の建っていた場所は偏照寺の前は前だが、ずっと前の
東の尾根の麓にあったのだ。そうなれば南から攻めてきた敵を偏照寺と今川館で挟み撃ちに出来る。さらの
形勢不利となっても館の後ろから詰城に逃げ込むことも容易だ。どうですかこの説は。
私にとって興味津々の花倉の里だが、連れは興味が無さそうなのでパス。花倉城跡の登りに向かう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8d/2f1b403c86aecfbe56dbb507d6e38758.jpg)
偏照寺の地図
東の尾根に登る途中に、以前から気にしていた石仏の舟型部分が尖った馬頭観音がある。前回歩いた百地蔵
では、この形の石仏は静岡県中部の岡部地方を中心に分布して、比較的新しい物が多かったが、ここの石仏も
昭和11年作成の物だった。これで信州高遠の石工のように石仏に名前が彫ってあればハッキリするのだが。
この付近には他にも古く苔むした石仏や、一体化した小さな五輪塔もあるので、かってこの道が花倉城に登城
する道だったと思われる。その道も今はミカン畑になっていて、年が明けた今もまだ収穫していない畑もある。
西側には偏照寺から続く尾根が見えている。こちらの尾根は東の尾根に比べ、長く急峻で三角山や烏帽子形山を
辿って花倉城に向かわなければならない。
偏照寺で戦い敗れた僧兵は、この険しい道を辿って花倉城の裏門に逃げ込む事ができても、大所帯の兵では
移動もままならず、追撃してくる敵兵の弓矢に倒されてしまうだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/98/5334cf9e4eba4d7da70bca9780cf2ec0.jpg)
五輪塔 花倉城址のある山
花倉城跡に地図
出発時間:7時55分 到着時間:16時35分
歩 数: 42、394歩 GPS距離:-.-km
行程表(2014-1-12)
藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅
藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
花倉城跡
清水寺の横の農道を登って行くと清水山経由で蓮華寺池公園に向かうハイキングコースの分岐に出る。
今日はハイキングコースには行かずに左の助宗に向かう農道を行く。この道は現在は農道だが路傍の
古い石仏があるの見ると、かっては清水寺の参道ではなかったかと思わせる雰囲気のある道だ。
次の分岐の道標は、左は助宗で右は何も書かれていないが、下にある古い石の道標には「左助宗 右花倉」
と彫られている。以前駿河一国33観音霊場巡りで清水寺から花倉の補陀落寺に向かう時、右の花倉への道を
歩いたが少し進んだ先で道らしい道は無くなり、微かにある踏み跡を辿って行くと清水山のハイキングコースに
出てしまった。後で清水寺の人に話したところ「以前は道があったが新東名の工事で遮断されしまった」のだ
そうだ。本来なら新しい道を作る以上、古い道もそのまま維持するべきだと思うが、島田市野田のバラの丘公園
から島田二中に抜ける国1バイパスを越す山道を歩いた事で、そんな意見は言い辛くなってしまった。何故なら
そのバイパスを越す歩道橋のために、何のためなのか分からないが手摺のあるジグザクな道を造ってある。
それでもこの道が歩かれているなら文句は無いが、私が歩いた時は雑草や落葉で余り歩いた形跡は無かった。
これも地元の要望で作ったのだろうが余りに我田引水な行いだと思ったものだ。(その歩道橋の地図)
それに比べれば、ここの道が廃道になるのは仕方ない事かもしれない。少し遠回りすれば済むのだから。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/3b/754a94b982327b34c51402cf0b4ab94f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/79/76a82c7cfb2071dd1ed62f466e88a930.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/4a/4591f214f14f5a41215c272de5b6c160.jpg)
清水寺の裏道にある石仏 花倉八幡宮の常夜燈 角度のある馬頭観音
新東名からは藤枝PAに出る新しい道を歩いてみると、予定いていた道より随分近道で花倉に抜ける事が
出来た。ただこのPAへの道はPAへ寄ると遠回りになるので、途中からガードを潜って花倉に行く方がよい。
花倉は東西に尾根が通った南北に広がる細長い平地で、花倉城はその北の突き当りの山の上にある。
その花倉の谷の西の入口には、今川家が駿河に進出してきた当時創建された偏照寺(へんしょうじ)があり
東側には今川氏が制定した駿河一国33観音霊場の札所補陀落寺もある。
花倉城の里にあった今川館は偏照寺前にある水田のあたりが居館跡とされ、 かつては土塁が残っていたと
いうが現在は遺構は残っていない。また居館跡の東側に馬場という地形が残っていたと書いてあるものも
あるが、その場所が何処か私は特定できていない。 当時の花倉城への登城路は、城に入口等を考えると
東の尾根を辿ったと思われるのだが、ここで一つ疑問が湧く。
今川家は本拠を花倉から駿府に移した後も、偏照寺の住職は代々今川家の一族が務め、駿府の西の守りとして
いた。その要の今川館は偏照寺の前にあったとされる。ようは寺と館は一体化されていたのだろう。
山上の詰城と麓の館の関係は、一般的には麓の館を当初の防衛施設とし、最終拠点は詰城で、支城に対する
本城に関係だと思う。
詰まり敵が攻めてきた時の最初の防御は麓の今川館で行い、敵わないとなったら館の後ろから詰城の花倉城に
移動(逃亡)して最終戦を行う。
だが花蔵の今川館の位置は、そんな作戦が成立しない場所にある。西の尾根の下にある偏照寺の前に今川館が
有ったとなると、敵は館の前の東側から攻めて来るので、いざ詰城に逃げようとすると前面の敵の中を通り
東の尾根に登らなければならなくなる。これでは逃げ場のない背水の陣になってしまうし、まだ前哨戦の段階で
こんな作戦を取る分けはない。
そうなると私の妄想的歴史観が蠢きだす。花倉の今川館の建っていた場所は偏照寺の前は前だが、ずっと前の
東の尾根の麓にあったのだ。そうなれば南から攻めてきた敵を偏照寺と今川館で挟み撃ちに出来る。さらの
形勢不利となっても館の後ろから詰城に逃げ込むことも容易だ。どうですかこの説は。
私にとって興味津々の花倉の里だが、連れは興味が無さそうなのでパス。花倉城跡の登りに向かう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8d/2f1b403c86aecfbe56dbb507d6e38758.jpg)
偏照寺の地図
東の尾根に登る途中に、以前から気にしていた石仏の舟型部分が尖った馬頭観音がある。前回歩いた百地蔵
では、この形の石仏は静岡県中部の岡部地方を中心に分布して、比較的新しい物が多かったが、ここの石仏も
昭和11年作成の物だった。これで信州高遠の石工のように石仏に名前が彫ってあればハッキリするのだが。
この付近には他にも古く苔むした石仏や、一体化した小さな五輪塔もあるので、かってこの道が花倉城に登城
する道だったと思われる。その道も今はミカン畑になっていて、年が明けた今もまだ収穫していない畑もある。
西側には偏照寺から続く尾根が見えている。こちらの尾根は東の尾根に比べ、長く急峻で三角山や烏帽子形山を
辿って花倉城に向かわなければならない。
偏照寺で戦い敗れた僧兵は、この険しい道を辿って花倉城の裏門に逃げ込む事ができても、大所帯の兵では
移動もままならず、追撃してくる敵兵の弓矢に倒されてしまうだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/ef/58023ac1c5bfa24adb8af1b823d12732.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/98/5334cf9e4eba4d7da70bca9780cf2ec0.jpg)
五輪塔 花倉城址のある山
花倉城跡に地図
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