はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

安倍七観音1-6

2014-10-31 10:14:22 | 寺社遍路
歩行記録                                           2014-9-27
歩行時間:8時間45分   休憩時間:2時間30分   延時間:11時間15分
出発時間:5時55分   到着時間:17時10分
歩  数:  52、824歩   GPS距離38.2km
行程表
 安倍川駅 0:45> 徳願寺 0:30> 建穂神社 0:10> 建穂寺 1:20> 増善寺 0:45> 西ヶ谷運動場
 1:50> 法明寺 1:00>  新東名 1:55> 浅間神社 0:30> 静岡駅 

                      増善寺(今川氏親)
    
              ハナミョウガ                       ヤブミョウガ
 次もまた気になっていた「ハナミョウガ(花茗荷)」「ヤブミョウガ(藪茗荷)」
この二つは今までどちらもヤブミョウガと思っていたので、「はぐれのHP」 にはヤブミョウガの項にゴッチャにして
紹介してしまっていた。それが今年の春、大崩山塊を歩いていて、紅白のまだら模様に咲いた花を確認したのに
次いで、夏には白い小さな花と黒い実の付いたのを見つけた。更にその近くには同じような葉の根元から緑の丸
い実を付けたものもあった。この二つが同じ名前の訳はないと、ネットの植物図鑑で探したが分からなかった。
だいたい植物や鳥を辞典で調べるのは大変で、色や形で分類してあっても、見た時のイメージが人によって違う
ので中々目的物に辿り着けない。今回は「高草山・低山の四季博物誌」の索引に、ヤブミョウガと似たような名前の
ハナミョウガを見つけた事により、その違いが分かった。
「ヤブミョウガ・高さ50-100cm。葉の長さ15-30cm。和名は葉がミョウガに似ていることに由来する。茎の先に長い
  花茎をのばし、数段に白い花を輪生する。花は白色で直径7-10mm。」
「ハナミョウガ・高さ30-60cm。葉は長さ15-40cmで。和名は葉がミョウガに似て花が美しいことに由来する。
 10cm以上に伸びた花茎に穂状の花序をつける。花は白色に紅色の筋が入る。果実は薬用とされる。」

どちらも名前の由来が茗荷に似ているのだから、私が混同してしまうのも無理はない。とも思うが、違いが分かって
から見てみると、明らかにその違いは明確だ。先ず花や実の付く場所が明らかに違っていて、ヤブミョウガは茎の先
(葉の上)に咲くのに対し、ハナミョウガは葉の茎と違い、それ専用の茎に花や実が付く。更にハナミョウガは1本では
生えずに、一固まりでまとまって生えている。これらの事を注意すれば以後は混同する事は多分ないだろう。

 
              増善寺山門                           増善寺本堂
 林道が終わり市道に合流した先に増善寺はある。
その山門の前に「顕彰 曹洞宗大本山總持寺元輪番地」と刻まれた石碑が立っていた。元輪番地? 
またまた知らない言葉ができた。早速調べてみると元輪番地とは
「曹洞宗大本山總持寺の正住(住職)は輪番制で就いていて、正住となる資格のある住職のいる寺を輪番地と
呼んでいた。この輪番制も次第に名誉職化し、明治維新後に廃された。」

と、云う事は、増善寺から總持寺の正住(住職)になった和尚がいるという事だろうか。
今は山間の寺に過ぎないが、かっては七堂伽藍を備え曹洞宗の歴史に大きな足跡を刻む寺院であったのだ。
そんな増善寺の事を門前の案内板は、次のように記していた。

 「慈悲山(じひざん)増善寺  増善寺は白鳳22年(681)法相宗の始祖道照法師が開いた真言宗の寺で、当時は
「慈悲寺(じひじ)」と呼ばれていた。明応9年(1500)、曹洞宗に関心の深かった駿河の国守今川氏親(うじちか)は、
辰応性寅(しんおうしょうえん)禅師に帰依し、性寅を開山として七堂伽藍を整え再興し、曹洞宗に改め今川家官寺
増善寺となった。
 大永6年(1526)、今川中興の祖と呼ばれた今川氏親が亡くなると、この寺で盛大な葬儀が営まれた。
寺の裏山には南北朝期の安倍城址がある。一代城塞網の拠点としての、安倍城主狩野貞長との戦乱において、
多大な年月と戦乱の末、間もなく今川氏は根拠地を駿府に移し、守護大名として東海に君臨するようになった。
その後、度重なる内紛が起り、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲
尾(しいのお)」に今川家の菩提寺として、自らの安息の地を求めたのは、決して偶然のことではない。 静岡市」

 氏親の葬儀に関しては、こんな風に紹介しているものもあった。
「大永6年、氏親は駿府の今川館で息を引き取った。氏親の葬儀は増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加し、
葬儀の喪主である嫡男の氏輝が祭文を読み、棺の綱は栴岳承芳(後の今川義元)、位牌は玄広恵探(義元の諸兄)
がもって曹洞宗最高の法式で行われた。」

 僧侶7、000人がこの狭いに谷筋を埋めたのでは、歩く事もままならなかっただろう。そのような盛大な葬儀も今川
中興の祖、氏親ならではと思うが、本人が死した後も、その威勢を示すには確固たる後継者が必要となる。
氏親の場合、嫡男の氏真は14歳と若年で、しかも病弱ときているので、とても確固たる後継者とは成りえない。
では氏親の威勢を継続でき、盛大な葬儀を強行できた実力者は誰か。
それは氏親の死後、剃髪して「瑞光院寿桂尼(ずいこういんじゅけいに)」と称した正室です。この寿桂尼については
安倍七観音の途中で、寿桂尼の墓所のある竜雲寺で紹介しようと思っています。

 7000人の僧侶たちが法要を行った増善寺の本堂は、当時の面影は皆無で、白く塗られたいセメントが場違いの
明るさを漂わせていた。ただ入口のガラス戸に印刷された「丸に二つ引」の紋が僅かに今川家との縁を示していた。
         
           今川氏親(増善寺)                   大原雪舟(臨済寺)
 「今川中興の祖」と呼ばれる氏親は中々興味を覚える人生を送っている。
氏親の父義忠は応仁の乱に際し、京の花の御所に住む足利将軍の警固をしていた。この時の義忠の申次衆(将が
将軍に拝謁する際の報告取り次ぎをする役目)伊勢盛定の娘で伊勢新九郎(後の北条早雲)の姉妹であった北川殿
と縁談が整った。このとき義忠31歳で当然駿府には正室がいたと思われるが北川殿は義忠の正室とされている。
駿河に戻った義忠は隣国遠州の守護職を斯波氏と争っていた。1476年遠州見付城を攻略して駿府に帰る途中遠州
小笠の塩買坂で残党に襲撃され討死してしまった。
これにより当時6歳であった嫡男龍王丸(氏親)と、義忠の従兄弟の子小鹿範満との間に家督争いが勃発して、北川
殿は龍王丸を連れて小川城(焼津市)に難を逃れた。更に北川殿は申次衆になっていた兄弟の伊勢新九郎に調停を
依頼し、その結果龍王丸が成人するまでは、範満に駿府館で家督を代行させることになった。
この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に駿府近くの城丸子城(静岡市)に移っている。この時、小鹿範満派として
太田道灌が兵を率いて八幡城(静岡市)へ進駐している。
 静岡市の案内板にある「度重なる内紛が起り、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって」とはこれらを指している
のだが、内紛劇はまだ続く。
 竜王丸が15歳の成人になっても範満は家督を返さず、更に家督奪取の動きまで見せてきたため、北川殿は再度
伊勢新九郎に助勢を求めた。再び駿河へ下向した新九郎は、石脇城(焼津市)を拠点に兵を集め、駿河の今川館を
襲撃し範満を殺した。ようやく龍王丸は今川館で元服して氏親と名乗り今川家の当主となった。
この功により伊勢新九郎(北条早雲)に富士下方12郷と興国寺城(沼津市)が与えられた事が後北条氏の元となる。
 このように今川家の歴史は次々と知った地名が出てくるので興味が湧いてくる。

 北川殿も氏親と共に駿府に帰ったが、今川館に近い安倍川支流の北川沿いに別荘を建て移り住んだ。おのため
川の名前を採って北川殿と呼ばれるようになる。この別荘の変転も興味が湧く。
北川殿が亡くなると、氏親は別荘を建直し出家した我が子・義元の寺とし、名を善徳院とする。さらに氏親の跡目を
継いだ嫡男氏輝も亡くなると義元は還俗し、善徳院を氏輝を弔う臨済寺と改名して、義元の教育係だった大原雪斎を
住職とした。この雪斎は後に今川家の「黒衣の宰相」とも称された軍師となり、今川家の全盛期を築き上げている。
また雪斎は駿河今川家を滅亡に追い込んだ徳川家康を、ここ臨済寺で指導しており、見方によっては今川家にとって
雪斎は大恩人であると同時に、今川滅亡の原因を作った張本人でもあるのだから歴史は面白い。
慧眼の持ち主と云われている雪斎は、義元の天下取りの野望を助勢するために家康を指導したのだろうが、結果は
本家の今川は滅ぼされ、家康の天下取りの土台にされてしまった。家康は雪斎の想像以上に大物だったのか、それとも
雪斎は義元、家康の何れかが天下取を果たせばよいと思ったのか-------

 先に進む前に静岡市の案内板にケチを付けておこう。
「安倍城をひかえた要塞の地に、自らの安息の地を求めたのは、決して偶然のことではない。」と案内板にはあるが
南朝方だった安倍城が、北朝の今川氏に敗れ従属したのは、氏親の死より100年余りも前の事で、その後は歴史上
に名前は出てきていない。なら南北朝期の山城だった安倍城は、氏親の時代には立地場所が山奥過ぎ、戦略的価値が
低くすでに廃城にとなっていたと思われる。
そう考えると、氏親が安息の地の条件として 「安倍城をひかえた要塞の地」 としたとは思えない。

自分間違いは目を瞑っているくせに、他人の間違いに厳しい嫌な性格なんです。私は。

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