第5章 いつからなぜ独居自炊に(テキスト形式)
1 一体いつから「独居自炊」に
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。それは少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は「独居自炊」生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と一緒に暮らしていたということを、賢治は「下根子桜時代」は〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥の一人が約40年前に
「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまい、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことは簡単には明らかに出来なくなってしまった」
というような意味のことを私達に語ってくれていたが、その一例なのかも知れない。そう思ったら急に、賢治と一緒に暮らした男にまつわる賢治の真実を私は知りたくなっていた。ただそれだけでここまでやってきたような気がする。
そのことがあって関連資料を漁っているうちに、『あれっ?』と思ったことがある。それは幾つかの宮澤賢治関連図書等を見ていて、賢治の「下根子桜時代」を決まり文句の「独居自炊」というキャッチフレーズで昔から修辞していた訳ではないということにふと気が付いたのである。
そこで、「下根子桜時代」のことをはたして「独居自炊」と修辞しているかどうか、主な賢治関連図書等について発行年順に並べてみると以下のようになる。
*********************************************************
【「独居自炊」に関する文献】
(1)『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年、羽田書店)
1p 故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふを開設して、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の研究に餘念なく、精根の限りを盡された。
(2)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)
3p (宮澤賢治略歴)
大正十五年四月 花巻町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(3)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)
175p 谷川徹三
大正十五年四月花巻町下根子字ニ羅須地人協會開設。同所ニ於テ農耕ニ從事自炊ス。
284p 三浦參玄洞
大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協會といふのを設けて自炊生活を營みながら農耕に從事した。
324p 菊池武雄
私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適當でないが)を訪れたのは…
436p 白藤慈秀
宮澤君は或る事由によりて大正十五年三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通はぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
年譜13p 四月、花巻町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(4)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)
257p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(5)『宮澤賢治覚え書』(小田邦雄著、昭和18年、弘學社)
206p 大正十五年農學校を退職し、花巻町の櫻に自炊生活をしながら本格的開墾に入り、農耕に從つた。
(6)『雨にもまけず』(斑目榮二著、昭和18年、富文館)
158p 賢治は、學校を止めてほどなく、亡妹とし子が、いたついて臥つてゐた下根子櫻の、から松の林の丘のうへにある、柾葺屋根の二階建ての別宅に、一人、居をかまへた。
(7)『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)
<昭和19年9月20日の講演「今日の心がまえ」より>
17p ―賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊しながら、附近を開墾し半農耕生活を始めた…
(8)『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和22年、眞日本社)
6p 花巻農學校を依願退職したのは三十一歳の昭和(ママ)十五年三月三十一日で、四月にはこの櫻の家に地人協會を開設しました。…
賢治はこの家にゐて自ら農耕に從事し、農村の求めに應じて農事講演を行ひ…
(9)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)
宮澤賢治略年譜
125p 大正十五年(三十一歳)
四月、花巻町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(10)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)
8p 三十八年の生涯を通じて獨身であつた賢治は、三十一歳の三月末には、農學校教師の職をしりぞいて、ひとり農耕し自炊する生活をはじめた。
275p (宮澤賢治略年譜)
大正十五年(一九二六)三十一才
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(11)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)
172p 宮澤賢治が野の人として、こうして全農民の「病苦」をいやすべく、花巻、下根子に自炊生活を始めることになったのは大正十五年、三十一才の四月である。
261p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一才
四月 花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(12)『昭和文学全集14宮澤賢治集』(昭和28年発行、角川書店)
376p 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。<「小倉豐文解説」>
(13)『宮沢賢治物語』(関登久也著、昭和32年、岩手日報社)
134p 四月には、花巻の郊外下根子桜の地にある宮沢家の別宅に ただ一人移り住み、自炊の生活を始めました。
(14)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)
496p (年譜) 大正十五年四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(15)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)
372p (宮沢賢治年譜) 大正一五年・昭和元年(一九二六)三一歳
四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(16)『宮沢賢治』(中村稔著、昭和47年、筑摩叢書)
258p 大正十五年(一九二六年)三月農学校を退職した彼は花巻校外下根子桜の宮沢家の別宅に独居して自炊し、付近を開墾、耕作することになった。
(17)『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、昭和47年、トリョウーコム)
67p 学校を退かれた宮沢さんは、実家から約二キロ離れた花巻市桜町の一角、閑静の地にある宮沢家の別宅に羅須地人協会を設立し、ここで自耕自炊の簡単な生活をするようになった。
(18)『宮沢賢治修羅に生きる』(青江瞬二郎、昭和49年、講談社現代新書)
130p 大正十五年四月、賢治は下根子桜の別荘を手入れしてそこに入り、ひとり住まいの自炊生活に入った。
(19)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年、筑摩書房)
593p 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
(20)『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、昭和53年、東京創元社)
22p 退職すると彼はすぐ郊外の大字根子桜(現在の花巻市桜町)の宮沢家の別宅を多少改造して入り、近くの北上川岸の土地を開墾して畑を作り、独居・自炊・自耕・自活の生活に入った。
(21)『宮澤賢治論』(西田良子著、昭和56年、桜楓社)
「雨ニモマケズ」論
172P 賢治はそれまで勤めていた花巻農学校をやめて、四月から花巻町のはずれの大字下根子小字桜に小屋を建てて、晴耕雨読の独居自炊生活を始めた。
(22)『新編銀河鉄道の夜』(平成元年、新潮文庫)
355p 大正十五年・昭和元年(一九二六)三十歳 四月一日から下根子桜で独居自炊を始める。
(23)『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、平成14年、文春文庫)
185p 一九二六(大正十五)年三月、花巻農学校を退職した三十歳の賢治は、花巻川口町下根子の宮澤家別宅で独居自炊の生活に入った。
以上
*********************************************************
こうやって並べてみると幾つか気が付くことがある。それは次のような事柄である。
・関連図書を発行年順に並べてみると、早い段階では今では決まり文句になっている「独居自炊」というキャッチフレーズが使われていないことにまず気が付く。当初は殆ど〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
・一方、年代が下って昭和50年代以降からはほぼこのフレーズ「独居自炊」が「下根子桜時代」を修辞する決まり文句として定着してしまった、の感がある。
・このリストの中での「独居自炊」の初出は昭和28年である。ただしその後もしばらくは殆どの著書においては〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
そこで思うことが二つある。
まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はないから、実は「下根子桜時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識はなかったのではないかということである。つまり、〝独居〟ではなかったと思われていた可能性がやはりあるのではないこということであり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から下根子桜で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことはもしかすると周知の事実だったのではなかろうか、ということである。ところが時の流れは事実を風化させたり変えたりすることがある。誰かが、それも大きな影響力を持つ誰かが事実と違うことを言い出したりすれば…。その典型的な一つ事例なのではなかろうかと。
そして二つ目は、少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだということである。
2 高村光太郎の随筆集『獨居自炊』
当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
実際、『校本宮沢賢治全集』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
「四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した」
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、平成13年版)の年譜になると例に漏れず
「四月一日(木) 豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る」
となっていて、いつのまにか決まり文句の「独居自炊」に書き替えられているのである。
さて前にも触れたように、
「少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだ」
という疑問を私は抱いた。
一方、一般に「独居自炊」が話題になる詩人や作家といえば、私は宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しか知らない。そこで、光太郎の周辺を探ればそのヒントがあるかもしれないと直感したので彷徨いてみたならば、光太郎のある著書が目に留まった。それはずばり高村光太郎の随筆集『獨居自炊』である。そしてその発行は昭和26年6月であった。昭和26年といえば、昭和20年花巻(太田村山口)に「自己流謫」してから7年目となるから、花巻に疎開していた時の出版となる。
因みにこの随筆集の巻頭を飾るのが次の随筆で、それこそ題が「獨居自炊」であり、
獨居自炊
ほめられるやうなことはまだ為ない。
そんなおぼえは毛頭ない。
父なく母なく妻なく子なく、
木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
草の葉をむしつて鍋に入れ
配給の米を餘してくふ。
私の臺所で利休は火を焚き、
私の書齋で臨濟は打坐し、
私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
六十年は夢にあらず事象にあらず、
手に觸るるに隨って歳月は離れ、
あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
一二三四五六と或る僧はいふ。
―昭和一七・四・一三―
<『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)>
というものであった。
この随筆集の発行は昭和26年だから、この随筆『獨居自炊』も太田村山口に疎開している頃に書かれたものかと最初は思った。ところが、実はこれは昭和17年4月13日にしたためたもののようだから光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。実際調べてみるとたしかに光太郎は昭和14年からアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。
もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口でまさしく「独居自炊」生活をしたいたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推理した、
☆この昭和26年の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』がこの変化の切っ掛だったのではなかろうか。
と。出版の時期昭和26年というタイミングも、そのタイトルもちょうどピッタリであるからである。
当初は賢治の「下根子桜時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても「独居自炊」というキャッチフレーズが冠されるようになっていったのではないかと推測した。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。
そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて次のように使い始めてからではなかろうか。
大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。
<『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』の小倉豐文「解説」>
ただししばらくはこのキャッチフレーズは定着しなかった。ところがいつの間にか、おそらく昭和50年代に入った頃からは次第に定着していったのではなかろうか、と推理してみたのだが…。
続きへ。
前へ 。
“ 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』の目次(改訂版)”へ。
〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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1 一体いつから「独居自炊」に
振り返ってみるに、なぜ私はここまでこんなことを行ってきたのか。それは少し前までの私は、「下根子桜時代」の宮澤賢治は「独居自炊」生活をしていたとばかり思っていた。ところが実は約半年間賢治は千葉恭という人物と一緒に暮らしていたということを、賢治は「下根子桜時代」は〝独居〟じゃなかった期間もあったのだということを知ってしまった。そしてあっそうか、これが賢治の甥の一人が約40年前に
「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまい、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことは簡単には明らかに出来なくなってしまった」
というような意味のことを私達に語ってくれていたが、その一例なのかも知れない。そう思ったら急に、賢治と一緒に暮らした男にまつわる賢治の真実を私は知りたくなっていた。ただそれだけでここまでやってきたような気がする。
そのことがあって関連資料を漁っているうちに、『あれっ?』と思ったことがある。それは幾つかの宮澤賢治関連図書等を見ていて、賢治の「下根子桜時代」を決まり文句の「独居自炊」というキャッチフレーズで昔から修辞していた訳ではないということにふと気が付いたのである。
そこで、「下根子桜時代」のことをはたして「独居自炊」と修辞しているかどうか、主な賢治関連図書等について発行年順に並べてみると以下のようになる。
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【「独居自炊」に関する文献】
(1)『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年、羽田書店)
1p 故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふを開設して、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の研究に餘念なく、精根の限りを盡された。
(2)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)
3p (宮澤賢治略歴)
大正十五年四月 花巻町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。
(3)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋版)
175p 谷川徹三
大正十五年四月花巻町下根子字ニ羅須地人協會開設。同所ニ於テ農耕ニ從事自炊ス。
284p 三浦參玄洞
大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協會といふのを設けて自炊生活を營みながら農耕に從事した。
324p 菊池武雄
私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適當でないが)を訪れたのは…
436p 白藤慈秀
宮澤君は或る事由によりて大正十五年三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通はぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
年譜13p 四月、花巻町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(4)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山房)
257p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)
(5)『宮澤賢治覚え書』(小田邦雄著、昭和18年、弘學社)
206p 大正十五年農學校を退職し、花巻町の櫻に自炊生活をしながら本格的開墾に入り、農耕に從つた。
(6)『雨にもまけず』(斑目榮二著、昭和18年、富文館)
158p 賢治は、學校を止めてほどなく、亡妹とし子が、いたついて臥つてゐた下根子櫻の、から松の林の丘のうへにある、柾葺屋根の二階建ての別宅に、一人、居をかまへた。
(7)『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)
<昭和19年9月20日の講演「今日の心がまえ」より>
17p ―賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊しながら、附近を開墾し半農耕生活を始めた…
(8)『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和22年、眞日本社)
6p 花巻農學校を依願退職したのは三十一歳の昭和(ママ)十五年三月三十一日で、四月にはこの櫻の家に地人協會を開設しました。…
賢治はこの家にゐて自ら農耕に從事し、農村の求めに應じて農事講演を行ひ…
(9)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)
宮澤賢治略年譜
125p 大正十五年(三十一歳)
四月、花巻町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。
(10)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)
8p 三十八年の生涯を通じて獨身であつた賢治は、三十一歳の三月末には、農學校教師の職をしりぞいて、ひとり農耕し自炊する生活をはじめた。
275p (宮澤賢治略年譜)
大正十五年(一九二六)三十一才
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。
(11)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)
172p 宮澤賢治が野の人として、こうして全農民の「病苦」をいやすべく、花巻、下根子に自炊生活を始めることになったのは大正十五年、三十一才の四月である。
261p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一才
四月 花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。
(12)『昭和文学全集14宮澤賢治集』(昭和28年発行、角川書店)
376p 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。<「小倉豐文解説」>
(13)『宮沢賢治物語』(関登久也著、昭和32年、岩手日報社)
134p 四月には、花巻の郊外下根子桜の地にある宮沢家の別宅に ただ一人移り住み、自炊の生活を始めました。
(14)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)
496p (年譜) 大正十五年四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(15)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)
372p (宮沢賢治年譜) 大正一五年・昭和元年(一九二六)三一歳
四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。
(16)『宮沢賢治』(中村稔著、昭和47年、筑摩叢書)
258p 大正十五年(一九二六年)三月農学校を退職した彼は花巻校外下根子桜の宮沢家の別宅に独居して自炊し、付近を開墾、耕作することになった。
(17)『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、昭和47年、トリョウーコム)
67p 学校を退かれた宮沢さんは、実家から約二キロ離れた花巻市桜町の一角、閑静の地にある宮沢家の別宅に羅須地人協会を設立し、ここで自耕自炊の簡単な生活をするようになった。
(18)『宮沢賢治修羅に生きる』(青江瞬二郎、昭和49年、講談社現代新書)
130p 大正十五年四月、賢治は下根子桜の別荘を手入れしてそこに入り、ひとり住まいの自炊生活に入った。
(19)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年、筑摩書房)
593p 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。
(20)『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、昭和53年、東京創元社)
22p 退職すると彼はすぐ郊外の大字根子桜(現在の花巻市桜町)の宮沢家の別宅を多少改造して入り、近くの北上川岸の土地を開墾して畑を作り、独居・自炊・自耕・自活の生活に入った。
(21)『宮澤賢治論』(西田良子著、昭和56年、桜楓社)
「雨ニモマケズ」論
172P 賢治はそれまで勤めていた花巻農学校をやめて、四月から花巻町のはずれの大字下根子小字桜に小屋を建てて、晴耕雨読の独居自炊生活を始めた。
(22)『新編銀河鉄道の夜』(平成元年、新潮文庫)
355p 大正十五年・昭和元年(一九二六)三十歳 四月一日から下根子桜で独居自炊を始める。
(23)『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、平成14年、文春文庫)
185p 一九二六(大正十五)年三月、花巻農学校を退職した三十歳の賢治は、花巻川口町下根子の宮澤家別宅で独居自炊の生活に入った。
以上
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こうやって並べてみると幾つか気が付くことがある。それは次のような事柄である。
・関連図書を発行年順に並べてみると、早い段階では今では決まり文句になっている「独居自炊」というキャッチフレーズが使われていないことにまず気が付く。当初は殆ど〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
・一方、年代が下って昭和50年代以降からはほぼこのフレーズ「独居自炊」が「下根子桜時代」を修辞する決まり文句として定着してしまった、の感がある。
・このリストの中での「独居自炊」の初出は昭和28年である。ただしその後もしばらくは殆どの著書においては〝自炊〟だけであり、〝独居〟の部分はない。
そこで思うことが二つある。
まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という修辞はないから、実は「下根子桜時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識はなかったのではないかということである。つまり、〝独居〟ではなかったと思われていた可能性がやはりあるのではないこということであり、長期間賢治と一緒に、それも結構早期の段階から下根子桜で寝食を共にしていた人物(千葉恭)がいたことはもしかすると周知の事実だったのではなかろうか、ということである。ところが時の流れは事実を風化させたり変えたりすることがある。誰かが、それも大きな影響力を持つ誰かが事実と違うことを言い出したりすれば…。その典型的な一つ事例なのではなかろうかと。
そして二つ目は、少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだということである。
2 高村光太郎の随筆集『獨居自炊』
当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
実際、『校本宮沢賢治全集』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
「四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した」
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、平成13年版)の年譜になると例に漏れず
「四月一日(木) 豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る」
となっていて、いつのまにか決まり文句の「独居自炊」に書き替えられているのである。
さて前にも触れたように、
「少なくとも昭和28年より前には「独居自炊」という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだ」
という疑問を私は抱いた。
一方、一般に「独居自炊」が話題になる詩人や作家といえば、私は宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しか知らない。そこで、光太郎の周辺を探ればそのヒントがあるかもしれないと直感したので彷徨いてみたならば、光太郎のある著書が目に留まった。それはずばり高村光太郎の随筆集『獨居自炊』である。そしてその発行は昭和26年6月であった。昭和26年といえば、昭和20年花巻(太田村山口)に「自己流謫」してから7年目となるから、花巻に疎開していた時の出版となる。
因みにこの随筆集の巻頭を飾るのが次の随筆で、それこそ題が「獨居自炊」であり、
獨居自炊
ほめられるやうなことはまだ為ない。
そんなおぼえは毛頭ない。
父なく母なく妻なく子なく、
木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
草の葉をむしつて鍋に入れ
配給の米を餘してくふ。
私の臺所で利休は火を焚き、
私の書齋で臨濟は打坐し、
私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
六十年は夢にあらず事象にあらず、
手に觸るるに隨って歳月は離れ、
あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
一二三四五六と或る僧はいふ。
―昭和一七・四・一三―
<『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)>
というものであった。
この随筆集の発行は昭和26年だから、この随筆『獨居自炊』も太田村山口に疎開している頃に書かれたものかと最初は思った。ところが、実はこれは昭和17年4月13日にしたためたもののようだから光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。実際調べてみるとたしかに光太郎は昭和14年からアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。
もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口でまさしく「独居自炊」生活をしたいたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推理した、
☆この昭和26年の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』がこの変化の切っ掛だったのではなかろうか。
と。出版の時期昭和26年というタイミングも、そのタイトルもちょうどピッタリであるからである。
当初は賢治の「下根子桜時代」の修辞としては使われていなかった「独居自炊」であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆集『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても「独居自炊」というキャッチフレーズが冠されるようになっていったのではないかと推測した。他ならぬ高村光太郎のそれであればなおさらに。
そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて次のように使い始めてからではなかろうか。
大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。
<『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』の小倉豐文「解説」>
ただししばらくはこのキャッチフレーズは定着しなかった。ところがいつの間にか、おそらく昭和50年代に入った頃からは次第に定着していったのではなかろうか、と推理してみたのだが…。
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