みちのくの山野草

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「一本足」論争(経過報告2)

2024-07-08 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

*****************<(6)↓投稿者鈴木守/2013年10月 6日 6日 15:03>*****************
MSS様
 申し訳ございません。クリックの仕方がまずくて二重投稿になりましたので、一部削除お願いいたします。

*****************<(7)↓投稿者H氏/2013年10月 6日 16:17>**********************
鈴木さんの同一の投稿が二重になっておりましたので、一方は削除させていただきました。
このシステムは、すぐには投稿結果が反映されない時があるようで、ご不便をおかけして申しわけありません。

さて、話の続きですが、賢治が上京前に「三ヵ月は滞京する」と言ったからといって、実際に三ヵ月滞京したかどうかはまた別問題なので、これはこれで検証しなければならない事柄だと思います。
もしも、「賢治は言葉にしたことは必ず実行する」などと考えるならば、それは鈴木さんも批判されるところの、一方的な聖人君子化になってしまいます。

現に、たとえば賢治は大正10年1月に上京した時には、父親に「御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますから…」(書簡189)と言い、父が法華経に改宗するまでは帰郷しないと「誓って」いたのですが、その年の夏頃に、父は改宗していないままに、花巻に帰りました。
したがって後の上京においても、直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います。

また、沢里武治の、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という言葉の解釈ですが、この部分については、沢里がどこまで具体的な情報をもとに言ったことなのか、慎重に受けとめる必要があると思います。
沢里武治という人が、真摯で真面目な人柄の方だったと思われることは、その残された証言から、私も十分に感じるところです。
しかしそのことは、当然ながら「沢里の証言はすべて真実である」ということを意味するわけではありません。これは上に述べたように、賢治の言葉がすべてそうだとも言えないことと、同じです。

私は思うのですが、沢里武治自身は、昭和3年の前半に関しては、賢治の動静に関する具体的な情報は持っていなかったのではないでしょうか。
昭和3年の9月に、沢里は賢治から書簡243を受け取りますが、そこには、「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです」と書かれていました。
私の推測では、沢里の中では、この書簡にある「東京」と、自分が見送った「上京」が重なり合ってしまって、いつしか二つの上京を同一視してしまった結果、それが「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」という記述になり、ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです。
もちろん細かく考えると、「昭和2年11月から3ヵ月」と、「6月」では勘定が合いませんが、人間が何かを勘違いする時には、こういうズレはありえることでしょう。
まあ、上の推測が当たっているかどうかはともかく、誰の「証言」を取り上げる場合でも、それが直接見聞きした事柄なのか、その人が推測したことなのかを、しっかりと判別して受けとめる必要はあると思います。「尊重する」ことと、「そのまま全て真実とする」ことは、別です。

ということで、私としては、「賢治自身は3ヵ月滞京したいと沢里に言ったけれども、実際には諸般の事情で1ヵ月弱で帰郷することになった」と考えるのが、鈴木さんのおっしゃる「矛盾」を解決するための、最も自然な解釈だと思うのです。

それからあともう一つ、鈴木さんは上記においても「証言のつまみ食い」を厳に戒めておられますが、沢里自身は「昭和2年11月」という自分の記憶を自ら訂正して「大正15年」とし、晩年もそう語っていたわけですから、ここで鈴木さんが彼自身による訂正の方は採用せず、「昭和2年11月」を論拠とされるならば、これも「証言のつまみ食い」になってしまうのではないかと私には思えるのですが、どんなものでしょうか。

*****************<(8)↓投稿者鈴木守/2013年10月>**********************
MSS様
 二重投稿につきましては大変ご迷惑をお掛けしました。削除していただき有り難うございます。
 さて今回の件、少し時間をおいて冷静に振り返ってみてからこのコメントを書いています。
 といいますのは、私たちはお互い何を得ようとしてこの議論をしているのだろうかという疑問が生じてきたからです。このまま繰り返すとそれは「ためにする議論」となってしまう危惧を抱き始めているのです。
  *************************************
 さて、「新校本年譜」の大正15年12月2日の典拠は澤里武治の証言(『随聞』の「沢里武治氏聞書」及び『宮沢賢治物語』「セロ沢里武治氏から聞いた話」)であるということの共通認識は持つことができました。
 となれば、一般的にはこれらの総体がその典拠ということになります。当然、その証言の中の一部のみを使い、他の一部は無視するという恣意的な使い方をして論理的に思考することは原則許されませんし、そもそも出来ないことであります(そして、それが「証言」というものの本来の扱い方でしょう)。仮に、もしそういうことが許される可能性があるとすれば、それは客観的な他の資料や証言と矛盾した場合だけでしょう。ただし、それが主観的なものであればそれは到底許されないことです。
 なぜならば、客観的な資料や証言を基にしないような議論は「ためにする議論」でこそあれ、そこからは何ら得られることはないからです。
 そこでお願いです。たとえば、MSSさんが、
・『直前に「三ヵ月は滞京する」と言っていたとしても、実際にそうしたかどうかは、何とも言えないと思います』
と仰るならば、仮想ではなくて客観的な資料や証言をぶっつけてください。つまり、「そうしなかった」という客観的な証拠を提示してください。
・『ひいては問題の「昭和2年上京」という、時期の勘違いの原因ともなってしまったのではないか、と思うのです』
と仰るのであれば、「勘違い」をしていたというその客観的な証言や資料を私にぶっつけてください。
 そうではなくて、このような『…思います』ということを基にしてあれこれ議論していたのでは、何でもありになってしまい時間はいくらあっても足りませんし、そのような議論からは賢治の伝記に関する真実は見つかりません。

 そこでお願いです、もしこの議論を今後も続けようということであれば、客観的な資料に基づいて行いませんか。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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