みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

㈡ 二つは同じ構図

2024-06-24 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

  ㈡ 二つは同じ構図
 そして、単行本版『事故のてんまつ』を読んで気になっていたことの一つに「資料」もある。それは、同書の「あとがき」の中で、「川端さんの自殺のひきがねになったと思われる資料を入手した」とか「この資料を闇に葬り去るべきでない」と臼井が言うところの「資料」のことである。実は、『事故のてんまつ』を読んでいて、同書に登場する「客観的な事実」の信憑性がどうも危ういのではなかろうかと私は危惧し、それは臼井が言うところのこの「資料」のせいではなかろうかと直感したからだ。
 そしてこのことに関しては、『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)の中に、次のような長谷川泉の主張が載っていることを知った。
 (一)作品の素材と作品形成の過程
「事故のてんまつ」の素材となったのは「鹿沢縫子」の原話である。しかもこの原話は、川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏という伝達の経路を辿っている。臼井氏は「蔦屋」から取材したのであって、「当事者たる川端家の人間たちとモデルの女性」から直接取材したり、情報の提供を受けたものではない。
〈同11p〉
 やはりそういうことだったのかと合点がいった。臼井が言う「資料」とは長谷川の言うこの「原話」のことかと、腑に落ちたからだ。よって、この「資料」とは、伝聞の伝聞そのまた伝聞(川端家→「鹿沢縫子」→養父→「蔦屋」→臼井氏というルートを辿っている)「鹿沢縫子」の原話にすぎないということが否定出来ず、そのせいで投稿者の私は信憑性が危ういと感じたようだ。というわけで、臼井の言う「資料」は事実に基づいたものであるという保証はないし、検証されたものでもない。まして、一次資料でもない。そしてそのような「資料」を、
 「事故のてんまつ」が部落問題を安易に作品の肉づけに用いた軽率さは、井上靖氏や安岡章太郎氏らの警告にもかかわらず、しだいに社会問題化した。…投稿者略…臼井氏が「資料」を五年間暖めた最大の理由がマスコミ界の「モデルさがし」を恐れるところにあったことが述べられているが、そこには差別問題に対する認識の浅薄さと配慮の不足が露呈されている。〈同17p〉
と、長谷川は指摘していて、私はそのことを肯わざるを得ない。
 しかも、この事件についての「総括見解」である〝「事故のてんまつ」をめぐっての報告と御挨拶〟が、『展望』(昭和52年10月号)に掲載され、その中で、
 たとえば作品にかかわる差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず、差別打破のための強く明確な場所に立っていたとは必ずしも申しがたい点がありましたことも、痛切な反省とともに、さらに認識を深めつつあるところであります。〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)114p~〉
というように、「差別の問題について顧みるとき、出版者としての私どもの配慮が十分に行きとどかず」と、「株式会社 筑摩書房」の名で「痛切な反省」をしているから、なおさらにである。
 そして、先に引用したように、「小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ……筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた」ということで、昭和52年8月16日に和解が成立したのだそうだ。ちなみに、その際の「和解条項」の中には、川端の遺族およびモデル側に「ご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します」という臼井の謝罪もあった。
 ただし、『筑摩書房 それからの四十年』によれば、
 この事件は新聞等でもセンセーショナルに報じられ、結果的に『事故のてんまつ』が三五万部のベストセラーとなったのは、なんとも皮肉なことというべきである。売上率はかぎりなく一〇〇%に近かった。
 これまで筑摩書房がもっていた売り上げ部数の記録は、正確な統計が残っているかぎりで、山崎朋子『サンダカン八番娼館』(一九七二年)の三〇万部だった。
〈同117p〉
ということだから、実質的には「絶版回収」とは言い難い気がして、私からすればあまり後味はよくない。
 とまれ、私は、先に述べたように最初は、「「初めての絶版回収事件」という項もあった。……「腐りきって」いた事例なのかなと直感した」のだが、どうやらそれは直感ではなくて、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきってい」たことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった。
 一方で、私はあることに気付く。それは〝『事故のてんまつ』の出版〟と〝「新発見の書簡下書252c等の公表〟の二つは次の点で酷似していて、
㈠ 両者とも、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」という、まさに倒産直前の昭和52年になされたことである。
㈡ 両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)がそれぞれ亡くなってから、程なくしてなされたことである。
㈢ その基になったのは、共に事実とは言い切れない、前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」である「鹿沢縫子」の原話であり、後者の場合は賢治の書簡下書(所詮手紙の反故であり、相手に届いた書簡そのものではない)を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した「推定群⑴~⑺」である。
㈣ 共に、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題がある。
㈤ 共に、スキャンダラスな書き方もなされている。
ので、この二つは同じ構図にあるということに気付く。
 ということは、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの事例そのものであったと私は判断せざるを得なくなった、と先程述べたが、これと酷似した構図がこちらの〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟にもあったから、これもまた、一つの「腐りきって」いた事例であったのかと私は覚った。だから、『校本宮澤賢治全集第十四巻』はあんな杜撰なこと、
 そうとは言えそうもないのに「新発見」の、とかたり、推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を昭和52年に公表した。
のか、ということも。そしてそれは、傾きかけた自社をなんとか建て直そうとしてとった行為(実際、この倒産の直後、「校本宮沢賢治全集」は注文が三割も増えたということが、前掲の社史の145pに書いてあることを知って、やはりな、と私は複雑な気持ちになった)とも考えられるが、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は結果的に高瀬露の人格を傷つけ、尊厳を貶めてしまったわけで、出版社であればとりわけ許されることではないはずだ。まるで、天につばを吐くような行為だからだ。だから、当時の筑摩書房はやはり「腐りきって」いて、「良心的出版社」ではなくなっていたと言うべきだろう。それは、矢幡洋氏の次のような指摘によってなおさらそう思えた。

 続きへ。
前へ 
 〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 賢治詩碑「種山ヶ原」(6/20) | トップ | 種山高原(6/20、初見のヒヨ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

菲才でも賢治研究は出来る」カテゴリの最新記事