みちのくの山野草

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⑹ 稲の最適土壌は中性でもアルカリ性でもない

2024-06-28 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 では今度は、「稲の最適土壌は中性である」というのが通説のようだが、実はどうやら、
  ⑹ 稲の最適土壌は中性でもアルカリ性でもない
ということについてである。
 かつての私は、
 「羅須地人協会時代」の賢治は農民のため、とりわけ貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に病に倒れたが、彼の稗貫の土性や農芸化学に関する知見を生かした稲作指導法によって岩手の農業は大いに発展した。……①
と高く評価していた。具体的には、とりわけ同時代の賢治は、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いという陸羽一三二号を近隣の農家のみならず、岩手に広めたということで高く評価されていると私は思っていた。そしてこれも通説だと思っていた。
 ところが、『水沢市史 四』(水沢市史編纂委員会編) 等によれば、同品種は大正13年には既に岩手県の奨励品種となっていたとある。また、堀尾青史が花巻農会を訪ねた際、
 賢治のやったことは、当時農会でもやってましたよ。陸羽一三二号だってとっくにやってました。何も特別なことはないですよ。 〈『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)338p~〉
と職員から言われたという。従って、同品種の普及は賢治一人の力によってだったとは言えないだろう。おのずから、先の〝①〟のような高評価はできないので、どうやら私は今まで過大評価をしていたようだ。
 あるいはまた、同時代の賢治は従来の人糞尿や厩肥等が使われる施肥法に代えて、化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与したと私は思っていた。ところが話は逆で、賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽一三二号を推奨することだったとなるだろう。ただし同品種は金肥(化学肥料)に対応して開発された品種だった<*1>からそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導法だったということにならざるを得ない。従って、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時農家の大半を占めていた貧しい小作農や自小作農(『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)の297pによれば、当時小作をしていた農家の割合は岩手では6割前後もあった)にとってはもともとふさわしいものではなかったということは当然のことである。
 ちなみに、羅須地人協会の建物の直ぐ西隣の、協会員でもあった伊藤忠一は、
 私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもにはとても手が出なかった。〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
と述懐しているという。つまり、賢治から金肥を施用すれば水稲の収量は増えると教わっても、大半の農家は金銭的な余裕などなかったので、金肥が容易には買えないというのが実態だったと言えるだろう。まして、金肥を施用して多少の増収があったところで、その当時の岩手県の小作料は五割強(『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)の113pによれば、普通収穫田の岩手県の小作料は大正10年の場合、54%)もあったから、小作をしている零細農家としてはそれほど意欲が湧くはずもない。それもあってか、「当時このあたりで陸羽一三二号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ」と、賢治の教え子である平來作の子息國友氏が証言していた(平成23年10月15日、平國友氏宅で聞き取り)が、宜なるかなだ。
 つまるところ、「羅須地人協会時代」に如何に賢治の熱心な指導があったとしても、陸羽一三二号を推奨する稲作指導法は、大半の貧しい農家にとってはもともとふさわしいものではなかった。よって、賢治は化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与した、ということも私の誤解だったようだ。

 また、賢治の稲作指導で巷間評価されているものとして石灰施用の推奨もあると思う。実際、賢治の肥料設計書には「石灰岩抹」の項がある。そしてそれは、「岩手の酸性土壌を中和させるために石灰が必要」というのがその施用の理論であったと言えよう。それ故にであろう、賢治から指導を受けた協会員の高橋光一は、
   「いまに磐になるぞ。」 〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)285p〉
と呆れられる程の石灰を撒いたことがあった、と追想している。
 ところが、平成28年9月7日に、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の一人、工藤留義氏(昭和2年生れ)に私は会うことができて、
   水稲は酸性に耐性がある。
ということを教わった。私はハンマーで頭を叩かれた。そのようなことはそれまで一度も考えたことがなかったからだ。水稲の場合、酸性土壌は不適であり、中性でなければならないのだというのが通説だと私は思っていたのだった。そこで慌てて農林水産省のHPによって調べてみたところ、やはり工藤氏の言うとおりで、
 水稲の場合の耕土の最適なpH値は〝5.5~6.5〟の範囲の値であること、すなわち微酸性~弱酸性である。
とあった。水稲にとって最適な土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、弱酸性~微酸性(pH5.5~6.5)だったのだ。
 そこで私は次に、北上市にある『農業科学博物館』を訪れ(令和2年3月27日)て館員の方に、
 多くの賢治研究者は、稲にとって最適土壌は中性だと思っているようです。ところが実は、それは弱酸性~微酸性、pHが5.5~6.5だと知ったのですが。
と訊ねてみたならば、
 かつては皆さんはそう思っていたようですが、最近は、(農業関係者ならば皆)弱酸性~微酸性だということは知っておりますよ。
と教えてくださった。そこで、「もしかすると、知らないのは私たちだけ?」と心の内で思わず声を上げてしまった。そのようなことを指摘していた賢治研究者等を私は誰一人見つけられずにいたからだ。続けて私は、
 石灰は撒きすぎると田圃が固くなってよくない、とも聞くのですが。そして、実際にある篤農家に直接訊いてみたならば、「田圃に石灰を撒くことはかつても、今でもない」とも教わったのですが。
と話したならば館員の方は、
 そのとおり固くなります。やり過ぎはよくありません。田圃に石灰を施与する人はあまりいないと思いますよ。畑は別ですが。
ということも教えてくれた。
 やはりそういうことだったのかと、私は得心した。そして、石井洋二郎氏のあの警鐘、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること……〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式辞式辞〉
の重要性を改めてかみしめた。

 思い返してみれば、私は地元花巻に住んでいるので、「賢治の言うとおりにやったならば稲が皆倒れてしまった、と語っている人も少なくない」ということを実は仄聞していたから、もしかするとそれは石灰のやり過ぎが原因の一つだったのではなかろうかとつい疑ってしまった。つまり、あの高橋光一のように石灰を撒きすぎて<*2>最適なpH値を越えてしまったせいで倒伏してしまったこともあったのではなかろうか、と。ちなみに、「いまに磐になるぞ」と言われるほど撒いたということは、高橋は石灰を撒けば撒くほどよいと認識していたからだと解釈できる。だから逆に、賢治は水稲の最適なpH値を教えていなかったのではとか、はたして適性なpH値を知っていたのかとか、その土壌のpHを測った上で石灰を施用していたのだろうかという不安や疑問が次々に湧いてくる。
 それは、花巻農学校で賢治の同僚でもあった阿部繁が、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほんとうなのです。〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~〉
という冷静で厳しい評価をしていたからなおさらにだ。もちろん、賢治と雖も時代を超えることはできない(もしかすると、土壌の最適なpHは5.5~6.5であることが当時は未だ知られていなかったかも知れない)。
 どうやら、「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めていた貧しい農民たちにとってはふさわしいものではなかったので、彼等のために献身できたとは言えない、ということをそろそろ私は受け容れるべきかなと思い始めた。言い換えれば、あの吉本隆明がある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。 〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉
と語っているような程度のものが賢治の稲作指導等の実態であったということを、だ。
 それは当の賢治自身もしかりで、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)における、
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
〈『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)〉
という記述から、いみじくも「羅須地人協会時代」における賢治の農民に対しての献身の実態が容易に窺えるし、「根子」における賢治の営為がほぼ失敗だったことを賢治は正直に吐露して恥じ、それを悔いて謝っていたのであろうことからも窺える。

 よって、「羅須地人協会時代」の賢治は「サムサノナツハオロオロアルキ」したことはなかったということは既に明らかにしたし、今回「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えないということも明らかになったから、結局「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」たいと願ったかも知れないが、実際にそうしたわけではなかったということになった。
 それは、宮澤家別宅の西隣に住んでいた伊藤忠一が、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。 〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
というように証言しているし、また、宮澤家別宅で賢治と一緒に暮らしていた千葉恭も、
   賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかった
と語っていた、と恭の三男が言っていた(平成22年12月15日聞き取り)からなおさらにである。
 とは思いつつもしかし、いやこれは私の考え方がどこかで根本的に間違っているせいかも知れない、と逡巡していた。ところが、佐々木多喜雄氏(元北海道立上川農業試験場長)の次のような鋭い指摘、
 「農聖」と讃えられる程の人物であるなら、生前ないし没後に神社にまつられるとか、頌徳碑や顕彰碑などが建立されて、その事蹟をしのび後世に伝えられることなどが、一般的に行われることが多いと考えられる。…投稿者略…
 一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事蹟を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事蹟が無いことから当然のことと言えよう。
〈『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~〉
を知ったことによって私は完全にこの逡巡が吹っ切れた。
 確かにそのとおりで、花巻周辺には賢治の顕彰碑の類は一切見つからないからだ。だがその一方で例えば、田中縫次郎(宮野目地区の養蚕業に多大な貢献をした)の顕彰碑が花巻市宮野目の神社境内に、花巻出身で『リンゴ博士』とも呼ばれる島善鄰の顕彰碑が花巻市高木にそれぞれ建っている。また、その他にも農業関係者である、
 ・平賀千代吉
 ・阿部博
 ・継枝弥平太
 ・菅木友次郎
 ・佐々木門蔵
等の顕彰碑とか頌徳碑が花巻市には見つかる。
 畢竟するに、残念ながら、賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった、という断定を甘受するしかないようだ。
 なお、以上が真相であったとしても、だからといって賢治作品の輝きが色褪せるということではもちろん全くない。賢治の多くの作品は相変わらず燦然と輝き続けるだろうし、今後も賢治ほどの作品を書けるような人物はそう簡単には現れないであろうことは、私のような者にさえも明らかだ。ただし、今の時代はかつてとは違って賢治作品の素晴らしさは万人のほぼ認めるところなのだから、そうでもないのに賢治を聖人・君子に、はたまた農聖に祭り上げる必要はもはやなかろう。だからこれからは、本当の賢治に戻してやることが賢治のためでもあるのではなかろうか。そしてそうした方が逆に、これからの若者たちはもっともっと賢治及び賢治作品に惹かれるようになるのではなかろうか。

<*1:投稿者註> 『岩手県の百年』によれば、
 大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入にも対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応をせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。反面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』) 
             <『岩手県の百年』(長江好道等著、山川出版)124p>
 また、大島丈志氏によれば、
 陸羽一三二号は、近代化学肥料によって育成されたため、多肥性の品種であり、多くの購入肥料=金肥の投下が必要であった。…(投稿者略)…これらの肥料の購入は自給自足的であった農村を急速に商品経済に組み込むこととなった。しかし、肥料商から金肥を買い、金肥を投下して豊作となっても、米価の下落で、豊作貧乏となり、肥料購入費が負債となることによって小作などの貧しい農家は困窮することになった。
            <『宮沢賢治の農業と文学』(大島丈志著、蒼丘書林)223p>
<*2:投稿者註> 高橋光一が伝える羅須地人協会時代の次のようなエピソードがある。
 土地全體が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた時には、これも氣に入らず、表土一面真っ白になった樣子に、さも呆れて「いまに磐になるんぞ。」とか、「あれやぁ、龜ヶ森の會社に買収されたんだべ。あったな事すてるのは……。」とかさまざまでした。けれども私は負けませんでした。先生のおっしゃる事を信じていたからです。〈『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(草野心平編、筑摩書房)285p〉

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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