みちのくの山野草

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「このような教材を使って子どもたちを騙すことは避けるべき」

2024-06-17 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 ちなみに、菊池忠二氏は『私の賢治散歩 下巻』で次のようなことを論じているからだ。
      前夜の面談
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…投稿者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
 この年九月十九日の夜は、当時の花巻祭りの最終日であり、宮沢賢治は御旅屋から鳥谷ヶ崎神社の本殿にかえる神輿をぜひ拝みたいというたっての希望で、店先にたってそれを見送ったといわれている。このころになると岩手における昼夜の気温差は、いちじるしくなるのが通例である。この十九日はとくに好天で朝の気温八・三度が日中には二三・八度まで上っており、その落差はなんと一五・五度にもおよんでいる。(翌日の「岩手日報」)それは夜になっても同じことだったであろう。…投稿者略…この冷たい夜気にあたったことが、長期の療養生活で体力のおとろえていた賢治に大きな影響をあたえずにはおかなかった。
 この時の様子について叔父の宮沢磯吉は、二階の病室から賢治をみんなでおろして店先で拝ませたものだった、という回想を後年「岩手日報」に寄せていた。今から三十余年も前のことで、その記事の切りぬきを失ってしまったからたしかめようがないけれども、私はそれほど賢治が衰弱していたんだなという印象をつよくもったことを覚えている。『賢治年譜』にも「九月十九日」の項に、「……みんなで手伝って二階からおろし、門のところへ出て」神輿を拝んだことが記されているから、それは事実であったと思われる。
 翌二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。私はこの知らせを誰が、どのようにして、賢治本人のところへ取りついだのか疑問なのである。この日の賢治の病状からすれば、そのわけを話して農民にひきとってもらうことも十分できたはずである。…投稿者略…それを奥の二階の病室にいる賢治のところへ、直接に取りつぐことがはたしてできたのだろうか。すくなくとも店とつづきの常居にいた家長である父政次郎にこのことを知らせ、相談のうえでその許しをえなければ、とうてい賢治のところに取りつぐことはできなかったはずである。
 もしほかの「誰か」が宮沢家の家人をさすとすれば、この日賢治の容体がどのように変っていたかを、もっとよく知っていたはずの家族の「誰か」が、農民からの用件を不用意に本人へ取りつぐのだろうか。やはり父親なり母親と相談のうえでなければ、とてもできないことだったのではなかろうか。
 このことで父政次郎が、どのような判断をくだしたのか皆目わからない。あるいは短かい時間の面談ならやむをえないとでも考えたのだろうか。それとも農民がやってきたとき、たまたま父親が常居の座をはずしていたのだろうか。ともかくこの件は、賢治のところへ取りつがれたものらしい。
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…投稿者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…投稿者略… それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問にわかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方はバラバラしながら早く終わってくれるのを祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…投稿者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである。
             〈「「雨ニモマケズ」私考」(『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~〉

 私は上掲の菊池氏の論考「前夜の面談」と、これは常識的におかしいと思える先に引いた ⑴~⑶ とを読み比べていると、前者の記述の方が遥かに説得力があると判断したくなる。つまり、信憑性が高いと。それは、賢治に関することを私はここ十数年間ほど検証し続けてきたのだが、その結果、
 定説とはなってはいるものの、常識的に考えればこれはおかしいと思われる事柄については、「仮説検証型研究」という基本的な研究手法に依って調べてみたところ、常識的に考えておかしいと思ったところは、ほぼ皆いずれもおかしいということを痛感してきた。
からなおさらに、私も同様に、「翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかく」も対談できるはずがないでしょうと思えてならないからだ。
 それゆえ、菊池氏の「これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである」という願いに私も深く共感し、真実が明らかになってほしいのである。さもないと、この「見知らぬ農夫」は恥知らずとなじられ、延いては農民はやはり愚鈍だと言われかねず、もしこれが事実でなかったならば花巻の当時の農民の人権を傷つけ、濡れ衣を着せたことになるからだ。

 そして、佐々木多喜雄氏も終焉前日の面談について同じような疑問を呈しているのだが、このことについてはかつての私の投稿〝佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#13)〟をご覧頂きたい。

 とまれ、この賢治終焉前日の面談については賢治の死に関わることだから余りにも畏れ多くて、以前の私は論ずることも疑うことも避けてきたのだが、事ここに至った以上もはや等閑視すべきではない。真実を明らかにすべきだと覚悟して再検証してみたのであった。それが拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』であり、今後はこの拙著に関して投稿してゆく。

 それは、Copilotに、
    畏れ多くて疑うことを避けていた、賢治終焉前日の農民との面談
と聞いてみたならば、

賢治の終焉前日に農民との面談があったことは、興味深い話題ですね。この面談については、いくつかの異なる視点から議論されています。

まず、賢治の聖人化について考えてみましょう。賢治は農業や農民に対する神格化が強く、彼の人間性を超越した存在として捉えられています。1

一方で、賢治の「罪責感」についても触れておきましょう。彼は両親に対する罪悪感を抱えており、その意識は後年まで続いていました。2 このような背景から、農民との面談がどのような内容だったのか、興味深いですね。

教科書に載っている賢治終焉前日の面談についても議論があります。例えば、国語の教科書には嘘かも知れない内容が載っていることがあります。3 このような教材を使って子どもたちを騙すことは避けるべきであり、事実を実証することが重要です。

結論として、このままでいいのでしょうか?私たちは賢治の真実を知る機会を大切にし、子どもたちにも正確な情報を伝えるべきです。13

と回答してくれたからだ。
 とりわけ、特に後段の、
教科書に載っている賢治終焉前日の面談についても議論があります。例えば、国語の教科書には嘘かも知れない内容が載っていることがあります。3 このような教材を使って子どもたちを騙すことは避けるべきであり、事実を実証することが重要です。
結論として、このままでいいのでしょうか?私たちは賢治の真実を知る機会を大切にし、子どもたちにも正確な情報を伝えるべきです。13
を読み返しながら、なおさらそう覚悟したのであった。そして、Copilot のこの冷静で客観的な主張から、賢治研究に関わっている者は多くのことを学ばねばならないのだということもだ。

 具体的にはどういうことかというと、私のような菲才な者に出来ることは、泥臭いのだが、何度でも拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』等の投稿を繰り返すことを通じて、大人が純真な子どもたちを騙すということの恐ろしさを世に訴え、「このような教材を使って子どもたちを騙すことは避けるべき」だと言い続けることだ。そして、これが老い先短い私に与えられた最後の使命なのだと己に言い聞かせた。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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