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《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)
さて、門外漢で、非専門家の老いぼれからの「遺言」でもある拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』を出版し終え、これで恩師岩田純蔵教授からのミッションと私が勝手に思い込んでいた「聖人・君子化されすぎた賢治の本当の姿を明らかにせよ」にほぼ応えることが出来たかなと安堵し、私は胸をなで下ろしていた……のだが、ある大事な仕事がもう一つ残っていることに気付いてしまった。
それは、これまでは賢治の死に関わることだから畏れ多くて私は疑うことを避けていた定説、賢治終焉前日の農民との面談がどうやら事実であっとは言い切れないということを私は感づいたからだ。
ちなみに、この面談に関しては、⑴『新校本年譜』では、
九月二〇日(水) 前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎とのことである。政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあう。
そのあと賢治は、短歌二首を半紙に墨書する。
夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであった…投稿者略
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』〉そのあと賢治は、短歌二首を半紙に墨書する。
夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであった…投稿者略
となっておりこれがいわば定説と言える。
もちろん私(鈴木 守)も例に漏れず、大明敦氏が、
賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。当時の筆者もまたその一人であった。〈『宮沢賢治と保阪嘉内の「訣別」を巡って』大明敦、161p)〉
と懸念しているように、この定説を「事実」であるとかつての私は信じ込んでいた。しかも、よくよく調べてみると、現在使われていいる小学6年生の教科書である ⑵『国語⑥創造』には、
そして、一九三三年(昭和八年)九月二十一日が来る。
前の晩、急性肺炎を起こした賢治は、呼吸ができないほど苦しんでいた。なのに、夜七時ごろ、来客があった。見知らぬ人だったけれど、「肥料のことで教えてもらいたいことがある。」 と言う。すると賢治は、着物を着がえて出ていき、一時間以上も、ていねいに教えてあげた。
<『国語⑥創造』(光村図書出版、令和3年(2022年)122p)>前の晩、急性肺炎を起こした賢治は、呼吸ができないほど苦しんでいた。なのに、夜七時ごろ、来客があった。見知らぬ人だったけれど、「肥料のことで教えてもらいたいことがある。」 と言う。すると賢治は、着物を着がえて出ていき、一時間以上も、ていねいに教えてあげた。
ということが載っている。
そこで遡ってみると、私が小学生の頃の教科書である ⑶『中等新国語 文学編 二上』には、
かれが死の前日、見知らぬ農夫が肥料のことで尋ねてきたとき、病状を知っている家人は気が気でなかったが、かれは病床を起き出て階下の玄関に客を迎えた。そして、一時間もきちんとすわってていねいに教えていたということである。
<『中等新国語 文学編 二上』(光村図書出版、昭和26年(1951年))>という記述があった。確かに私も小学校でこのようなエピソードを教わった気がする。
いずれ、⑴~⑶のどの内容も似たり寄ったりで、ほぼ、「見知らぬ農夫が肥料のことで尋ねてき」たので、「呼吸ができないほど苦しんでいた」賢治は「衣服を改めて二階からおりて」「一時間もきちんとすわってていねいに教えていた」ということである。そしてその翌日賢治は没したということになる、まさにいずれの資料に従ったとしても、「農民のために自分の命を犠牲にしてまで賢治は献身した」ということになり、こような賢治はたしかに聖人だったとか農聖だったとか言われるだろう。
どうやら、私はこうして小学生の頃からの学校教育によって、「農民のために自分の命を犠牲にしてまで賢治は献身した」という賢治像を育んでもらったようだ。つまり、「聖人・賢治像」を育んでもらったのだろう。
がしかし、冷静に考えてれば、
常識的にあり得ないでしょうにこんな面談!
と声を大にして言いたくなる。それは、もしそこまで重篤であったならば、周囲の人たち・父母や家族は賢治の病状をその農夫に伝えて丁重にこの面談をお断りするのが筋であり、その方が賢治のためでもあり農民のためにもなる。ましてそもそも、何もわざわざ稲刈りも未だのこの時期のこの時刻に肥料相談せねばならない理由など微塵もないなかったはず。それは、この昭和8年は近年になく岩手は豊作の年だったのだからなおさらにだ。
言い方を換えれば、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』の昭和8年9月20日の記載について、筑摩書房は裏付けをしっかり取ったり、検証したりしたのかと私は問いたい。この記述の実証的な裏付けは一体何なのですか、検証不十分であり、推測ではありませんか、と私は問い質したい。石井洋二郎氏のあの警鐘「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」に耐え得るのですかとも言いたい。しかしながら、これだけのことが指摘されるのに、どういうわけか、この件に関して疑問を公に呈している賢治研究者としては菊池忠二氏と佐々木多喜雄氏しか私は知らない。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
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であり、その目次は下掲のとおりである。
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