みちのくの山野草

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佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#13)

2017-09-19 10:00:00 | 賢治の稲作指導
《稗貫の稲田水鏡》(平成29年5月19日撮影)
  「8.“農に殉じた”ことは事実か」より(続き)
 では今回は、佐々木多喜雄氏の論考『「宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考-<承前⑤>』の前半の続きを紹介させていただきたい。つまり、
  2)死前日の農事相談
 ⑵ 臨終前日の農事相談への疑問
  1)疑問や批判のいくつかの例
  2)抱いた疑問のいくつか
  3)病と喀血の経過概要
についてである。

 まず佐々木氏は、「2)死前日の農事相談」の冒頭をこう切り出していた。
 1933年(昭8)8(ママ)月21日13時30分、賢治は肺結核による多量の喀血の後に没した。その直接の要因となったのは、その前日の朝と夜に農事相談に来訪した農人に病をおして夫々一時間程対応したこととされ、それ故に賢治の死は“農に殉じた”とされる、ことのようである。
             〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)92p〉
つまり、疑問を呈しながら賢治の死についてこう紹介していた。そして引き続いて、佐藤(1942)や森(1946、74)等を引例して、賢治の死を“農に殉じた”とするものや、“農に殉じた”とする考えに相通じたものを紹介していた。
 そしてこのことを受けて同氏は、「⑵ 臨終前日の農事相談への疑問」へ移り、しかし、佐藤(1942)や森(1974)そして山内(1989)は堀尾(1991a)の賢治の死に関する記述内容には疑問を持たざるを得ないとして、そのようないくつかの例を次に紹介していた。それが「1)疑問や批判のいくつかの例」であり、青江(1974)や吉田(2002)を例示していた。

 次に佐々木氏は項を変えて、「2)抱いた疑問のいくつか」において自身の疑問を5項目、
 ①どこの誰とも分からぬ農民のこと
 ②2階病室から下り上りの様子
 ③農事相談農民の賢治への取次ぎ
 ④農民の農事相談のこと
 ⑤20日朝の農民来訪のことを山内(1989)と堀尾(1991a)に記されていないこと
を挙げ、いずれも不自然であったり、常識的でなかったり、現実的でないということをその根拠を示しながら実証していた。
 中でも、この「④農民の農事相談のこと」における同氏の論理は次の通り明快であった。
 この秋は県はじまって以来の大豊作で、農民は満足し喜び、祭も大いに盛り上がり、その昂奮もさめやらぬ祭りの翌日に、加えてそれもまだ刈取りが始まっていない時期に、明年の稲作のことや肥料相談に、しかも賢治の農事相談は5年も前から中断しているというのに、わざわざ相談にに出かけてくる農民がいるであろうか。この時期の農民心理から推測しても、現実的に考えられない。
             〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)94p〉
このようなことは、私のような素人でも常識で考えればある程度は分かることであり、以前このことに関して
 容態が急変し、「政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、死に臨む心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあ」ったという賢治が、亡くなる前日のそれも遅い時間帯に、肥料相談するような時期とは到底思われない9月下旬に、それも「どこの人か家の者にはわからなかった」という農民に、病臥していたであろう二階から衣服を改めて下りてきて長々とその相談に乗ったということは、普通常識的にはあり得ない。
と主張したものだが、農業の専門家である佐々木氏のこの明快な解説を知って、わが意を得たりと私は自信を持った。  

 そしてこれらの考察の結果から、佐々木氏は、
 死の前日の農事相談に来訪した2人の話の存在そのものが疑わしい考えざるをえないものである。
とし、
 辻つまから考えてこの農民来訪の話は、政次郎か清六が賢治の為に作った話としか考えられないのである。
             〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)95p〉
としていた。そこで私は、やはりそう判断すべきなのかと、あることを思い出しながら肯った。それは次のようなことをである。

 このことに関しては、私も以前〝これらも「賢治神話」ではなかろうか〟で考察したことがあり、その時に次のようなことを私は主張した。
 今までしばしば他でも目にしてきたような気がするが、たまたま『農への銀河鉄道』を読んでいたならば次のような記述、
(1) そして死の前夜すら肥料相談に訪れた農民に衣服を改めて階下に下りて正座して、懇切に説明した事実……
              <『農への銀河鉄道』(小林節夫著、本の泉社)1155p>
   (2)   …(略)…
があった。そしてもちろん、かつての私ならばこれらの記述を素直に肯っていただろう。あの聖人、聖農の賢治であればさもありなんと。
 しかし今は違う。私の恩師で賢治の甥でもある岩田純蔵教授が私たちを前にして、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いたことがあったので、ここ約10年程をかけて賢治のことを「羅須地人協会時代」を中心にして検証し続けてきた結果、
    賢治に関しておかしいと思われるところはほぼ皆おかしい。
ということを実証できたので、このことを痛感したきたからだ。
 そこで改めて冷静になって上掲の(1)~(3)につて考えてみれば、常識的に判断して次のようなことが言えるのではなかろうか。
 (1) については、容態が急変し、「政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、死に臨む心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあ」ったという賢治が、亡くなる前日のそれも遅い時間帯に、肥料相談するような時期とは到底思われない9月下旬に、それも「どこの人か家の者にはわからなかった」という農民に、病臥していたであろう二階から衣服を改めて下りてきて長々とその相談に乗った<*1>ということは、普通常識的にはあり得ない。そしてそもそもこのエピソードは出典も明示されておらず、裏付けがあったり、検証されたりしたものでもない。ちなみに、この農夫についてはその名前だけでなく、何処のどんな農夫かさえも何一つ明らかにされていないのだからなおさらにおかしい。だからこれは「賢治神話」の可能性があり、今後検証できなければ、(1)は論考の際の資料としては使えない。
       …(以下略)… 

 そして佐々木氏は最後の「3)病と喀血の経過概要」においては、賢治の病の経過と喀血の様子を概略した上でこう結論していた。
 以上で記した病と喀血の経過概要からすると、喀血は昭和4年1月から始まり、特に死の20日程前からひどくなり繰り返していた訳で、この多量の吐血で身体の衰弱も進み…(投稿者略)…農民2人の農事相談の来訪が有ったとしても、それが賢治の死を何日かは早めたかも知れないが、根本的には自身の認識不足による粗食の栄養不足から体力の低下をもたらし、加えて過労によるものであることが明らかである。
 しかもこの過労も、上京時の賢治の趣味や文学に関係することで多忙の日程となり、自身の商売である炭酸石灰の宣伝販売のことで各地を奔走したことが大部分で、農事相談や肥料設計など、農業に関係することは、主に昭和3年6月~7月の極一部に過ぎないのである。これらのことが誘因となって、昭和6年9月の上京時に発熱し、急性肺炎そして肺結核を再発したことが直接の原因となり死に至ったものと判断できる。
 これらから、死の前日に農民2人の来訪が有ったとしても、そのことによって賢治の死はいくらか早まったかもしれないが、直接賢治の死をもたらしたものでは無いことが明らかと言える。故に賢治の死が“農に殉じた”とすることは事実でなかったと考えざるを得ない。
             〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)96p〉
とずばり言い切っていた(そして私はそういうことなんだと肯んじ、“農に殉じた”とまではやはり言えないのかということで覚悟した)。

<*1:註> 『新校本年譜』の昭和8年9月20日の項に、出典を明示していないが、
 前夜の冷気がきつかったのか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。…(略)…医師の来診があり、急性肺炎とのことである。政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、死に臨む心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあう。
 そのあと賢治は、短歌二首を半紙に墨守する。
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。

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