みちのくの山野草

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詩<秋>に「上鍋倉」が出てくる意味(追加改訂)

2018-06-16 09:00:00 | ・大正15年の賢治
〈上鍋倉の秋のみのり〉(平成28年9月21日撮影)
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて前回、賢治の詩<秋>の中に「上鍋倉」が登場していることに私はあることを直感したのだったと最後に述べたが、結論から先に言えば、直感どおり
    「上鍋倉」とは当時高瀬露が勤めていた「寶閑小学校」があった辺りであった。
ということがこの度新たに確認できた。

賢治の詩<秋>に出てくる「上鍋倉」とはどこか
 まずは詩<秋>を確認する。
七四〇      秋                 一九二六、九、二三、
   江釣子森の脚から半里
   荒さんで甘い乱積雲の風の底
   稔った稲や赤い萓穂の波のなか
   そこに鍋倉上組合の
   けらを装った年よりたちが
   けさあつまって待ってゐる

   恐れた歳のとりいれ近く
   わたりの鳥はつぎつぎ渡り
   野ばらの藪のガラスの実から
   風が刻んだりんだうの花
     ……里道は白く一すじわたる……
   やがて幾重の林のはてに
   赤い鳥居昴の塚
   おのおのの田の熟した稲に
   異る百の因子を数へ
   われわれは今日一日をめぐる

   青じろいそばの花から
   蜂が終りの蜜を運べば
   まるめろの香とめぐるい風に
   江釣子森の脚から半里
   雨つぶ落ちる萓野の岸で
   上鍋倉の年よりたちが
   けさ集って待ってゐる
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
というものである。
 では、この詩の中の「上鍋倉」とは鍋倉のどの辺りのことだろうか? そう疑問に思った途端に直ぐ、「上鍋倉」とはあの辺りのことのはずだと私は思いついた。それは、かつて「寶閑小学校」があった場所だ。そこで早速私は「山居公民館」の近くの『高庄商店』に向かった。そしてその店の人に、『この辺りは「上鍋倉」というのですか?』と訊いてみた。すると、その店の方は『そうは呼ばないが、ここは「上(かみ)」と呼びます』と教えてくださって、続けて、『鍋倉は上、中(なか)、下(しも)と三つに分けて呼ばれているのです』と付け足してくれた。すなわち、この商店のある場所は総称は「鍋倉」だが、その「鍋倉」のうちで、この辺りは俗に「上」と呼んでいるということになる。
 だから賢治は最初の方では「鍋倉上(組合)」と書いていたのか。「上鍋倉」は固有名詞までにはなっていないが、賢治の書いた「上鍋倉」にせよ「鍋倉上」にせよ、いずれしても、現在『高庄商店』のある付近は俗称が『上』であり、賢治はこの辺りのことをこう書いていたのだと私は判断したし、その判断に間違いはなかろう。
 ちなみに、かつての鍋倉村の地図は次のとおりであり、
《元治元年(1864年)当時の鍋倉村》

              <『寶閑小学校九一年』より>
東西に横長の鍋倉村は、左(西)は山側だから高く右(東)に行くにつれて低くなっていっている。まさに「上、中、下」に分けて呼ばれるような地形だ。そして、この『高庄商店』の直ぐ近くにかつて小学校があり、まさにその学校こそが当時高瀬露が勤務していた寶閑小学校であった。私の予想どおりであった。

込められた賢治の想い
 そして続いて私の頭の中に浮かんできたのが、〔同心町の夜あけがた〕の中の「字下げ」した連
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である

の中の、「向ふの坂の下り口」と全く同じ構図だ、という類推だった。
 ちょっと乱暴な図式化をすると、
     〈〔同心町の夜あけがた〕〉:「向ふの坂の下り口」=〈〉:「上鍋倉
ということであり、「向ふの坂の下り口」 とは露の生家があった場所であり、「上鍋倉」とは露が勤めていた学校があった場所だ。しかも当時、露は西野中の高橋重太郎の家に下宿していたのだから、この詩<秋>を詠んだであろう大正15年9月23日は木曜日なのでもちろん露はこの時たしかに「上鍋倉」に居たはずだ。
 同時に私はもう一つ思い出したことがある。折しもこの9月23日頃ならば、詩のタイトルがまさにそうであるように季節は「」であるが、その「」に関連する次の証言をだ。
 「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表われているのが感じられた」
                       <『七尾論叢11号』所収「「宮澤賢治伝」の再検証(二)(上田哲著)」10pより>
という、下根子桜を訪ねていた期間を直接高瀬露から聞いたという菊池映一氏の証言だ。ちょうどこの年のこの秋頃から賢治と露は付き合い始めていたという証言だ。しかもそういえば、賢治が講演のために行った学校といえば、実際に取り上げられている学校は皆寶閑小学校ばかりだ<*1>。
 一方、〈〔同心町の夜あけがた〕〉における「向ふの坂の下り口」は賢治の高瀬露に対する想いが込められていたであろうことを、拙論「聖女の如き高瀬露」の〝第一章 露に関して新たにわかったこと 「向ふの坂の下り口」に露の家があった〟において既に私は明らかにした。どうやらこの場合と同じように、賢治は高瀬露のことを相当意識して〈〉の中に「上鍋倉」を詠み込んだ可能性が極めて高いと言えるようだ。これで私自身は〈〉の中に「上鍋倉」が出てくる意味が納得できたので、思わず「やっぱり」とつぶやいていた。

<*1:註> 例えば、次のような証言等がある。
 鍋倉に百四十五名の生徒がゐる寶閑小學校といふのがあります。
 早春まだ雪の消えない頃、そこへ村の人達が集つて賢治の農事講演会聽きました。農村では宮澤先生と云へば非常に評判が良いので忽ち人が集まります。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)6pより>
 その頃(大正一三、四年)は農会主催の講習がよくありました。各種の比較試作もさかんに行われていました。
 宮澤先生は、その農會の依賴で、寶閑小學校へおいでになったのでしょう。肥料設計についてお話しをされました。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)275pより>
   ⑶ 高橋謙一(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の次のような証言、
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話で頼んだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンラフ出版)155p~〉
 よって、高橋謙一は昭和3年卒だから、賢治と露はその5~6年前(すなわち大正13~14年)から既に直接話し合える間柄にあったということになりそうだ。これはたしかに前掲の「その頃(大正一三、四年)は農会主催の講習がよくありました。各種の比較試作もさかんに行われていました。宮澤先生は、その農會の依賴で、寶閑小學校へおいでになったのでしょう」と符合する。

〈註〉この投稿は、以前(2015-04-28 09:30:00 )投稿したものであったのだが、この度補足を追加して改訂したものである。

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