賢治の作品の中には、次のような詩
『秋』
一九二六、九、二三、
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる
恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
……里道は白く一すじわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる
青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
がある。”庚申塔について(考察2)”で触れたように、賢治は「庚申さん」を昴に重ねているから、「昴の塚」は「庚申塚」ということになるだろう。したがって、顕わに表現してはいないが、この詩にも実質的には鍋倉の「庚申塚」が登場していることになろう。
因みに、これが
《鍋倉の庚申塚》(平成21年10月13日撮影)
の一つである。
さて、この詩の中には恐れた歳とあり、「庚申塚」のことと思わせる「昴の塚」がある。一方、詩の日付は1926,9,23になっている。そこで、もしかすると1926年は「七庚申」あるいは「五庚申」の年かなと思って確認してみる。残念ながら予想は違っていて、1925年は「七庚申」の年ではあったが1926年は「六庚申」の普通の年であった。
ではなぜ恐れた歳としたのだろうか。そこで『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)で調べてみると、この年の5~7月は少雨のために旱魃、特に紫波郡で著しかったと記されている。
考えてみれば、前年教え子に『来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります』と手紙で宣言し、実際明くる3月に花農を退職した年がこの年1926年だ。新しい農村というユートピアの建設を夢見て始めた下根子での独居自炊生活、近くの北上川の川岸の荒れ地を開墾しながら、しきりに近隣の農村へ農業指導に出掛けて肥料相談に乗っていた年である。
ところが、賢治が折角理想に燃えて努力しているにもかかわらず、皮肉にもこの年は旱魃であったのだった、尽力の及ばぬ。だから、恐れた歳と詠むしかなかったのだろう。
ところで、同著には次のような年表図もあった。
【資料:第4図 岩手県における冷害の年表図】
この図から、飢饉が引き続いた元禄・天明・天保ほどではないにしても明治末期、昭和初期でさえも幾度かの飢饉があったということを知って、不明を恥じるばかりだ。同著によれば、明治35年、38年、大正2年、昭和9年の作況指数はなんとそれぞれ39、34、66、44という凄まじいものであったことが分かる。
次回は、同著から賢治の生きていた頃の冷害・旱魃を拾い出してみたい。
続きの
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”庚申塔について(考察7)”のTOPに戻る。
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『秋』
一九二六、九、二三、
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる
恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
……里道は白く一すじわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる
青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
がある。”庚申塔について(考察2)”で触れたように、賢治は「庚申さん」を昴に重ねているから、「昴の塚」は「庚申塚」ということになるだろう。したがって、顕わに表現してはいないが、この詩にも実質的には鍋倉の「庚申塚」が登場していることになろう。
因みに、これが
《鍋倉の庚申塚》(平成21年10月13日撮影)
の一つである。
さて、この詩の中には恐れた歳とあり、「庚申塚」のことと思わせる「昴の塚」がある。一方、詩の日付は1926,9,23になっている。そこで、もしかすると1926年は「七庚申」あるいは「五庚申」の年かなと思って確認してみる。残念ながら予想は違っていて、1925年は「七庚申」の年ではあったが1926年は「六庚申」の普通の年であった。
ではなぜ恐れた歳としたのだろうか。そこで『岩手県農業史』(森 嘉兵衛監修、岩手県発行・熊谷印刷)で調べてみると、この年の5~7月は少雨のために旱魃、特に紫波郡で著しかったと記されている。
考えてみれば、前年教え子に『来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります』と手紙で宣言し、実際明くる3月に花農を退職した年がこの年1926年だ。新しい農村というユートピアの建設を夢見て始めた下根子での独居自炊生活、近くの北上川の川岸の荒れ地を開墾しながら、しきりに近隣の農村へ農業指導に出掛けて肥料相談に乗っていた年である。
ところが、賢治が折角理想に燃えて努力しているにもかかわらず、皮肉にもこの年は旱魃であったのだった、尽力の及ばぬ。だから、恐れた歳と詠むしかなかったのだろう。
ところで、同著には次のような年表図もあった。
【資料:第4図 岩手県における冷害の年表図】
この図から、飢饉が引き続いた元禄・天明・天保ほどではないにしても明治末期、昭和初期でさえも幾度かの飢饉があったということを知って、不明を恥じるばかりだ。同著によれば、明治35年、38年、大正2年、昭和9年の作況指数はなんとそれぞれ39、34、66、44という凄まじいものであったことが分かる。
次回は、同著から賢治の生きていた頃の冷害・旱魃を拾い出してみたい。
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