みちのくの山野草

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あやかしの『宮澤賢治と三人の女性』

2016-03-27 08:30:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
風聞か虚構の可能性
 巷間、〈高瀬露悪女伝説〉なるものが流布している。しかし、この伝説はある程度調べてみただけでその信憑性の薄いことがわかる。それは、例えば宮澤賢治の弟清六が、
と証言しているし、『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』の225pには、
 宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
とあり、これらの清六の二つの証言からは、
    当時、賢治と露はオープンで親密なよい関係にあった。
ということが導かれるからである。一方で露本人は、昭和14~15年頃に、
    いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
というような、「み師」の尊称を用いたりして賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたことを『イーハトーヴォ第四号』(宮澤賢治の会)等によって知ることができる。したがって、「当時、賢治と露はオープンで親密なよい関係にあった」、しかも賢治歿後にも師と仰ぎながら賢治を偲ぶ歌を詠んでいることが公になっていたような露が、〈悪女〉であったとか、そう呼ばわれることは普通は考えにくい。
 ところが現実には、
(1) 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。(『賢治文学「呪い」の構造』(平成19年))
とか、
(2) 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。(『宮澤賢治と幻の恋人』(平成22年))
というような記述が昨今でもある。何故にだろうか。

 ところで、このことに関連して上田哲は論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」(『七尾論叢11号』所収)の中で、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。…(筆者略)…この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
と断じ、
 高瀬露と賢治とのかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24年)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(筆者略)…境だけでなく一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており……
と述べている。
 そこで、実際その「文篇」を調べてみたところ、上田の指摘どおり確かに「一方的な情報」とは『宮沢賢治と三人の女性』であった。その後は、儀府成一は『宮沢賢治その愛と性』(昭47)を著し、読むに堪えないような表現をも弄しながらその拡大再生産をしていたし、先に掲げた(1)や(2)のような著作が再生産されていた。しかも、誰一人として確と検証等をしたとは思えぬものばかりが、である。

 そこで私は次に、上田が「下敷」と言っている『宮沢賢治と三人の女性』を精読してみたところ、常識的に考えておかしいと感ずるところところがいくつか見つかった。例えば、
 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた。
がそれである。
 ならばと私は、露は当時鍋倉の寶閑小学校に勤めていたというから、鍋倉に向かった。すると、露の教え子の一人TK氏に会うことができて、露は当時「西野中のJT」方に下宿していたということを教わった。さらに、その下宿の隣家のKT氏からは、
 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中のJTさん」のお家に下宿していました。ただしその下宿では賄いがつかなかったから縁側にコンロを出して皆さん自炊しておりましたよ。
ということも教えてもらった。
 ということであれば、露のその下宿は賄いがつかなかったから、寝具のみならず炊事用具一式も必要だったであろう。するとそれを知って、露のこのような下宿の仕方を口さがない人たちが、『もはや家もかりてあり、世帶道具もととのえてその家に迎え、云々』と面白おかしく言い触らしていたという蓋然性が高い。そして、森はそのような噂話をそのまま活字にしてしまったと考えられる。なぜならば、その頃から90年近くも経ってしまった今でもこのように下宿の仕方等がわかるのだから、森が当時調べようとすれば露が下宿していたことや下宿の仕方等は容易にわかったはずだが、そのことについて彼は同書で何ら触れていないからだ。
 こうなると同様に不安になってくるのが、次の
 彼女の思慕と恋情とは焰のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた。
という森の記述で、当時の交通事情に鑑みればそれはほぼ無理だと思われるからだ。
 ちなみに、「露の下宿→宮澤家別宅」へと最短時間で行くとなれば、
 露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約20分~露生家~約15分~下根子桜
となるだろうから、往復で最低でも約4時間はかかっただろう。当然、「一日に三回もやってきた」ということは勤務日にはほぼあり得ない。もちろん、露が週末に生家に戻っていた際であればそれは可能であっただろうが、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家と下根子桜の別宅との間は約1㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた、風聞か虚構であった可能性を否定できない。

「ライスカレー事件」
 では、有名な「ライスカレー事件」についてはどうであろうか。このことについては、高橋慶吾の追想「賢治先生」と「宮澤賢治先生を語る會」における慶吾の発言が源となっていると判断できる(他にこの事件に関する一次情報は見つからないから)のだが、この二つを比べてみると違いが多すぎるので、実際にあったと思われる「ライスカレー事件」ではあるのだが、このことに関する慶吾の証言内容の信憑性はかなり低く、その証言から「修飾語」を取り去ったものだけがせいぜい考察の対象となり得る程度のものだろう、と判断せざるを得ない。
 さてその慶吾のこれらの二つの証言に基づけば、当日「下根子桜」の宮澤家別宅には少なくとも2~3人の来客があり、しかも賢治の分も用意したということがわかるし、千葉恭の証言によれば別宅にはそれ用の食器等が十分にはなかったはずだから、当時3人分以上の「ライスカレー」をそこで作るということは何から何まで大変なことだったことになる。
 それに対して、賢治は突如自分の都合が悪くなったので頑なにそれ食べることを拒否したというのであれば、仮に露が『私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて…』と詰ったとしても、そして心を落ち着かせるためにオルガンを弾いたとしてもそれは至極当たり前のことであり、その責めは賢治にこそあれ、露には殆どなかろう。だからもちろん、「ライスカレー事件」で露を〈悪女〉にはできないはずだ。
 ところが、『宮澤賢治と三人の女性』所収の「昭和六年七月七日の日記」の中で伝える「ライスカレー事件」について森は、
 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが食べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頬をひきつらし、目にまたたきも與えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、眞赤な顏が蒼白になると、ふいと飛び降りるように階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(投稿者略)…その樂音は彼女の乱れ碎けた心をのせて、荒れ狂う獸のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顏いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顏を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた。
などというようなことも書いているのだが、このことについては佐藤通雅氏も
 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(投稿者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる。
              <『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(洋々社)>
と指摘してるとおりで、どうもそこには虚構もありそうだ。しかも、森荘已池自身は「ライスカレー事件」について、その典拠も、裏付けも明示していないし、まして検証したものだとも述べていない。その上、その因となった慶吾の証言は心許ないものである。したがって、有名な「ライスカレー事件」ではあるが、この事件があったとしても、その真実は通説とはかなり乖離していて、この事件は現段階では「賢治伝記」の資料たり得ないであろう。つまるところ、前掲の引用文は単なるゴシップ記事の域にある。

 結局のところ、巷間流布しているこの〈悪女伝説〉の因になっている、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述にはあやかしが多すぎる。しかも、上田哲以外の殆どの賢治研究家はこのことに関しては「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいるといわれても仕方がなさそうである。もしかすると、この伝説はいわば冤罪であり、一人の人間の尊厳と人格を貶めてしまっているかのしれないのにもかかわらず、だ。はたして、天国の宮澤賢治はこの事態をなんと思っているのだろうか。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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