《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》
〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
続きへ。
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“「聖女の如き高瀬露」の目次”へ。
*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
が、以前吉田が、『何か心に引っ掛かることがあってここだけは「西暦」にしたというあたりだろう』と示唆した意味だったのだな。
荒木 なあるほど。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけは西暦で「一九二八年」にしたのはそういう心理が働いていたのか。
鈴木 だからかたくなに森は件の下根子桜訪問時期を、『宮澤賢治追悼』(次郎社、昭9)でも『宮澤賢治研究』(十字屋書店、昭14)でも『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房、昭24)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、昭49)でも皆「一九二八年の秋」としていたんだ。
荒木 うん?それじゃどうして『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部、昭63)では「大正15年の秋」としたんだ?
鈴木 いや先に引用したように、その日のことは「大正15年の秋の日」とはせずに、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった」と森は表現している。
吉田 それは苦肉の策さ。『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃になると「旧校本年譜」も既に定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜にいないことは遍く知れ渡ってしまった。そこでもし、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」としたならばそれは破綻を来していることが容易に指摘されてしまう時代になってしまったためだよ。
荒木 さりとて、森自身はそれを直ぐさま「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き替えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったからそれは無理。そこで残された「大正15年の秋の日」とするしかなかったというわけか。
吉田 しかも、もうこれ以上あれこれ穿鑿されることを嫌って、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、ぼやかしたのじゃなかろか。
荒木 なるほど。さっき鈴木が言ったところの、『森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった』という心理がここでも同じように働いていたのか。そうか、このように考えればほとんどのことが辻褄が合うな。
吉田 まあ、あくまでも思考実験上でだけのことだけどな。とはいえ、かなり説得力はありそうだから一つの可能性としては棄てがたい。
しかも今までの僕らの検証によれば、「森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった可能性が極めて高い」ことがわかっているから、もはやこうなれば
森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。……③
と断定してもよかろう。
荒木 そうか、件の「下根子桜訪問」は全てが虚構だった、これが今回の思考実験の結果ということか。
鈴木 実はあからさまには言ってこなかったが、私自身は今回も基本的には「仮説・検証型」の考察を行ってきたつもりだった。そして何を隠そう、その私の仮説は今吉田がいみじくも言った〈③〉だったのだ。
吉田 だろ、それは僕も薄々感じてた。
鈴木 そしてここまでの検証の結果、この仮説〈③〉の反例となるものは今のところ何一つない。一方で、
現通説:昭和2年の秋の日森は下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違った。
の反例や反例らしきものが幾つか見つかったということこそあれ、現通説を裏付ける確たる資料も証言も森自身のもの以外は今のところないから現通説は危うい。となれば、仮説〈③〉の反例が見つかるまでは、仮説〈③〉の方が現時点では最も妥当な説だと言える。
荒木 ところで何だっけ、現通説の反例って?
鈴木 一つは他でもない先に荒木も挙げた、例の
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという本人の証言。
そして二つ目が、それこそ森自身の証言
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。
があるじゃないか。
荒木 そうか、現時点で反例が2つもあるということであれば、現通説は砂上の楼閣。それよりは現時点では反例のないこちらの仮説
森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に捏造であった。
が成り立つとするのが遙かに妥当だということな。
鈴木 おいおいちょっと待て、私は「捏造」とは言っていないぞ、「虚構」だぞ。
吉田 確かに捏造と言うのはちょっときついが、件の「下根子桜訪問」は「捏造」であった、と言った方がふさわしいのかもしれんな。なにしろ高瀬露の人格と尊厳をとことん傷つけてしまったのだからな。
でももしかすると、それこそ森は日記をつけていたようだから、そのうちに森の『昭和三年の日記』が見つかって、仮説〈③〉の反例がそこから見つかるかもしれんが、その時は荒木が僕らを代表して謝ればいい。
荒木 おいおい、梯子を外すなよ。
「ライスカレー事件」はあったのだが
では、例の「ライスカレー事件」についてはどうなんだろうか。
◇「ライスカレー事件」はあった
この「ライスカレー事件」だが、もはや虚構が多いということがわかってしまった「昭和六年七月七日の日記」は当てにならないので、まずは高橋慶吾の「賢治先生」の方で見てみよう。
某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、晝となく訪ねて來たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依に數人の百姓たちが來て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
<『イーハトーヴォ創刊號』(宮澤賢治の會)より>
次は、関登久也著『宮澤賢治素描』所収の「宮澤賢治先生を語る會」を見てみよう。
K …何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は隨分失望した樣子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人は晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つてゐた。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)255p~より>
なお、Kとは高橋慶吾のことであり、Cとは伊藤忠一であることを後に関は『賢治随聞』(角川選書)で明かしている。また、Cは信頼に足る人物だと判断できる。それは、佐藤勝治や菊池忠二氏の論考におけるCに関する記述内容から読み取れるからだ(後述する)。そのようなCとKが共にこの「ライスカレー事件」を目の当たりにしていたと思われる証言をそれぞれしているのだから、その中身がどうであったかはさておき、少なくともこの「ライスカレー事件」があったことだけはまず間違いなかろう。
◇その事件の真相は?
次に、両者における高橋慶吾の証言を比べてみると、
【オルガンを弾く迄の状況対比表】
「賢治先生」 「宮澤賢治先生を語る會」
来客について:数人の百姓 西の村の人2、3人
客の居場所 :1階 2階
賢治 〃 :2階→1階→2階 2階
料理中の露 :1階台所 1階台所でこそこそ
食事場所 :1階 ライスカレー2階へ運ぶ
オルガン演奏:1階で 2階から下りて1階で
となるから両者の間には結構違いがある(当時のことだから「数人」とはおそらく5~6人)し、しかも「こそこそ」という表現を用いていることからは高橋の悪意が拭い取れない。
さらに高橋は「一階」としているが、実は
・宮澤清六:『私とロシア人は二階に上ってゆきました。…レコードが終わると、Tさんがオルガンをひいて…』(『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著)236p)
・松田甚次郎:『早速二階に通された。…先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀みになつたり…』(『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭14)424p)
・高橋正亮:『二階へいきました。そこは…ちいさいオルガン、小さい蓄音機…』(『拡がりゆく賢治宇宙』63p)
・梅野健造:『二階に案内された。…部屋の左側に机、整理棚、そしてオルガンが置かれ…』(『賢治研究33号』8p)
というように、高橋以外は皆一様に当時オルガンは2階にあったと証言しているからオルガンは2階に置いてあった可能性がかなり高い。そしてもちろんそれが2階にあったとすれば、この高橋の一連の証言は根本から崩れ去る。
したがって「ライスカレー事件」が実際にあったとしても、高橋のこのことに関する証言内容の信頼度は低く、せいぜい高橋の証言から「修飾語」を取り去ったものだけが考察の対象となり得る程度のものであろうと考えざるを得ない。
その上でのことだが、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由を合理的に説明できるのは、時間的な推移と賢治の心境の変化の仕方を考えてみれば前者の「賢治先生」の方だと考えられる。つまり、次のような時系列で大体ことは流れて、
ある時、賢治は2階で勉強していた。
→その時露は賢治の許に来ていて、「ライスカレー」を作っていた。
→ちょうどそこへ肥料設計の依頼に数人の百姓たちがやって来た。
→彼等は、料理をしている露を見てびっくりした。
→それを突然見られてしまった賢治は、露がまるでお嫁さんの如く思われたのではなかろうかと思って焦った。
→ばつが悪くなった賢治はその「ライスカレー」をその百姓たちに御馳走した。
→そして賢治はつっけんどんに「私は食べる資格がない」と言って取り繕い、2階に上がってしまった。
→当然露は「折角つくった料理を食べないなんて…」とがっかりし、心を落ち着けるためにオルガンを弾いた。
→その傷心振りを察知した賢治は1階に下りていって露を慰めた。
→しかし、露の気持ちは直ぐには元に戻らなかった。
という顚末だったのではなかろうか。
というのは、下根子桜時代、ロシア人のパン屋が来た頃の露と賢治はとてもよい関係であったということを知ってしまった私には、その時賢治は露が「ライスカレー」を作りに来ることを承知していたかあるいは依頼していたはずだと考えられるからだ。しかも、この流れであれば、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由もそれなりに合理的に説明できる。このあたりがことの真相であったとしてもほぼ間違いなかろう。
****************************************************************************************************
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
が、以前吉田が、『何か心に引っ掛かることがあってここだけは「西暦」にしたというあたりだろう』と示唆した意味だったのだな。
荒木 なあるほど。他の個所では和暦の「昭和三年」さえも用いているのに、わざわざここだけは西暦で「一九二八年」にしたのはそういう心理が働いていたのか。
鈴木 だからかたくなに森は件の下根子桜訪問時期を、『宮澤賢治追悼』(次郎社、昭9)でも『宮澤賢治研究』(十字屋書店、昭14)でも『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房、昭24)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、昭49)でも皆「一九二八年の秋」としていたんだ。
荒木 うん?それじゃどうして『宮沢賢治 ふれあいの人々』(熊谷印刷出版部、昭63)では「大正15年の秋」としたんだ?
鈴木 いや先に引用したように、その日のことは「大正15年の秋の日」とはせずに、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった」と森は表現している。
吉田 それは苦肉の策さ。『宮沢賢治 ふれあいの人々』が出版された昭和63年頃になると「旧校本年譜」も既に定着していたので、「一九二八年の秋の日」に賢治が下根子桜にいないことは遍く知れ渡ってしまった。そこでもし、森が「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」としたならばそれは破綻を来していることが容易に指摘されてしまう時代になってしまったためだよ。
荒木 さりとて、森自身はそれを直ぐさま「一九二七年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた」と書き替えることもまたできない。その年、森は脚気衝心等で入院中だったからそれは無理。そこで残された「大正15年の秋の日」とするしかなかったというわけか。
吉田 しかも、もうこれ以上あれこれ穿鑿されることを嫌って、「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」と表現して、ぼやかしたのじゃなかろか。
荒木 なるほど。さっき鈴木が言ったところの、『森にもうしろめたさがあったから、その訪問時期は可能な限りぼやかしたかった』という心理がここでも同じように働いていたのか。そうか、このように考えればほとんどのことが辻褄が合うな。
吉田 まあ、あくまでも思考実験上でだけのことだけどな。とはいえ、かなり説得力はありそうだから一つの可能性としては棄てがたい。
しかも今までの僕らの検証によれば、「森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった可能性が極めて高い」ことがわかっているから、もはやこうなれば
森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に虚構であった。……③
と断定してもよかろう。
荒木 そうか、件の「下根子桜訪問」は全てが虚構だった、これが今回の思考実験の結果ということか。
鈴木 実はあからさまには言ってこなかったが、私自身は今回も基本的には「仮説・検証型」の考察を行ってきたつもりだった。そして何を隠そう、その私の仮説は今吉田がいみじくも言った〈③〉だったのだ。
吉田 だろ、それは僕も薄々感じてた。
鈴木 そしてここまでの検証の結果、この仮説〈③〉の反例となるものは今のところ何一つない。一方で、
現通説:昭和2年の秋の日森は下根子桜を訪れ、その際に露とすれ違った。
の反例や反例らしきものが幾つか見つかったということこそあれ、現通説を裏付ける確たる資料も証言も森自身のもの以外は今のところないから現通説は危うい。となれば、仮説〈③〉の反例が見つかるまでは、仮説〈③〉の方が現時点では最も妥当な説だと言える。
荒木 ところで何だっけ、現通説の反例って?
鈴木 一つは他でもない先に荒木も挙げた、例の
(3) 昭和2年の夏までは露は下根子桜に出入りしていたが、それ以降は遠慮したという本人の証言。
そして二つ目が、それこそ森自身の証言
一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。
があるじゃないか。
荒木 そうか、現時点で反例が2つもあるということであれば、現通説は砂上の楼閣。それよりは現時点では反例のないこちらの仮説
森の件の「下根子桜訪問」も、その際に森が露とすれ違ったことも共に捏造であった。
が成り立つとするのが遙かに妥当だということな。
鈴木 おいおいちょっと待て、私は「捏造」とは言っていないぞ、「虚構」だぞ。
吉田 確かに捏造と言うのはちょっときついが、件の「下根子桜訪問」は「捏造」であった、と言った方がふさわしいのかもしれんな。なにしろ高瀬露の人格と尊厳をとことん傷つけてしまったのだからな。
でももしかすると、それこそ森は日記をつけていたようだから、そのうちに森の『昭和三年の日記』が見つかって、仮説〈③〉の反例がそこから見つかるかもしれんが、その時は荒木が僕らを代表して謝ればいい。
荒木 おいおい、梯子を外すなよ。
「ライスカレー事件」はあったのだが
では、例の「ライスカレー事件」についてはどうなんだろうか。
◇「ライスカレー事件」はあった
この「ライスカレー事件」だが、もはや虚構が多いということがわかってしまった「昭和六年七月七日の日記」は当てにならないので、まずは高橋慶吾の「賢治先生」の方で見てみよう。
某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、晝となく訪ねて來たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依に數人の百姓たちが來て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
<『イーハトーヴォ創刊號』(宮澤賢治の會)より>
次は、関登久也著『宮澤賢治素描』所収の「宮澤賢治先生を語る會」を見てみよう。
K …何時だつたか、西の村の人達が二三人來た時、先生は二階にゐたし、女の人は臺所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合惡がつて、この人は某村の小學校の先生ですと、紹介してゐた。餘つぽど困つて了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私はたべる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は隨分失望した樣子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの邊の人は晝間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生はあの女を不純な人間だと云つてゐた。
<『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)255p~より>
なお、Kとは高橋慶吾のことであり、Cとは伊藤忠一であることを後に関は『賢治随聞』(角川選書)で明かしている。また、Cは信頼に足る人物だと判断できる。それは、佐藤勝治や菊池忠二氏の論考におけるCに関する記述内容から読み取れるからだ(後述する)。そのようなCとKが共にこの「ライスカレー事件」を目の当たりにしていたと思われる証言をそれぞれしているのだから、その中身がどうであったかはさておき、少なくともこの「ライスカレー事件」があったことだけはまず間違いなかろう。
◇その事件の真相は?
次に、両者における高橋慶吾の証言を比べてみると、
【オルガンを弾く迄の状況対比表】
「賢治先生」 「宮澤賢治先生を語る會」
来客について:数人の百姓 西の村の人2、3人
客の居場所 :1階 2階
賢治 〃 :2階→1階→2階 2階
料理中の露 :1階台所 1階台所でこそこそ
食事場所 :1階 ライスカレー2階へ運ぶ
オルガン演奏:1階で 2階から下りて1階で
となるから両者の間には結構違いがある(当時のことだから「数人」とはおそらく5~6人)し、しかも「こそこそ」という表現を用いていることからは高橋の悪意が拭い取れない。
さらに高橋は「一階」としているが、実は
・宮澤清六:『私とロシア人は二階に上ってゆきました。…レコードが終わると、Tさんがオルガンをひいて…』(『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著)236p)
・松田甚次郎:『早速二階に通された。…先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀みになつたり…』(『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭14)424p)
・高橋正亮:『二階へいきました。そこは…ちいさいオルガン、小さい蓄音機…』(『拡がりゆく賢治宇宙』63p)
・梅野健造:『二階に案内された。…部屋の左側に机、整理棚、そしてオルガンが置かれ…』(『賢治研究33号』8p)
というように、高橋以外は皆一様に当時オルガンは2階にあったと証言しているからオルガンは2階に置いてあった可能性がかなり高い。そしてもちろんそれが2階にあったとすれば、この高橋の一連の証言は根本から崩れ去る。
したがって「ライスカレー事件」が実際にあったとしても、高橋のこのことに関する証言内容の信頼度は低く、せいぜい高橋の証言から「修飾語」を取り去ったものだけが考察の対象となり得る程度のものであろうと考えざるを得ない。
その上でのことだが、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由を合理的に説明できるのは、時間的な推移と賢治の心境の変化の仕方を考えてみれば前者の「賢治先生」の方だと考えられる。つまり、次のような時系列で大体ことは流れて、
ある時、賢治は2階で勉強していた。
→その時露は賢治の許に来ていて、「ライスカレー」を作っていた。
→ちょうどそこへ肥料設計の依頼に数人の百姓たちがやって来た。
→彼等は、料理をしている露を見てびっくりした。
→それを突然見られてしまった賢治は、露がまるでお嫁さんの如く思われたのではなかろうかと思って焦った。
→ばつが悪くなった賢治はその「ライスカレー」をその百姓たちに御馳走した。
→そして賢治はつっけんどんに「私は食べる資格がない」と言って取り繕い、2階に上がってしまった。
→当然露は「折角つくった料理を食べないなんて…」とがっかりし、心を落ち着けるためにオルガンを弾いた。
→その傷心振りを察知した賢治は1階に下りていって露を慰めた。
→しかし、露の気持ちは直ぐには元に戻らなかった。
という顚末だったのではなかろうか。
というのは、下根子桜時代、ロシア人のパン屋が来た頃の露と賢治はとてもよい関係であったということを知ってしまった私には、その時賢治は露が「ライスカレー」を作りに来ることを承知していたかあるいは依頼していたはずだと考えられるからだ。しかも、この流れであれば、賢治が「ライスカレー」を食べなかった理由もそれなりに合理的に説明できる。このあたりがことの真相であったとしてもほぼ間違いなかろう。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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