みちのくの山野草

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2534 高瀬露は悪女ではない(儀府成一) 

2012-02-29 08:00:00 | 賢治渉猟
 当初取り上げようかどうか迷ったが、躊躇いながらも『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)を取り上げてみることにした。

1.『宮沢賢治 その愛と性』について
 なぜ迷ったかというと、儀府のこの著書における露の扱い方については興味本位な個所が多く、露を内村康江という仮名扱いにしていることをいいことにして、好き勝手に書き散らしているようにしか私には感じられないからである。中には読むに耐えられないところ、はては投稿するとすればそれが憚られるようなところさえもある。同著においていくら儀府が内村康江という仮名にしたからといって、見る人から見ればその内村康江は高瀬露であることは容易に判る儀府の書き方である。いわば儀府は、以前〝高瀬露は悪女ではない(森荘已池1) 〟の「3. 気になること」で述べたような、あの老婆が〝おろかしさに怒りをぶつけた〟くなるような人物の典型であるとしか私には思えない。
 あげく、同著発行から約5年後に発行された『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の年譜の註によって、内村康江とは高瀬露のことだったということが公に明らかにされてしまった。したがって、詳しい事情を知る由もない『宮沢賢治 その愛と性』の多くの読者は同著に登場した人物内村康江とは高瀬露その人であり、同著における内村の言動があたかも高瀬のそれであったと受け止めたであろうから、儀府の同著における内村(露)の扱い方はあまりにも罪深い結果をもたらしてしまったと私は嘆かざるを得ない。
2.見てきたかのような描写
 たとえば、同著で儀府は次のようなことを書いている。まさしく、投稿するとすればそれが憚られるようなところもあると前述したような例ではあるが、あえて投稿する。
 そんな彼が、自分よりずっと若い異性(内村康江はそのとき二十二か三で、顔も肌も小麦いろにちかく、若さと健康がピチピチあふれているような娘であった)から次々と贈り物をされて、そのまま貰いっぱなしですませるわけがない。その都度、手作りの本とか花とかを必ず返して、好意にこたえていたが、その好意が、賢治にはだんだん苦痛なものになってきた。しかし康江の気持ちは、低い方へさそわれて流れ下る水のような自然さで、好意から思慕へ、思慕から恋愛感情へと、急速に変化し、成長していった。それと気づかなかったのは、賢治だけである。
 賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さにたっていた。それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえた一人の異性であった。賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうな性器――性器という感覚に。
<『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)212p~より>
 これは「やさしい悪魔」というタイトルの節の中の記述である(そもそもこのタイトルからして露に対する儀府の姿勢が見えてくるのだが)。このような儀府の書き方や内容に対しては私も前述の〝老婆〟と同じような心境であり、この部分に対して上田哲は次のように嘆き、非難している。
 こん度は、賢治の心情の内奥まで立入っている。これは想像というより下劣な儀府の心情の表現にすぎない。このような本が研究書とよばれまかり通り研究文献目録に登載されている。日本の文学研究のレベルの低さが悲しくなった。なお、儀府は(内村康江はそのとき二十二か三で、顔も肌も小麦いろにちかく、若さと健康がピチピチあふれているような娘であった)と書いているが、彼は一度も露には逢っていない。彼が賢治と文通で交際をはじめたのは一九三〇年(昭和5)からで初めて賢治に逢ったのは一九三二年(昭和7)である。彼の高瀬露についての記述は、森荘已池や関登久也、高橋慶吾などの文章を下敷にして勝手にふやかしたものに過ぎない。
<『「宮澤賢治伝」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―』15pより >
全く同感である。
 一般に、あたかも見てきたかのような描写とか、まるで実況中継かと見まがうようなそれとかは、実は案外事実を伝えていない場合が多いと思うし、実際私も以前経験させられたことがある(「84 師とその弟子」、佐藤隆房著『宮澤賢治』所収)。したがって、そのような記載がある資料は要注意、慎重に対処する必要があるとこの頃は考えている。私にとっては、まさしく前掲のような儀府の描写がそれである。同じ轍は踏みたくない。
3.目に余るいい加減さ
 さて、儀府は次のようなことも同著に書いている。
 前後の状況ははっきりしないが、あるとき賢治は、内村康江に蒲団を贈った。なにかの返礼としてであった。それはどんな蒲団だったのか、掛けか敷きか、それとも昭和のはじめまで、岩手県あたりの百姓家でつかっていた、あのドテラの親方のような、たたみにくい袖付きの夜着だったのか、座蒲団のようなものだったのか、一枚だったのか一と揃いだったのか、私にはわからない。
 …(略)…折もおり、その人から、如何にもやさしい心がいっぱいこもっていそうな、ふわりとした、上品な趣味を思わせる優雅な蒲団が届けられたのだ。内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。いや、かっきりと決意をあらたにしたのは、このときだったと思われる。
<『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)227p~より>
ここでは私が何を言いたいのかというと、儀府の書き方はあまりにもいい加減だということをこの部分が示しているということである。この前半では「それはどんな蒲団だったのか…私にはわからない」と書いておりながら、舌の根も乾かぬうちに後半では「ふわりとした、上品な趣味を思わせる優雅な蒲団」と書いているからである。〝何をか言わんや〟である。目に余る。この他の部分だってこの調子で書きなぐったかもしれぬ、と疑いたくなる。
4.語るに落ちる
 あげく、儀府は同著の「あとがき」で次のように語っている。
 第二は、賢治に結婚を迫った内村康江(仮名)のことですが、諸家もこの件は何故かあっさりと片付け、また宮沢家でも、どうやらそっと伏せておきたのではないか、という感がかねがねしていたのです。…(略)…むしろその実相をこの辺で何等かの形で公にしなければ、あとで却って変に曲げられたり、伝説をうんだりしないかと、私などはそれを懼れずにいられません。…(略)…仮に私のこの拙文が、誤りだらけの伝説の孫引きみたいなものだとしたら、そのこと自体すでに、隠蔽や回避主義がもたらした結果だという風にもとれると思うのです。
きつい言い方になることをお許し頂きたいが、儀府〝語るに落ちる〟としか私には思えない。
5.〝誤りだらけの伝説の孫引き〟
 またいみじくも儀府が〝誤りだらけの伝説の孫引き〟というから、今までこのシリーズ〝高瀬露は悪女ではない〟で引用した資料などを以下に年代順に並べてみると
( 1)『高橋慶吾宛の高瀬露からの書簡?』(昭和2年6月9日付)
( 2) 賢治と露の間で書簡の遣り取り?(昭和4年)
( 3)〔聖女のさましてちかづけるもの〕(昭和6年10月24日)
( 4) 座談会「先生を語る」 昭和10年頃開催か
( 5)『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)<「賢治先生」>
( 6)『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)<「面影」「賢治の集ひ」>
( 7)『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)<「返禮」「女人」>
( 8)『續宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和21年10月発行)<座談会「先生を語る」>
( 9)『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年3月発行)
(10)『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房、昭和24年1月発行)<「昭和六年七月七日の日記」>
(11)『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)<「賢治二題」>
(12)『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)<「羅須地人協会時代」>
   高瀬露 昭和45年7月23日 帰天(68歳) 
(13)『賢治聞書』(菊池正編、昭和47年8月発行)<伊藤与蔵からの聞書> 
(14)『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)
(15)『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月発行)<「宮沢清六さんから聞いたこと」>
(16)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月発行)
(17)『「雨ニモマケズ手帳」新孝』(小倉豊文著、東京創元社、昭和53年12月発行)
(18)『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社、昭和55年9月発行)<「宮沢賢治と木村四姉妹」>
(19)『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵等共著、河出書房新社、平成8年3月発行)
(20)『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学発行、平成8年12月発行)
(21)『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社、平成19年10月発行)<伊藤与蔵「賢治聞書」>
となる。少なくとも私が『宮沢賢治 その愛と性』を通読した限りにおいては、〝誤りだらけの伝説〟か否かはさておき、たしかに儀府は(4)~(12)を〝孫引き〟しているだけで、改めて検証したという節もないと思う。まして、高瀬側に取材しているとは到底思えないような代物であった。
 それどころか、あたかも、儀府は高瀬露が帰天するのを手ぐすね引いて待ったいたかのようなタイミングで出版したのがこの『宮沢賢治 その愛と性』だったのではなかろうかとさえ疑われてしまいそうな著作である。もし、
 「まさか、高瀬露が全く反論ができないという時機を待っていたのではないのか」
と問われたならば儀府は一体なんと回答したのだろうか。
6.資料になり得ず
 したがって、私はこの『宮沢賢治 その愛と性』を今後資料として取り上げることはもうないと思う。儀府成一著『宮沢賢治 その愛と性』は品性を欠く単なるフィクションにすぎないことを知ったからである。
 なお、仮にフィクションであったとしても、その人を誉めるものであるならまだ許せるが、一方的に貶めるようなものであるとなれば私はそれも許せないのだが…。

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