本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「聖女の如き高瀬露」(6p~9p)

2015-12-17 08:30:00 | 「聖女の如き高瀬露」
                   《高瀬露は〈悪女〉などでは決してない》







              〈 高瀬露と賢治の間の真実を探った『宮澤賢治と高瀬露』所収〉
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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。*******************************
 したがってこれらの清六の二つ証言からは、当時の賢治と露とはとても良い関係にあったことが導かれるから、この頃の露が賢治にとって<悪女>であったはずがなかろう。
 惜しむらくは、前のロシア人のパン屋のエピソードのみならずこのようなことまで清六が知っていたのであれば、露は巷間言われているような<悪女>ではないことを清六は十分に弁えていたはずだから、露はそんな女性では決してないということをどうして世間に訴えなかったのかということだ。もし清六がそうしていたならばそれだけで、巷間言われている<露悪女伝説>などは決して起こらなかったのではなかろうか。
 また、清六のその一言を天上の賢治も待っていたはずだ。賢治はこれだけ親しく付き合っていた相手の露が<悪女>にされることなど望むはずもなく、また、露が巷間そう言われていることは延いては賢治自身が貶められていることでもあるということに忸怩たる想いでいるはずだからである。なお不思議なことに、<悪女伝説>に言及している賢治研究家の誰一人として清六のこれらの証言を取り上げて、だからこの<伝説>には問題があるのだということを指摘していないという実態がある。
 一方、賢治の許に出入りしていた当時の露は周りからどのように受けとめられていたのだろうか。当時の花巻共立病院の院長佐藤隆房はそのあたりを次のように述べている。
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。…(筆者略)…
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利で有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
 と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人にめばいゝと思ふ。どうだね。」
 と賢治さんも期待を持つてをりました。
 ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生であるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利といつては變だが、やつぱりさういふ合の好い會員でした。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p~より>
 もちろんここで内田康子という名は仮名(かめい)であり、露のことである。そしてこの記述に従えば、下根子桜の協会に来て何くれと手伝ってくれる露に賢治は感謝し、そのことを協会員たちも喜んでいたことになる。しかも、計画していた農民劇では役を頼もうということまで賢治は考えていたことや、下根子桜を訪れる露は賢治からかなり感謝されていたいたこともわかる。
 ただし気になるのが「便利と言つては變だが、やつぱりさういふ都合の好い會員でした」という個所であり、もしかすると露は都合よく利用されたのだということを著者佐藤隆房は我々に示唆しているのかもしれない。

 遠野時代の露
 実は、露は「露草((註三))」という号を用いて、昭和14年12月13日に「賢治先生の靈に捧ぐ」と題して次のような歌を五首詠んでいる。
・君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
・ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
・オツペ((ママ))ルに虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
・粉々のこの日雪を身に浴びつ君がの香によひて居り
・ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
<『イーハトーヴォ第四號』((菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)より>
 また、昭和15年9月1日には「賢治の集ひ」と題して、こちらの場合には小笠原露の名で次のような歌四首を詠んでいる。
・師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
・女子のゆくべき道を説きませるみ師の面影忘られなくに
<『イーハトーヴォ第十號』(同)>より>
 一方で、『イーハトーヴォ創刊號』(同)には露の名こそ顕わに使っていないものの、それが露であることがわかる人にはわかるような書き方でいわゆる<悪女伝説>をゴシップ仕立て(後述する)で載せている。したがって、おそらく露は自分がそのような扱い方をされているということを知りつつも、「み師」などの尊称を用いて、崇敬の念を抱きながら賢治を偲ぶ歌を折に触れて詠んでいたということがこれでわかる。
 一方、上田哲は高瀬露本人から直接聞いたのであろう、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
<『図説宮沢賢治』(上田、関山等共著、河出書房新社)93p~より>
とも述べている。
 もはや、以上の事柄だけからしても露が賢治に対してどのような想いを抱きつづけたか、また露の品格が如何なるものであったかが容易に推察できる(とはいえ、前掲の「オツペ((ママ))ルに虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ」や「いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心」の歌からはとりわけ、必死に耐えている健気な露の姿も私の眼に浮かぶのだが)。
 ところで、露は昭和7年に遠野在住の小笠原牧夫と結婚をし、その後は帰天するまで遠野で暮らした。その遠野時代の露に関しては、上田哲はかなりの検証をした上で前掲論文〝<悪女>にされた高瀬露〟を平成8年に発表している。その論文によれば、遠野の歌人で尾上紫舟賞受賞者菊池映一氏からは、
(露さんは)病人、老人、悩みをもつものを訪問し力づけ、扶けることがキリスト者の使命と思っていたのである。彼女はわたしだけでなく多くの人々に暖かい手を差し伸べていることがいつとはなしに判り感動した。……(筆者略)…昔の信者の中には、露さんのような信者をよく見かけたが、今の教会にはいない。露さんは、「右の手の為す所左の手之を知るべからず」というキリストの言葉を心深く体していたような地味で控えめな人だった。
という証言を得ているという。また、青笹小学校勤務時代に露と同僚であったという工藤正一氏からは、露に関して、
 仕事ぶりは真面目で熱心な方でした。良く気のつく世話好きな人だったので児童からもしたわれていました。それから人ざわりの良い、物腰の丁寧な人で、意見が違っても逆わない方だったので同僚や上司、父兄、周囲の人々に好感をもたれていました。
<共に『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)80p~より>
という証言も得ているという。
 そして上田自身はといえば、「短歌にかこつけて土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった」と同論文で述べている。
 なお上田は同論文中に続けて、賢治の教え子澤里武治の「周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった」と述べているが、少なくとも筆者の私が取材した限りにおいてはそのようなことはあまりないと推察できる。なぜなら、武治の家は露の嫁いだ小笠原家と道路を挟んで筋向かいだが、それこそ武治のご子息である裕氏が、
 父は露さんのことを一言も悪口を言ったことがない。
と証言(平成26年11月25日)しているくらいだからである。
 あるいはまた、次のような同僚の証言もある。それは佐藤誠輔氏氏のもので、
 私と妻は晩年の小笠原露と同じ学校に勤めたことがある。既に子供たちを育て終え、養護教諭となっていた彼女は、人の悪口を言わない教師として、同僚たちから一目置かれていた。
<『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所、平16)93pより>
と、自身の論考「宮沢賢治と遠野 二」の中で証言している。実際、直接私が佐藤氏にお会いした(平成24年10月30日)際も、同氏は開口一番、 
 露先生は人の悪口を言わない教師として、同僚たちから一目置かれていおりました。
と話し、前掲の上田哲の論文を示しながら、
 このお二方、菊池映一さんも工藤正一さんもよく知っております。露さんはこのお二方が証言しているような人でした。
ということ、さらには、
 露さんの夫小笠原牧夫氏は当時鍋倉神社の神職だったので、クリスチャンであった露さんは信仰上の悩みもあったと思いますが、露さんのお義母さんは『とてもよい嫁が来てくれた』と言って、露さんのことを大事にしてくれたとのことです。勤めに行く露さんを三つ指ついて送り出したということですよ。
ということなども教えてもらえた。
 そしてその時に佐藤氏と直接お会いして一番印象的だったことは、『高瀬露はどの様な人だったのですか』と私が訊ねたならば佐藤氏はおもむろに、
   大人でしたね…。
としみじみ話されたことだった。露がどのような人であったかがこの象徴的な一言で私はかなりわかったような気がした。そして、巷間言われている伝説のような女性ではないと直感した。
 さらには、遠野時代の教え子A氏にもお目にかかれた(平成26年7月14日)。そして同氏からは、
・昭和十年代、遠野尋常高等小学校で露先生に担任をしてもらった。
・あの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを最近になって初めて知り、今はとてもびっくりしている。決してそのような先生ではない。
・露先生はとても優しくて、例えば授業が終わる少し前にはいつも佐々木喜善の民話を話してくれたり、リンゴの皮のむき方を丁寧に教えてくれたりするような先生でした。
・同氏の家と露先生の家は近かったから、先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
 母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教えてもらった。
 したがってこれらの事柄から総合的に判断すれば、遠野時代の高瀬露は評判のよい敬虔なクリスチャンであり、<悪女>どころか<聖女>のような人であったと言った方がふさわしい。
 寶閑小学校時代の露
 では、花巻に住んでいた頃の高瀬露評はどうだったのだろうか。資料によれば、露が花巻で勤務していた学校は寶閑(ほうかん)小学校だけであり、その期間は大正12年10月~昭和7年3月の8年半(『寶閑小学校九一年』所収の「當校の先生」より)であった。そこで、寶閑小学校勤務時代の露のことを調べてみた。
◇花巻時代の露の教え子の重要証言
 幸運なことに、平成24年11月1日、露の同校での教え子である鎌田豊佐氏(鍋倉荒屋敷、当時95歳)に直接お目にかかることができた。同氏は矍鑠とした方だったしユーモアもあって、開口一番、『歳を取ってしまって、左手に持っているのにそれが無いと思って右手が探すんです((註四))』と話す素敵なご老人だった。
 お伺いしたところによれば、鎌田氏は寶閑小学校に1年生~4年生までの4年間(大正12年~15年頃)通っていてその後転校したのだそうだが、その4年の間露先生に教わったという。したがって鎌田氏は、ちょうど露が下根子桜の賢治の許に出入りしていた頃の露の教え子となる。
 鎌田氏によれば、当時寶閑小学校は小規模校だったので複式学級であり、学校全体で3クラスしかなかったという。小規模校ゆえ先生と児童との間の距離は極めて近かったようで、露のことをよく知っていた。しかもそれだけではなかった。当時鎌田氏のお家では20町~30町の田圃を有していたのだが、露の父高瀬大五郎にその田圃の測量をしてもらったり、絵図面を浄書してもらったりしたことがあったということで、父親同士も付
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




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