みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第2章 千葉恭を尋ねて廻る(テキスト形式)

2024-03-18 10:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
第2章 千葉恭を尋ねて廻る(テキスト形式)

1 千葉恭の生家探し
 さてここまで、私は入手出来た【千葉恭関連文献】の全てに目を通してみて来たのだが、千葉恭の下根子桜の別宅寄寓に関するあの「日」や「期間」はこれらの中のいずれにも、どこにも明確には記されていなかった。最初はそんなことは直ぐに判るだろうとたかをくくっていた私はすっかり落胆してしまった。こうなれば資料から探ることは諦め、原点に戻って千葉恭の出生地を直接訪ねてみようと奮い立った。
 千葉恭の古里盛町へ
 まずは、タウン誌『ふるさとケセン67号』に「千葉恭は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身…」と書かれていたので大船渡を訪ねた。この気仙郡盛町とは現大船渡市盛町のことだからである。そこへ行って千葉恭の生家や縁者を実際に訪ねて彼について教えてもらったり、近所の方に彼の人柄やエピソードなどを訊いてみたりしようとした。
 さりとて手がかりはこのタウン誌の情報しかなかったので、先ずは大船渡市立図書館を訪ねた。そして
「盛町は千葉恭という人の出身地ということですが、その人の関連資料を見せていただけないでしょうか」
とお願いしたところ、職員の方はとても親切に対応してくれ、資料の検索等もしてくれた。しかし残念ながら関連資料はほとんどなく、結局千葉恭の下根子桜の寄寓時期はもとより本籍地すらも判らなかった。因みに同館に所蔵されてあった関連資料は『宮澤賢治研究資料集成 第7巻』(続橋達雄編、日本図書センター)だけであった。
 とはいえ、ここはやはり千葉恭出身地なのだということも確信した。続橋編のこの本には『四次元』の「宮澤先生を追ひて」シリーズが全く同じ内容で載せてあったからである。おそらく千葉恭自身あるいは縁者が寄贈したのかも知れないななどと想像をめぐらしてみた。また、職員の方は千葉恭に関してはもっと調べてみますからと親切に請け負ってくれたので、その結果に期待した(なおこのことに関しては後日同館から電話連絡があり、残念ながら千葉恭に関してはあれ以上のことは解りませんというものであった)。
 さて図書館を後にして、次は地元の二、三の旧家を訪ねて千葉恭のことを訊いて廻った。が残念ながら、彼自身のことも含めて関連情報さえも全く得ることが出来なかった。大船渡一帯には千葉姓が多いのでなおさら判りにくいようである。
 ならばと次は地元の新聞社「東海新聞」社に訊いてみた。すると千葉恭本人のことは分からないがということだったが、〝盛町の生き字引といわれている〟古老を紹介してくれた。しかし、期待に胸ふくらませてその古老にお訊きしてみたのだがその古老でさえも彼のことは知らないということだった。
 結局は千葉恭の古里を訪ねては見たものの、生家どころか本籍地さえも分からずにしょぼくれて花巻の自宅に戻るしかなかった盛町探訪であった。それにしてもなぜかくも千葉恭のことが知られていないのだろうか。
 水沢農学校ルート
 さあて、では千葉恭に近づくにはどんな方途が次にあるだろうか。そこで思いついたのがやはりまたタウン誌『ふるさとケセン67号』の情報であった。このタウン誌には、千葉恭は大正13年3月に水沢農学校(現水沢農業高等学校)を卒業したと書いてあったからだ。
(ア) 水沢農学校同窓会
 そこで先ずは水沢農業高校に電話をして、同窓会担当の先生にお願いしてみた。
「大正13年卒の同窓生で千葉恭という人がおられるはずですが、その人の関連資料を見せて貰えないでしょうか」
と。おそらく、宮澤賢治と約半年一緒に生活したという人だから同窓生の間では著名な人物の一人だと思ったからであった。ところが私の想像とは裏腹に、担当の先生からは逆に「千葉恭という人はどんな人ですか」と訊き返されるというものだった。そこで私は
「千葉恭さんは宮澤賢治と約半年羅須地人協会で一緒に生活をした人で、賢治に関わる人物としてはかなり重要な人物だと思います。つきましては図書館等にある同窓会関連や千葉恭関連の資料を見せて貰えないでしょうか」
と重ねてお願いした。すると検討してみますからということで色よい返事を期待したのだが、その回答は「残念ながらお見せ出来ません」というつれないものだった。
 つい先だってまでは岩手県の各公立高校ではそれぞれの図書室や図書館を開放し、蔵書を一般市民にも閲覧させてくれていたはずだったのだがいつの間にそれが叶わなくなったのだろうかと訝しく思った。これじゃ、まして千葉恭の写真を見せてもらうとか本籍地を教えてもらうとかはまず無理であろうと判断した。個人情報の保護ということで、お見せ出来ませんと断られるのは見え見えだったからである。
(イ)『水沢農業高校同窓会名簿』
 さて水沢農業高校の同窓会担当の方にこれ以上お願いすることを諦めてはみたものの、やはりこのルートは捨てがたい。そんな時思い出したのが私の叔父の中に水沢農業高校の卒業生がいるということだった。早速その叔父に電話して同窓会名簿を持っていませんかと訊ねたところ、持っているよとの返事。私は押っ取り刀で叔父の家を訪れ、『水沢農業高校同窓会名簿』(平成5年版)を見せて貰った、そこに千葉恭の本籍地が書いていないかと期待しながら。
 するとある頁に
  〝第21回(大正13年3月卒業)52名〟
というタイトルがあった。五十音順に並べてある氏名を指で順に辿って行くと確かにあるではないか
  千葉 恭
と。一瞬喜んだのも束の間、直ぐ落胆に変わった。千葉恭に関してはあるのはその氏名だけで、本籍地も職業も勤務先も一切載っていなかったのだ。まただめだったか、私は肩を落とすしかなかった。
 というわけで、水沢農学校ルートから千葉恭の本籍地等を知ろうとしたのだが、何一つ新しい情報は得ることが出来なかったのである。 

2 千葉恭の職場について
 簡単に判るだろうと思って始めたあの「日」及び「期間」の確定作業であったが結局判らずじまい、しょぼくれて徒然に本を眺めていた。
 岩手年鑑ルート
 そんな時たまたま手にしていたのが昭和13年版の『岩手年鑑』(岩手日報社、昭和12年12月25日発行)であった。なんとその年鑑には県職員等の名簿が載っており、穀物検査所の職員の氏名も載っているではないか。もしかするとと期待しながらその名前を追っていくと、
  黒澤尻出張所検査技手 立花兼更木派出所
      千葉 恭
という記載がそこにあるではないか。しめたこれだ、『岩手年鑑』の他の年のものも同様に調べればいいのだ。そうすれば千葉恭がいつから穀物検査所に勤め始め、いつ退職し、いつ復職したかがほぼ判るはずだとほくそ笑んだ。
 私は小躍りしながら早速岩手県立図書館に行って大正13年から昭和30年までの『岩手年鑑』の閲覧を願い出た。ところが残念なことに、これらの期間の全ての『岩手年鑑』を県立図書館は所蔵しているというわけではなく、あったのは次の年のものだけであった。
  昭和3年~6年、同8年~13年、同18年、同22年~30年
そしてこれらの中で県職員等の職員名簿がありなおかつ千葉恭の名前が出ていたのは
 昭和8、9、10、11、12、18年
の分のみであり、それぞれ次のような事柄が分かった。
・昭和8年  岩手県穀物検査所二戸郡福岡出張所検査員(9月末時点)
・昭和9年    〃  黒沢尻出張所立花、二子兼更木派出所検査員 (10月末時点)
・昭和10年    〃  (11/20時点)
・昭和11年    〃  (11/20時点)
・昭和12年  岩手県穀物検査所黒沢尻出張所立花兼更木派出所検査員 (11/20現在)
・昭和18年  岩手県食糧管理事務所久慈出張所検査技手(5/1現在)
なお、昭和6年版については職員名簿(昭和6年8月末現在)は載っていたが、穀物検査所の氏名欄に千葉恭の名前の記載はなかったから、
・千葉恭は昭和6年の8月末時点では穀物検査所に勤めていなかった。
ということにはなる。しかし、残念ながらこれら以外の年の『岩手年鑑』については同図書館では所蔵していなかったり、所蔵していても職員名簿が載っていない『岩手年鑑』ばかりであったりであった。
 したがって、上記の事柄だけが岩手県立図書館所蔵の『岩手年鑑』より知ることが出来た千葉恭に関する全てであり、『岩手年鑑』によって穀物検査所を辞めた時期、復職した時期等がある程度解るのではなかろうかという目論見はあえなく潰え去ってしまった。
 しかし諦め切れない私は、発行元の岩手日報社本社に行けば『岩手年鑑』の全てを見せて貰えるのではなかろうかと思い立って本社に直接問い合わせてみた。しかし残念ながら、本社の事情も県立図書館とさほど変わらず、全ての年の『岩手年鑑』を保管しているということではないという。たとい岩手日報本社に行ったとしても不明な年の全て埋めることは出来ないということを覚るしかなかった。
 結局、『岩手年鑑』ルートからあの「日」及び「期間」を探ってみようという試みは中途半端に終わり、残念ながらそれらを推定するまでには至らなかったのである。多少のことは知り得たのではあるのだが。
 穀物検査所ルート
 さてこうなると残されているのは…と思いめぐらしてみると、まだやっていなかったことがあるではないか。千葉恭が勤めていたのは穀物検査所、後には食糧管理事務所だったからこのルートがら探ることがまだ残っているではないか。
 そこで先ずはインターネットで岩手県の穀物検査所や食糧管理事務所に関して検索してみたが、そのものズバリはヒットしないし、関連する役に立ちそうな情報も得ることが出来なかった。インターネットでは埒があきそうにもない。
 ならばと、これらの役所はいまはどうなっているのだろうかと思って再び岩手県立図書館に行って、岩手の穀物検査所や食糧管理事務所に関する資料の閲覧を願い出た。するとそこに所蔵されてあったのは穀物検査所に関するたった一冊の薄い冊子だけであり、その冊子には千葉恭に関しても役所の詳細もついても載っていなかった。逆に、現在は穀物検査所はもちろんのこと食糧管理事務所さえも存在していないということをそこで知るはめになった。となれば岩手の穀物検査所や食糧管理事務所がかつて所有していたであろう資料等はもう存在していないのではなかろうか。したがってこのルートから千葉恭に近づくことはもう無理であると覚った。もう考えられる他の方途は見つからない、一切を諦めるしかないのだろうか。
 しかしもう一人の私が言う、下根子桜時代の賢治の活動の評価や真相解明は千葉恭がかなり重要な鍵を握っているはずなのに、なぜこれほどまでに彼のことが賢治研究家によってほとんど調べられて来なかったり公にされていなかったりしているのだろうか、このことをこのままにしておいていいのかと。そして、自力でもうこれ以上アプローチ出来ないというのならば他人の力を借りればいいじゃないかと。

3 他人の助けを借りて
 いくつかの方途であの「日」及び「期間」のことをここまで探ってきたのだが、「日」及び「期間」どころか千葉恭の出身地さえも全く確定出来ない。もうこなると他人の力を借りるしかない。
 宮澤賢治研究家C氏
 そこで訪ねたのが宮澤賢治研究家のC氏である。以前松田甚次郎のこと等に関して教えてもらいたくて訪ねたことがある地元の宮澤賢治研究家の一人であり、実証的なアプローチを大切にしている方である。するとC氏は
「私も千葉恭のことは気になっていて、以前恭が食糧管理事務所盛岡支所長時代に直接本人を事務所に訪ね、取材を試みようとしたことがある。ところが訪ねた時間帯が悪かったせいか体よく恭に取材を断られてしまった」
と打ち明けてくれた。また、
「伊藤忠一に千葉恭のことを訊ねてみようとしたこともあったが、忠一からは言下に『そんな人は知らない』と言われてしまった」ということもC氏は教えてくれた。
 そして、C氏は残念ながらその「日」及び「期間」についてははっきりとは分からないということであった。
 つれない千葉恭本人の取材拒否、にべもない伊藤忠一の返事に対してC氏はさぞかし落胆したことであろうと同情するとともに、もうこうなると他人に頼るという方法は閉ざされてしまったと私は肩を落とすしかなかった。私が知っている宮澤賢治研究家はその当時他にはいなかったからである。
 救世主A氏
 またしても途方にくれてしまった私は、宮澤賢治研究家C氏でさえもかくの如くであったのならば素人の私としてはやはりもう諦めるしかないのだろうかとすっかりしょげかえってしまった。二進も三進も行かなくなった私は先輩のA氏にそのことを愚痴ってしまった。A氏とは私の趣味の一つ「山野草」の師であり、時々近隣の山々に連れて行ってくれる方である。そしてそのA氏は博覧強記、山野草のみならず宮澤賢治に関しても造詣が深い方でもある。そこでその先輩に「千葉恭という人物のことを知りませんか」と訊いてみた。するとそれが思わぬ展開となっていくのだった。A氏は
「待てよ、私の知り合いのDさんならば千葉恭のことを知っているかも知れない、いつかDさんに訊いてみるから」
と請け負ってくれた。私はもう千葉恭に近づくことは絶望的なのだろうかと思っていた頃であり、A氏のこの一言は私に一縷の望みを再び灯させてくれた。
 そしてしばらくしてA氏から嬉しい知らせがあった。
「Dさんから例の件を訊いてみたところ、千葉恭の息子さんのFさんという方が胆沢町に住んでおられるようだから、あとは直接Dさんに連絡してみなさい」
という。A氏が救世主に思えた。やった!これで切れかかっていた千葉恭との糸が再び繋がったと安堵した。
 D氏からの紹介
 私は胸を高鳴らせながらD氏に連絡を取った。するとD氏は
「胆沢町に千葉Fさんという方がいて、Fさんは千葉恭の息子さんです。住所は分からないが胆沢図書館に問い合わせれば分かると思う」
と教えてくれた。切れかかっていた糸が少しずつ太くなって行くような気がした。
 私はA氏とD氏に感謝しながら時を置かずその胆沢図書館に問い合わせた。
「私は千葉恭という人物のことを知りたいと思っている者ですが、Dさんから貴館ならばその息子さんである千葉Fさんという方の住所を知っているはずだということを教わりました。是非教えていただけないでしょうか」
と。すると受話器の向こうから
「しばらくお待ち下さい」
との声。期待と不安を抱きながら待っていると程なく
「それでは調べて後程連絡いたします」
という返事をもらった。私は心のうちで快哉を叫びながら、お礼の言葉を添えて受話器を置いた。おそらく良い報せが届くはずだと確信した。
 それにしても以前訪れた大船渡市立図書館といいこの度の奥州市立胆沢図書館といい、図書館という組織やそこの職員の方々はとても親切で誠意のこもった対応をしてくれるものだとつくづく感心した。また、もちろんC氏、A氏、D氏各位にも感謝したい。いままでは全く近づけずにいた千葉恭にもしかするとかなり近づけるのではないかということになったからである。そして、人の繋がりが大切なんだということも改めて教わった。

4 千葉恭の三男に会う
 切れかかっていた糸がもしかすると繋がるかも知れない…。わくわくしながら胆沢図書館からの回答を待っていると、それは期待通りのものであった。
 千葉恭の三男F氏と連絡が付く
 胆沢図書館からの回答は
「Fさんの住所が判りました。また、Fさんからあなたに電話番号を教えてよいという了解ももらいましたので直接連絡を取ってみて下さい」
であった。私は喜びのあまり抃舞した。もう千葉恭に近づくことはほぼ不可能と思っていたのに三男のF氏の連絡先が判ってしまったではないか、と。
 早速私は教えてもらった電話番号先に電話を掛けた。
「私はFさんのお父さんの恭さんのことを知りたいと思っている者です。お父さんは約半年ほど宮澤賢治と一緒に暮らしたと聞いているのですが、そのことに関して教えていただきたく、近いうちにお邪魔したいのですが宜しいでしょうか」
と。するとF氏は
「それはいいのですが、父が宮澤賢治と一緒に暮らしたとは聞いているが、父はそのことを私達にはあまり喋らなかったし、私も聞きもしなかったので多くのことは知らないのです。それで宜しかったならばどうぞお越し下さい」
というので私はもちろん喜んで、是非お願いしますと言って訪問の日を約束してもらった。
 三男F氏の許を訪ねる 
 さて約束の当日、雪の舞う中を先ずは胆沢図書館に向けて車を飛ばした。今回のF氏紹介のお礼を述べようと思って立ち寄ろうとしただけでなく、実は、もしF氏の自宅へ行く場合には立ち寄ればその場所を教えますからと胆沢図書館の方は親切に言ってくれていたからその好意に甘えようとしたこともあった。図書館に立ち寄ったならば館長さんがわざわざF氏の住所略図を描いてくれた。図書館の有り余る親切に恐縮し、感謝しながらそこを後にしてその地図を見ながらF氏の自宅へ向かった。
 F氏の自宅はその図書館からそう遠くないところにあった。多少緊張しながら玄関のチャイムを押すと私よりやや年配の男性が出てきてくれた。千葉恭の三男F氏その人であった。そしてお聞き出来た賢治に関わる事柄を箇条書きにすれば次のようになる。
・父は賢治のことは多くは語らなかった。
・穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと言っていた。
・父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
・穀物検査所をいつ辞めていつ復職したかは分からない。
・トマトだけ食わなければなかったこともあったと父は言っていた。
・賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも言っていた。
・昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報もらったのだが弔問に行けなかったと言っていた
・昭和20年のフェーン現象による久慈大火の際に賢治からの手紙などは燃えてしまったと言っていた。
・父が集めた資料は残っていない。
・NHKからの取材があったこともあるがその際にもあまり応えなかった。
・昭和28年にNHKの賢治に関わる座談会に出たことがあり、その記念品を持っていた。
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作されたと言っていた。
・父はマンドリンを持っていた。
などであった。
 千葉恭の出身地判明
 さてF氏に会って教えてもらったことはもう一つあり、それが最も嬉しかったことであり、
  ☆千葉恭の出身地は水沢の真城折居である。
ということであった。このことをまずは知りたくてそれまであちこち駆けずり廻って来た訳だがそのことがやっと判明した。なお、現在その実家の建物には誰も住んでいないということも知らされた。また未だ公になっていない千葉恭の写真を見せてもらった。それがこの本の表紙の写真である。昭和10年頃の若かりし千葉恭の写真であり、なかなかハイカラな人である。
 というわけでまとめてみると、F氏に会うことが出来た結果、
千葉恭に関しては
・いつからいつまで下根子桜で生活していたかは不明。
・穀物検査所をいつ辞め、いつ復職したかたも不明。
・久慈大火後に千葉恭が集めたであろう賢治に関する資料は現存せず。
・出身地は水沢区真城折居である。
ということが確認できたことであった。
 これでやっと念願の千葉恭の実家の住所(出身地)が判ったし、私としては2葉目の写真も見ることが出来て一気に千葉恭に近づけたような気がした。そして、私の知る限り、千葉恭の出身地を公に正しく明らかにしている宮澤賢治研究家はいないと思うから、それが判明出来たので大いに満足であった。
 下根子桜寄寓の切っ掛け
 以前、『イーハトーヴォ復刊2号』の中で
「(宮澤賢治は)次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました」
と寄寓の切っ掛けを千葉恭が語っていたことを知った。一方、このことに対してF氏は
「父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもなし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
と私に教えてくれた。そういえば千葉恭は実家の水田は8反歩、畑が5反歩と言っていたはずだからたしかにそれほど田圃は広くはない。まして昔は今と違って、途中で職を辞めることは恥ずかしいことであるという風潮があったはずだから、穀物検査所に勤め始めて3年目の身としてはおめおめと実家に戻れはしなかったであろう。
 なお今となってしまうと、千葉恭が賢治から誘われたのかそれとも千葉恭が自ら転げ込んだのか、はたまたどちらも本当で互い渡りに舟だったのか?いずれがより本当のところだったのかはもう判らないだろう。あまりにも時は流れすぎてしまったゆえ。
 検証することの大切さ
 ところで、千葉恭は〝気仙郡盛町(現大船渡市盛町)〟出身だという賢治研究家E氏の記述は何かの間違いであるということもこれで判明した。考えてみれば、もし千葉恭が大船渡の盛町出身ならば何もわざわざ遠い水沢農学校に来るまでもなかったろうし、水沢出身ならばまさしく地元でもあり水沢農学校に通うのはごく自然であり、納得。また、彼は帰農後もしばしば下根子桜に通ったということであったが、大船渡の盛町から通うとすれば大変だなと思っていたが、水沢であればそれほどのことはないからその点でも合点した。
 なお第2章の〝千葉恭の生家探し〟において、私は大船渡の盛町を探し回ったけれど結局千葉恭の生家の住所に関しては何一つ有力な情報を掴めなかったということを述べたが、それは当然だったわけである。千葉恭と大船渡の関係で言えば、千葉恭は食糧管理事務所大船渡支所長として盛町で勤めたことがある、ということであろう。
 とまれ、直接三男F氏にお会い出来ていろいろなことが判明したり確定したりしたので私は大いに満足した。F氏にお礼を述べ、感謝しながらF氏宅を辞して自宅のある花巻に車を走らせた。真実を知ることただそれだけで如何に充実感を得、単純に嬉しくなるものだということをあらためて実感しながら。
『月夜のでんしんばしら』
 さて花巻の自宅に戻って早速行ったことは次のことである。
 それは、千葉恭の三男F氏から教わった次のエピソード
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作された、と父から聞いたことがある。
について少し調べてみることだった。
 もちろん「奇妙な電信柱」といえば直ぐに思い浮かぶのが童話「月夜のでんしんばしら」である。その書き出しを確認してみると以下のようになっている。
   月夜のでんしんばしら 
 ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
 たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
 ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
 九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
 恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(略)…
<『注文の多い料理店』(宮澤賢治、角川文庫)>
というわけで、主人公の名前は千葉恭の名〝恭〟を用いた〝恭一〟になっているし、もちろんこの童話の中には「奇妙な電信柱」も登場して来る。したがって、この童話の主人公は千葉恭をモデルにしたものであり、童話のモチーフはこのエピソードから得たものであるということはかなり信憑性が高そうだ。
 ところが一方で、『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學謄写)によれば「月夜のでんしんばしら」については
〝初出『注文の多い料理店』。初稿の執筆は大10・9・14。〟
となっている。とするとこの童話の執筆時期は、千葉恭が下根子桜で賢治と一緒に暮らしていたと思われる時期(大正15年以降の約半年)より遥か以前のことになる。
 あるいはまた、童話集『注文の多い料理店』の発行は大正13年12月1日であり、その中に「月夜のでんしんばしら」は所収されていることが分かる。したがって、千葉恭が賢治と下根子桜で寝食を共にする以前にこの作品はもう書き上がっていたことになり、彼が息子に語ったこのエピソードが「月夜のでんしんばしら」のモチーフになって創作されたということはあり得ないことになってしまう。時間は遡れないからである。
 またこの他に賢治の童話の中に「奇妙な電信柱」が出てくるものはないはずだ。よって、このエピソードは千葉恭の何かの思い違いか、彼が自分の息子に戯れに語った作り話だったのではなかろうか。

5 同僚の語る千葉恭
 なんと幸運にも、千葉恭と同じ職場に勤務したことがあるという方に会うことが出来た。その方は奇しくも同じ姓の千葉G氏という、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。
 そしてその千葉G氏は、千葉恭とは
・1回目は、昭和11~14年頃に穀物検査所黒沢尻出張所(この時千葉恭は副出張所長)で、
・2回目は、昭和29~31年頃に食糧管理事務所和賀支所(この時千葉恭は和賀支所長)で
2度にわたって一緒の職場だったという。
 千葉恭の人となりについて
 そして、同僚千葉G氏は千葉恭の人となりについて
・いい人だった。
・偉ぶらなかった。
・酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)。
・研究などが好きな人であった。
ということなどを教えてくれた。また千葉恭の写っている集合写真も見せくれた。このG氏が語る千葉恭の人となりにつては、この前会った千葉恭の三男F氏が
「優しい親父だった。殴られたこともない」
と語っていたことと符合すると思う。同じくその際にF氏が
「父は息子の私から見ても若い頃は今で言うイケメンだった」
と語っていたが、F氏のこの話と千葉G氏の話そして今まで見た何葉かの千葉恭の写真から、千葉恭という人物は外見だけでなくその中身も素敵だったに違いない、と私は思った。
 千葉恭の職場での様子
 また、千葉G氏からは
・宮澤賢治と一緒に居たというようなことを聞いたことがあ る。
・宮澤賢治に関してはよく喋っていた。
という証言も得た。
 この当時、つまり千葉恭の食糧管理事務所和賀支所長時代(昭和29~31年頃)といえば『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』にそれぞれ「羅須地人協会時代の賢治」、「羅須地人協会時代の賢治(二)」を載せている頃である。もっと正確に言うと、千葉恭と同じ役所に勤めていた飯森という人物から請われて、昭和29年12月21日に『宮澤賢治の會』が主催した例会で千葉恭は「羅須地人協会時代の賢治」という演題で講演をした頃である。
 一方で、三男F氏にお会いした際にF氏は「父は賢治に関して語ることは少なかった」と語っていたが、千葉恭が和賀支所長の時代(千葉G氏が2回目に同じ職場に勤めていた頃)であれば、この講演の関係もあったのであろうか、彼は職場ではある程度賢治に関することを喋っていたということになろう。

 続きへ
前へ 
 “ 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』の目次(改訂版)”へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  第1章 文献等から探る千葉... | トップ | 成島毘沙門山(3/13) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治と一緒に暮らした男」カテゴリの最新記事