みちのくの山野草

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上京してチェロを学ぶしかない(前編)

2019-04-06 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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3 上京してチェロを学ぶしかない
 では、ここからはあの昭和2年11月頃の霙の降るある日について再び考え直してみたい。
 澤里武治の証言の真実
 昭和31年の『岩手日報』に連載された『宮澤賢治物語(49)(昭和31年2月22日)』と『宮澤賢治物語(50)(同23日)』、
【Fig.1 「宮澤賢治物語(49) セロ(一)」抜粋】

【Fig.2 「宮澤賢治物語(50) セロ(二)」抜粋】

において、澤里武治は次のような証言(以降この証言を「○澤」と略記する)をしている。
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミーナ<ママ>氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村桜に羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまつておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
 間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
 滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持つていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
…………○澤
<昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>
 あくまでも澤里が証言しているのはかくの如くである。くどいが、
    昭和二年には先生は上京しておりません。
なのであって、誰か(X氏)が勝手に書き変えた、
    昭和二年には上京して花巻にはおりません。
ではないのである。このことがこの「○澤」のポイントの一つである。
 そしてもう一つのポイントは、本証言からそう判断せざるを得ないと私は思うのだが、「○澤」はチェロを持って一人澤里に見送られながら賢治が上京したのは昭和2年11月頃の霙の降る日のことであったということを証言したもの以外の何ものでもないということである。
 言い方を換えれば、
    この「○澤」を大正15年12月の上京の典拠として使うことは全くできない。
ということであり、このことは既に前に検証したことでもある
 どの「宮澤賢治年譜」を見ていたか
 ここまで「羅須地人協会時代」の賢治の上京等を調べて来てみてもう一度上掲の「○澤」を読み直してみると、その真相と、併せて証言を改竄したX氏の思惑が垣間見えてくるような気がする。
 まずはこの証言の最初の部分についてである。    
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
 『上京タイピスト学校において知人となりし印度人ミーナ(ママ)氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 さて、このとき澤里はどのような「宮沢賢治年譜」を見ながら証言したのであろうか。まずは澤里が引用しているように、当時の「宮澤賢治年譜」にはすべからく(多少文言の違いはあるものの)、大正15年12月のこととして
 上京タイピスト学校において知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る。
となっている(なお、小倉豊文のものだけはやや異なっている)。その際に賢治は「チェロの特訓」を受けた、などということはもちろんそこには書かれていない。
 そして以前検討した際にも指摘したことだが、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」には、
    昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。   
となってもいる。つまりかつての「定説」では、少なくとも昭和2年の9月に一度は上京しているとなっていたのである。
 一方で澤里は、
    宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と証言している訳だから、この際に澤里が見ていた「宮澤賢治年譜」は既に刊行物で公になっていたものではなかったということになろう。その当時公になっていた「賢治年譜」では賢治は昭和2年の9月に上京していたとなっていて、当然賢治は昭和2年には上京したことになるからである。
 したがって、これは以前私が主張したことだが
 澤里は、出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、換言すれば今現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
と改めて言いたい。
 そのような特殊な「宮澤賢治年譜」を基にしなければなかった澤里は、自分自身の記憶に自信を持ちつつ、不本意ながら、
    ……とありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
とぼやかなければならなかった、ということであろう。もしかすると、このときの澤里はその当時公になっていた「宮澤賢治年譜」を基にすることが許されない状況下に置かれていたという虞れもあった、ということを必然的に導き出すことにもなる。
 そしてもう一つ大きな問題がある。それは、この「○澤」が昭和31年2月の『岩手日報』に載った際に、
    宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
となっている部分がこのままの形で全国に広がることを恐れ、是が非でもそれを防ぎたいと思った故だろうか、この部分を単行本になる際に改竄してしまった人がいた、と言わざるを得ないからだ。

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