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澤里のもう一つの証言

2019-03-15 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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3 澤里のもう一つの証言
 ところで、澤里武治の同じような証言が別にもう一つある。
それは『宮澤賢治物語(49)』であり、これについては本書の第一章で既に触れたものたが、それを再掲すると以下のようなものである。
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において知人となりし印度人ミー((ママ))ナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき飛び入り講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…
 その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 当時公になっていた年譜
 ここからは、澤里自身は「どう考えても」それは昭和2年の11月頃であるとの強い確信があるのに、どういう訳か目の前に提示された「宮澤賢治年譜」には昭和2年の賢治の上京はないことになっていることに怪訝そうにしている、そんな気の毒な澤里の戸惑いがありありと目に浮かぶ。
 そこで、このとき澤里が証言するに当たって見ていたであろう「賢治年譜」は一体どの年譜であったのかを探ってみることにしたい。そしてそれは、「十二月十二日のころには」に続く「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」に注目すれば案外探し出せるかもしれない。それも、この『岩手日報』への掲載は昭和31年2月22日だから、それ以前に発行されたものに所収されているものを確認すれば判るはずだ。
 そこで、そのような当時の主立った著書に所収されている「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して、時代を遡りながら以下に列挙してみる。
(1) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(2) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和22年第四版発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(5) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>

 こうして、主立った「宮澤賢治年譜」から当該部分を抜き出して列挙してみると気付くことが二つある。
・その一つは、(1)を除いては、いずれにも「セロ(一)」の中の証言「上京、タイピスト学校において…言語問題につき語る」と全く同じと言っていいような言い回しがなされていること。
・そしてもう一つは、いずれの年譜にも昭和2年9月に賢治は上京していると記載されていること。
の二つである。
 澤里が見た年譜
 したがって、小倉豊文の(1)を除いてはいずれの「宮澤賢治年譜」も同一の「強い規制を受けていた」可能性があることが窺える。また、この関登久也の新聞連載が始まる以前までは、賢治は昭和2年に少なくとも1回、9月に上京していたということが公になっていたということが言えるだろう。これがそれこそ当時のいわば「定説」であったとも言えよう。
 一方で、このとき澤里が証言するにあたって見ていた「宮澤賢治年譜」は少なくとも前掲(1)~(5)所収の「宮澤賢治年譜」のいずれでもないことが判る。なぜならば、澤里は、
   ・宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。
と語っているが、これらの(1)~(5)所収の年譜には皆一様に、
   ・昭和2年 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
とあるから、昭和2年の上京が少なくとも1回はあったことになっているからである。
 よって、澤里は出版物としては当時まだ公になっていなかった特殊な「宮澤賢治年譜」(とりわけ、賢治は昭和2年には上京していなかったと記載されている年譜)、言い換えればいま現在流布している「宮澤賢治年譜」のようなものを基にして証言しなければならなかったという状況下に置かれた、という可能性が大である。
 考えたくないことだが、当時であればそれが「定説」であった「宮澤賢治年譜」に基づいて澤里が証言することを誰かが阻んで
いて、当時公には知られていなかった定説「○現」に基づいて証言することを迫られた、という可能性すら捨てられなくなってしまうのではなかろうか。
 澤里が一人見送った日
 さてもう少し『宮澤賢治物語(49)』(『岩手日報』連載版)を続けて見てみよう。「沢里武治氏聞書」には書かれていない次のようなこともこちらには述べられているからである。
 ちなみに『宮澤賢治物語(49)』の続きは、
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こん寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについて、さまざま話し合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後について、ホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
となっている。そしてまた、これだけ具体的でつまびらかな澤里の証言から判断して、澤里がこのような作り話をしているとは到底私には思えない。
 したがって、柳原昌悦の次の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。……………○柳

と『宮澤賢治物語(49)』とを互いに補完させて推論すれば、
    ・澤里と柳原が一緒に賢治の上京を見送ったのは大正15年12月2日のことである
そして同時に
・現在は定説となってはいないが、チェロを持って花巻駅を発つ賢治を澤里が「見送りは私ひとりで」と述懐する昭和2年11月頃の霙の降る日の上京もあった
と結論する事の方がやはりかなり合理的だと言える。
 チェロの猛練習で賢治は病気に
 では次は、『宮澤賢治物語(49)』の続き、翌日2月23日付『岩手日報』に載った『宮澤賢治物語(50)』を見てみよう。
  セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです。
 手紙の中にはセロのことは出てきておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月23日付『岩手日報』より>
 この証言の中身を知って、やはりチェロの練習は並大抵のものではなく、賢治もかなり難儀したであろうことが容易に察せられる。
 実際、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも、18歳頃の自分について、
 遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)156pより>

と述懐しているくらいだからである(これが以前「後述する」と言った西内の述懐である)。ましてや30歳を越えて習い始めた賢治にしてみれば、「最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです」であったであろうことは想像に難くない。
 したがって、賢治自身が上京当時のことを述懐しながら澤里に語ったのであろうこの猛練習の中身や賢治が味わった計りしれない苦難は、話しのスジとしては理に適っているから実態は澤里のこの証言どおりであったであろうと私は判断している。
 それゆえ、この西村氏の追想を知った私は、この連載『宮澤賢治物語(49)、(50)』で語られている昭和2年の11月頃から約3ヶ月間の滞京は事実であったという確信がますます強まってくる。
 ところで、こちらの証言の中で特に気になるのが次の二項目である。
・まず第一は、澤里も指摘しているように「(賢治が出した)手紙の中にはセロのことは出てきておりません」
・その第二は、「病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」
 まず前者について。たしかに書簡集の『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を見てみると、賢治が大正15年12月中に出した書簡にはセロの「セ」の字も全く出てこないから澤里の言うとおりである。タイプライターのこと、オルガンのこと、エスペラントのこと、観劇のこと、図書館通いのこと、二百円もの無心のこと等を事細かに父政次郎宛書簡では報告をしているのに、チェロに関しては一切そこには出て来ない。なぜチェロのことは書簡に書かれていないのだろうか。
 ここは素直に考えて、大正15年12月の上京の目的の中にチェロの練習は当初は全く予定になく、滞京の終盤に至って初めて突如チェロが欲しくなったという見方ができるのではなかろうか。
 そして後者については、あまりもの無視のされようにただただ驚くしかない。いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになったということに、である。「下根子桜時代」に3ヶ月弱もの長い間賢治は滞京していたが無理がたたって病気になったという一大事があったということを澤里が証言しているのに…。

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               電話 0198-24-9813

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