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「賢治年譜」から消えてゆく

2019-04-05 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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2 年譜から消えてゆく
 さて、かつての殆どの「宮澤賢治年譜」にはあったのにいつの間にか消えてしまったものがある。
 そこでこのことに関しての思考実験を以下に試みる。
 準備 かつての「定説
 まずそのための準備である。以前に〝「宮澤賢治年譜」の書き変え〟でも列挙したように、かつての「宮澤賢治年譜」には、
(ア) 昭和2年
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
(イ) 昭和3年
  1月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
というものがあった。これらは当時のいわば「定説」であった。しかし、現「賢治年譜」にはこれらの記述は消えてしまっていてもはやない<*1>。
 もちろん、もし(ア)や(イ)がその後に事実でないということが判ったというのであればその措置は当然のことである。例えば、これらに対する反例がそれぞれ見つかったということなどがあったとしたのならば。しかし、そのようなものが見つかったなどということは公的には一切知らされていないはずである。とすれば考えられることは次の、
 ・実は反例があるのだがそれは公にできない。
 ・反例などないが不都合な真実だから抹消してしまいたい。
の二つの場合である。しかもいずれの場合にしても、「不都合な真実」であるから覆い隠してしまいたかったということに結局なりそうだ。
 準備 羅須地人協会の評価
 それにしても、羅須地人協会はあまりにもわかっていないことが多すぎる、と私には見える。だから、羅須地人協会の総体をどう評価すればいいのか私は皆目見当がつかないままにいる。
 では一般にはそれはどのように評価されているのだろうか。例えば、佐藤通雅氏は『宮沢賢治から<宮沢賢治>へ』(學藝書林)の中の章「亀裂する祝祭 羅須地人協会論」において次のように見ていると、私には読み取れる。
 羅須地人協会に関しての評価は正反対に分裂している。一つは賢治がこの地上において試みようとした理想郷、その思想は時代を超えた秀抜さがあるとする考えである。もう一つは逆に時代条件を考慮に入れぬ極めて脆弱な試行であって、文学の達成と関わりのない愚行だとする考えである。そして、前者の考えを代表するのが谷川徹三で、その理想世界を高く評価した。
と。
 たしかに佐藤氏の紹介するとおり、賢治の羅須地人協会については極めて高く評価している人達も多いと思う。
 準備完了
 では、以前に述べたことと今述べたこととを併せて次の6つのことを確認しておきたい。
(a) かつての「定説」として「賢治年譜」の中に(ア)と(イ)があった。
(b) 昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消えていった。 
(c) 大正15年12月2日の上京の典拠を『宮澤賢治物語』等にある澤里証言とすれば「現定説」は自己撞着に陥ってしまう。
(d) 賢治の羅須地人協会に関しては極めて高く評価している 人達も多い。
(e)『宮澤賢治物語』の中で澤里は、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」と証言している。
(f) 新聞連載の『宮澤賢治物語』が単行本となった際に、「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません」の部分が著者以外の何者かによって「宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年に上京して花巻にはおりません」と改竄された。
これで実験の準備は完了した。
 思考実験(年譜からの削除)
 では本番の思考実験を開始したい。
 かつて「定説」として(ア)と(イ)があった(=(a))のに、どうして昭和32年頃を境として、以後(ア)と(イ)が「賢治年譜」から消滅していった(=(b))のか。
 それは先の「実験準備」でも示したように、その頃からそれらは当時の賢治像としては「不都合な真実」だから消し去ってしまいたいという流れが作られていったので、その流れに従わざるを得なかったからである。
 実際、谷川徹三を始めとした「羅須地人協会に」対する当時の高い評価(=(d))からすれば、その「羅須地人協会時代」2年4ヶ月余の中に空白と見なされそうな約3ヶ月があり、しかも、その間の無理なチェロの練習がたたって病気になって花巻に戻った昭和3年1月の賢治が「漸次身體衰弱」状態であった(≒(e))ことに繋がる(ア)と(イ)が「賢治年譜」に明記されてあるのはまずいので不都合だと、当時ある有力な人物X氏は考えた。
 そこで、X氏はこのような情報操作(=(b))を実際に行った。併せて、この「(ア)と(イ)」と密接に関連する(c)の『宮澤賢治物語』における澤里証言がそのまま巷間広まることを避けねばならぬ、と思い詰めたX氏は『宮澤賢治物語』を改竄をした(=(f))。〈思考実験終了〉
 なお、以上はあくまでも単なる実験である。もしかするとそのような可能性はあったかもしれない、という程度のことであり、これが真実だったと主張している訳では毛頭ない。

<*1:投稿者註> 前者(ア)については、〝「羅須地人協会時代」の詩創作数〟の註釈<*1:註>をご覧いただきたい。後者(イ)については、以下のとおりである。  
 主だった「宮澤賢治年譜」の中から「1月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す」と似た内容の記載を抜き出しながら、年代順に並べてみたのが次表である。
【表6 「宮澤賢治年譜」の昭和3年1月頃】
(1) 昭和17年発行
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
<『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
  -------昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著「宮澤賢治物語」が『岩手日報』紙上に連載---------
(6) 昭和32年発行
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た。
<『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行
昭和三年(一九二八)  三十二歳
二月 『銅鑼』第十三号に詩「氷質の冗談」を発表。
三月 花巻の人梅野健三氏編集の『聖燈』に詩「稲作挿話」を発表。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが 漸次身體が衰弱してきた(旧字体が使用されていることから推して、ここは以前のものをそのまま使ったと思われる)。
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」
を發表。
三月、『聖燈』(發行所花巻町)に詩「稲作挿話」を發表。
<『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(9) 昭和52年発行
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
<『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
二月九日 湯本村伊藤庄右衛門の依頼をうけ、農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
<「新校本年譜」(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>
 つまり、このリストに従えば、「1月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す」という意味の記載は、『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)で消えてしまって、その後は消え続けている。

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