みちのくの山野草

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梅野健三と賢治について(後編)

2019-01-16 08:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 そして〝3827 梅野健造のある証言(#4)〟においては、次のようなことなどを私は述べたのだった。
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梅野健造のある証言
 この度、賢治が事情聴取を受けたことに関して、梅野健造が「賢治との出会い」の中で
 昭和三年四月、労農党の主張は危険思想であるとする政府・取締当局の弾圧により本部・全国支部は解散された。これと前後して羅須地人協会は農民を思想的に指導しているとして賢治は花巻署に召喚・取調べを受け、やむなく協会を解散するに至った。
 その頃、健康を害していた私は一年あまり続いた〝無名作家〟を休刊していたが、昭和三年二月積雪深い桜の山荘に賢治を訪問した。案内された二階で炬燵を囲んだが精神的な苦悩から顔色が勝れなかったが相手をそらさない笑顔が痛々しく感じられた。
 私は暫くの無音を謝し、その後の文芸活動の足どりや文学上の諸問題について教えを乞いながら語ったが偶々羅須地人協会の解散に触れると
 -誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい-
と静かにその決心を述べられた。私は更に中央に興りつつあるプロレタリア文学運動にいて説明し、文学の時代性は理解しているが、いまはこれらに捉われないで真の道を索めたい、と心境を率直に語り、総合誌〝聖燈〟の発刊を準備中であることを告げると、深く頷かれ
 -それでいい、それで結構だと思う…-
とやさしく共感を示され〝聖燈〟創刊号に〝稲作挿話〟を寄稿されたのであった。
              <『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)9p~より>
と述べていることを知った。
賢治が警察から受けた取り調べ
 すると、この梅野の証言からは
(1) 宮澤賢治は昭和3年4月前後に警察から取り調べを受けていた。しかもそれは思想上問題があると思われたからであり、それがもとで賢治は羅須地人協会を解散した。
ということがまず導かれる。ならば、この(1)の取り調べが伊藤儀一郎によって行われたかといえば、それはないだろう。なぜならば、伊藤儀一郎の花巻警察署長勤務期間は「大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間」であり、これが「昭和3年4月前後」となりうるかというと、常識的には否、だからである。したがってこの結果からは、賢治は少なくとも2回は警察から取り調べを受けたということが導かれる。この(1)以外に、大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間に伊藤儀一郎から受けた事情聴取があることが既に明らかになっているからだ。
 ではもう一度先の梅野の証言を見直してみよう。すると、梅野が昭和3年2月に賢治の許を訪れた際に羅須地人協会の解散のことに触れたならば
 誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい。
と賢治は語ったということだから、昭和3年2月以前に賢治は(1)とは異なる「誤解のため取調」を受けていたこともあり得ることになる。
 ならばこの取り調べこそが伊藤儀一郎によって為されたものであろうか。しかし、伊藤が賢治を取り調べることができたのは当然「大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間」でしかあり得ず、この期間に行われた取り調べのことを指して賢治が「誤解のため取調」とはたして言っただろうか。少なくともその期間からは半年以上も隔たっているのでこれは伊藤からの取り調べを指しているとは私には思えない。それよりは次のように考えた方が自然であろう。
昭和3年2月頃賢治は取り調べを受けた
 そもそも梅野の証言に従うならば、まず昭和3年4月前後の取り調べがあったことは確実である。そしてそのことがあったので賢治は、やむなく羅須地人協会を解散するに至った、ということにもなる。
 そして一方、梅野が昭和3年2月に下根子桜を訪れた際に、羅須地人協会の解散に触れたところ、『誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい』と賢治は答えたということだから、もうこの時点で賢治は警察からの取り調べが既になされていて、それがもとで羅須地人協会を解散したということを、賢治は梅野に語ったということになる。つまり
(2) 昭和3年2月以前に賢治は警察から取り調べを受けてそれがもとで羅須地人協会を解散したが、これからも農村のため出来る限りの努力をしたい。
と賢治は言ったということになろう。
 したがって、この(1)も(2)も共に、警察から事情聴取を受け、それがもとで羅須地人協会を解散したという同じ構図となっていることので、これは同一のことを指していると考えるのが妥当な判断であろう。言い方を換えれば、
  賢治は昭和3年4月前後に警察から取り調べを受けていた。
という取り調べは
  昭和3年2月頃に行われた「誤解のため取調
のことを指していると考えるのが妥当であろう。すなわち、
 昭和3年2月頃、賢治は思想上の問題があると見られて警察から「誤解のため取調」べを受け、それがもとで羅須地人協会を解散した。………◎
という可能性の方がかなり大であるということが梅野健造の証言から言える。
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 ところが私はその後、『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)を観て、梅野建造が、
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)157p〉
ということを新たに知ったので、賢治は警察から、
   ⑴ 大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間に伊藤儀一郎から
   ⑵ 昭和3年2月頃に行われた「誤解のため取調
   ⑶ 昭和3年4月前後に
の計3回取り調べを受けていたという蓋然性が高いことが導かれる、と修正したい。

 さてそうなると、この〝⑶〟は例の三・一五事件に関わるものであったか、陸軍大演習に関わるものであったかのいずれかである蓋然性が高いことになる。
 そして同時に、賢治が昭和3年の6月に、田植や草取りで多忙な農繁期に地元花巻を離れ、伊豆大島まで出掛けていったのはこの〝⑶〟があったためでもなかろうか、ということがおのずから浮かび上がってくる。それは佐藤竜一氏が「逃避行」であったと主張するように、警察からのさらなる追求から逃れるためであったということもますます否定できなくなってきたということでもある。そう考えれば、伊豆大島訪問を終えたというのに、農繁期の花巻に戻らずに、滞京を続けながら浮世絵鑑賞に、そして連日のように観劇に出かけていることや、図書館に通い続けて当面差し迫ったこととは思えぬ『BRITISHU FLORAL DECORATION』の原文抜粋筆写及び写真のスケッチを手間暇かけて行い、『MEMO FLORA手帳』を作ったのも、なるほどなと頷ける。

 以上長々と論じてきたが、最終的に言いたいことは以下のとおりである。
 梅野建造は、名須川によれば(文学グループ)に属しているのだが、梅野の「私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は」という発言のいみじくも「やったりしたもんだからね」の一言からから導かれるように、
 梅野建造は文学分野の活動のみならず、少なくとも労農党のシンパのような活動にも熱心だったと言えるだろう(それは拘束期間が伊藤勇雄や川村尚三よりも梅野建造が長期間だったということから傍証されるからである)。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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