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《↑『宮澤賢治幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)》
今回は「大島行き」について調べてみたい。
『宮澤賢治幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)には次のようなことなどが書かれていた。
1928(昭和3)年当時、水沢の豪農伊藤家の伊藤七雄と妹・チヱは水沢を離れ伊豆大島に住んでいた。その兄妹がその年の春、賢治を訪ねて花巻にやって来た。ときに七雄29歳、(チヱはおそらく22歳=投稿者註)賢治31歳であった。
伊藤兄妹が花巻に賢治を訪れた理由は、七雄が大島で開校を計画していた農芸学校についての助言をもらうことと、大島の土壌調査の依頼のためであった。が実は、賢治には伏せられていたが、伊藤家側ではチヱを賢治の嫁にと考えていて、その容姿や人柄を見てもらいたいという目的もあった。
そして実際、同年6月7日賢治は花巻を発って伊藤兄妹を訪ねるために伊豆大島に向かった。途中仙台に寄ったり、水戸に寄ったりして8日東京着、12日大島に着。そして伊藤兄妹に再会。チヱは後年森荘已池に対して、この訪問の際の賢治の印象を
「あの人はお見受けいたしましたところ、普通の人と御変わりなく、明るく心から楽しそうに兄と話して居れれましたが、その御語の内容から良く判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれていらっしゃる御様子と、結婚など問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かされました時、私は本当に心から申訳なく、はっとしてしまいました」「あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話はしませんでした」
と語っていたという。
そして、賢治は14日大島をあとにするがそのときのことを次のように詠んでいる。
なぜわたくしは離れて来るその島を
じっと見つめて来なかったのでせう
もういま南にあなたの島すっかり見えず
わづかに伊豆の山山が
その方向を示すだけです
たうたうわたくしは
いそがしくあなた方を離れてしまったのです。
…(略)…
その後、東京に着いた賢治は、上野の帝国図書館や農林省で調査研究を行い、上野公園内府立美術館で開催中の浮世絵展覧会を見た。また、新橋演舞場や築地小劇場などにも観劇に行ったらしく、花巻に戻ったのは21日であった。
なお、大島から帰ってきた賢治は藤原嘉藤治に会った際に、チヱに関して
「あぶなかった。全く神父セルゲイを思い出した。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったという。
ただしチヱとの結婚話が立ち消えとなった。花巻に戻った賢治を襲ったのは岩手の旱魃であり、畑作は全滅に近く、水稲に稲熱病が発生した。賢治はその予防と駆除に奔走したが、その激務がもともと弱かった賢治の健康を蝕み8月10日遂に病に倒れる。そのまま豊沢町の実家で病臥し、熱に苦しむこと40日に及んだ。続いて12月には急性肺炎を起こす。チヱとの結婚話は賢治の病臥でそれどころではなくなったからである。
というわけで、『宮澤賢治幻の恋人』を読んでみて伊藤チヱに関してある程度イメージできた。さらには『神父セルゲイ』を引き合いに出すくらいだから賢治はチヱに心がかなり動いたものと思われる。一方この大島行きに際して賢治は「三原三部」という三編の長詩を詠んでいるということだが、たしか賢治はしばらく詩を殆ど詠んでいなかったはずである。なのにそれが、この大島行きにおいては突如長詩を三編も詠んだということは賢治の気持ちがかなり昂揚していたということを示唆しているのだろう。
また、『宮澤賢治と幻の恋人』の中の〝伊藤ちゑ〟に関しては『宮澤賢治と三人の女性』等をもとにして書いているようなので、それが収められている『宮沢賢治の肖像』を調べてみた。すると、たしかにそのような章『宮澤賢治と三人の女性』があり、その章の中の節〝「三原三部」の人〟に伊藤ちゑのことがかなり詳細に述べられている。
ところで、この節の中で森荘已池は次のようにも語っていた。
崇拝のレッテルをはられ、神格の仮面をかぶせられ、神格化され、伝説化される可能性の多い賢治を、人間のわくの中におき、人間として、芸術家として詩人としておくためにも、晩年の賢治が、事情がゆるしさえすれば結婚していたかも知れず、その相手の人さえはっきりしていたということは、正確に記述して置く義務があることと思う。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)>
ついいままでは森荘已池はコチコチの賢治崇拝者であろうと私は勝手に決め付けてしまっていたのだが、森は実はそうではなかったのだということをここで初めて知った。賢治が聖人君子化されることを早い時点から懸念し、それを避けるために『正確に記述して置く義務がある』と決意を述べている森荘已池は〝本物の物書きだったのだ〟ということを知り、私は己の不明を恥じてしまった。
なお、横道にそれるが森はこの節の中で次のようなことも言っていた。
ちゑさんは、宮沢さんと二回あっただけだといいました。一回会おうが百回会おうが、そんなことはどうでもよいことだといいました。『土に叫ぶ』の松田甚次郎氏だって、たった二回あったきりでした。その一回目の訪問から、ああいう仕事が生まれてきているのです。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)>
この部分を読んで、やはり松田甚次郎は賢治と二回しか相見えていなかったのだと確信した。ちなみに、この『宮澤賢治と三人の女性』は森荘已池が『六甲』の昭和16年1月号に発表したものだという。この時期ならば、ベストセラー作家として松田甚次郎の名が全国で一躍脚光を浴びるようになっていたはずの頃である。
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今回は「大島行き」について調べてみたい。
『宮澤賢治幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)には次のようなことなどが書かれていた。
1928(昭和3)年当時、水沢の豪農伊藤家の伊藤七雄と妹・チヱは水沢を離れ伊豆大島に住んでいた。その兄妹がその年の春、賢治を訪ねて花巻にやって来た。ときに七雄29歳、(チヱはおそらく22歳=投稿者註)賢治31歳であった。
伊藤兄妹が花巻に賢治を訪れた理由は、七雄が大島で開校を計画していた農芸学校についての助言をもらうことと、大島の土壌調査の依頼のためであった。が実は、賢治には伏せられていたが、伊藤家側ではチヱを賢治の嫁にと考えていて、その容姿や人柄を見てもらいたいという目的もあった。
そして実際、同年6月7日賢治は花巻を発って伊藤兄妹を訪ねるために伊豆大島に向かった。途中仙台に寄ったり、水戸に寄ったりして8日東京着、12日大島に着。そして伊藤兄妹に再会。チヱは後年森荘已池に対して、この訪問の際の賢治の印象を
「あの人はお見受けいたしましたところ、普通の人と御変わりなく、明るく心から楽しそうに兄と話して居れれましたが、その御語の内容から良く判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれていらっしゃる御様子と、結婚など問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かされました時、私は本当に心から申訳なく、はっとしてしまいました」「あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話はしませんでした」
と語っていたという。
そして、賢治は14日大島をあとにするがそのときのことを次のように詠んでいる。
なぜわたくしは離れて来るその島を
じっと見つめて来なかったのでせう
もういま南にあなたの島すっかり見えず
わづかに伊豆の山山が
その方向を示すだけです
たうたうわたくしは
いそがしくあなた方を離れてしまったのです。
…(略)…
その後、東京に着いた賢治は、上野の帝国図書館や農林省で調査研究を行い、上野公園内府立美術館で開催中の浮世絵展覧会を見た。また、新橋演舞場や築地小劇場などにも観劇に行ったらしく、花巻に戻ったのは21日であった。
なお、大島から帰ってきた賢治は藤原嘉藤治に会った際に、チヱに関して
「あぶなかった。全く神父セルゲイを思い出した。指は切らなかったがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったという。
ただしチヱとの結婚話が立ち消えとなった。花巻に戻った賢治を襲ったのは岩手の旱魃であり、畑作は全滅に近く、水稲に稲熱病が発生した。賢治はその予防と駆除に奔走したが、その激務がもともと弱かった賢治の健康を蝕み8月10日遂に病に倒れる。そのまま豊沢町の実家で病臥し、熱に苦しむこと40日に及んだ。続いて12月には急性肺炎を起こす。チヱとの結婚話は賢治の病臥でそれどころではなくなったからである。
というわけで、『宮澤賢治幻の恋人』を読んでみて伊藤チヱに関してある程度イメージできた。さらには『神父セルゲイ』を引き合いに出すくらいだから賢治はチヱに心がかなり動いたものと思われる。一方この大島行きに際して賢治は「三原三部」という三編の長詩を詠んでいるということだが、たしか賢治はしばらく詩を殆ど詠んでいなかったはずである。なのにそれが、この大島行きにおいては突如長詩を三編も詠んだということは賢治の気持ちがかなり昂揚していたということを示唆しているのだろう。
また、『宮澤賢治と幻の恋人』の中の〝伊藤ちゑ〟に関しては『宮澤賢治と三人の女性』等をもとにして書いているようなので、それが収められている『宮沢賢治の肖像』を調べてみた。すると、たしかにそのような章『宮澤賢治と三人の女性』があり、その章の中の節〝「三原三部」の人〟に伊藤ちゑのことがかなり詳細に述べられている。
ところで、この節の中で森荘已池は次のようにも語っていた。
崇拝のレッテルをはられ、神格の仮面をかぶせられ、神格化され、伝説化される可能性の多い賢治を、人間のわくの中におき、人間として、芸術家として詩人としておくためにも、晩年の賢治が、事情がゆるしさえすれば結婚していたかも知れず、その相手の人さえはっきりしていたということは、正確に記述して置く義務があることと思う。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)>
ついいままでは森荘已池はコチコチの賢治崇拝者であろうと私は勝手に決め付けてしまっていたのだが、森は実はそうではなかったのだということをここで初めて知った。賢治が聖人君子化されることを早い時点から懸念し、それを避けるために『正確に記述して置く義務がある』と決意を述べている森荘已池は〝本物の物書きだったのだ〟ということを知り、私は己の不明を恥じてしまった。
なお、横道にそれるが森はこの節の中で次のようなことも言っていた。
ちゑさんは、宮沢さんと二回あっただけだといいました。一回会おうが百回会おうが、そんなことはどうでもよいことだといいました。『土に叫ぶ』の松田甚次郎氏だって、たった二回あったきりでした。その一回目の訪問から、ああいう仕事が生まれてきているのです。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)>
この部分を読んで、やはり松田甚次郎は賢治と二回しか相見えていなかったのだと確信した。ちなみに、この『宮澤賢治と三人の女性』は森荘已池が『六甲』の昭和16年1月号に発表したものだという。この時期ならば、ベストセラー作家として松田甚次郎の名が全国で一躍脚光を浴びるようになっていたはずの頃である。
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