《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)
ところで、梅野建造については以前、〝3816 梅野健造のある証言(#1)〟において、
梅野健造の「賢治との出会い」を読んでいたところ、次のような証言に出くわし、
<『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)8pより> 大正一五年一一月の末、降り続いた小雪もやみ、よく晴れた午下がり、私は羅須地人協会に賢治を訪ねた。二時間程の遠い道程であったが特異な天才詩人に会える悦びで心が晴々としていた。
桜町から羅須地人協会への岐れの間道附近は、人家も疎らで松の木立のとりまく周辺は静かな初冬の夕暮れであった。
私は北側入口に立って来意を告げると二階を降りる足音がして
-どなたですか-と凛とした声がした。お目にかかってご教示を得たい旨連絡していた私は名前を告げると、
-遠いところご苦労さん、どうぞ……-と労りの言葉をかけられ二階に案内された。明るい部屋の硝子戸を通して遠く清澄な北上川が流れ、麓には広々とした田野が展けていた。部屋の左側に机、整理棚、そしてオルガンが置かれ…(略)…
桜町から羅須地人協会への岐れの間道附近は、人家も疎らで松の木立のとりまく周辺は静かな初冬の夕暮れであった。
私は北側入口に立って来意を告げると二階を降りる足音がして
-どなたですか-と凛とした声がした。お目にかかってご教示を得たい旨連絡していた私は名前を告げると、
-遠いところご苦労さん、どうぞ……-と労りの言葉をかけられ二階に案内された。明るい部屋の硝子戸を通して遠く清澄な北上川が流れ、麓には広々とした田野が展けていた。部屋の左側に机、整理棚、そしてオルガンが置かれ…(略)…
という追想から、梅野は賢治との親交があったことを私は知ったと述べた。
次に、〝3819 梅野健造のある証言(#2)〟においては、
梅野健造は大正15年の11月末に羅須地人協会を訪れて賢治と会っていた。……②
という証言は重要だということを指摘した<*1>。
さらに、〝3821 梅野健造のある証言(#3)〟においては、同じく梅野の、
昭和三年二月積雪深い桜の山荘に賢治を訪問した。案内された二階で炬燵を囲んだが精神的な苦悩から顔色が勝れなかったが相手をそらさない笑顔が痛々しく感じられた。
<『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)10pより>という証言は、
昭和3年2月の賢治は見た目からしても精神的にかなり衰弱していた。…………⑤
ということに留意しておくことが必要であると述べた。それは、賢治のこの様子から窺えることは、この時期に賢治はかなりしんどい精神状態にあったと推断できるからである。
そこで、昭和3年2月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、
二月九日(木) 湯本小学校で農事講演会に出席し、講演。帰途堀籠文之進の長男を見舞う。
二月初旬 労農党稗和支部の事務所に帰ってみたら「謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったもものだ、と聞いた」という。(煤孫利吉談)
第一回普通選挙の投票日は二月二〇日であるが、労農党員だった煤孫利吉によるとこの選挙運動のとき「二月初めの頃だったと思うが、労農党稗貫支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書きしたビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった。『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっとおいていったものだ、と聞いた。」という。
二月一五日(水) 堀籠文之進の長男を見舞う。
二月 梅野健造来訪。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>二月初旬 労農党稗和支部の事務所に帰ってみたら「謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったもものだ、と聞いた」という。(煤孫利吉談)
第一回普通選挙の投票日は二月二〇日であるが、労農党員だった煤孫利吉によるとこの選挙運動のとき「二月初めの頃だったと思うが、労農党稗貫支部の長屋の事務所は混雑していた。バケツにしょうふ(のり)を入れてハケを持って「泉国三郎」と新聞紙に大書きしたビラを街にはりに歩いたものだった。事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった。『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっとおいていったものだ、と聞いた。」という。
二月一五日(水) 堀籠文之進の長男を見舞う。
二月 梅野健造来訪。
となるから、普選に関する賢治の支援活動が結果的にもたらした「精神的衰弱」であったのだろうか。
あるいは、『本統の賢治と本当の露』の〝㈡「羅須地人協会時代」の上京について〟において実証したことだが、
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)41p~〉・昭和3年1月頃:約三ヶ月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
ということによる、その「漸次身軆衰弱」だったのだろうか。
はたまた、昭和2年2月1日の『岩手日報』の新聞報道に関わって
花巻警察の取調べを受ける
ということも言われているから、そのせいでだったのであろうか。
<*1:註> よって、「大正一五年一一月の末」に賢治は下根子桜に居たということを梅野は証言していることになる。一方、かなり以前のことだが、私が検証できた仮説「賢治昭和二年上京」を否定せんが為に、反例を突きつけずに(突きつけることができなくて?)、《「大正15年11月に賢治は上京した』とあくまでも言い張る「宮沢賢治賞」受賞者H氏》が私に挑んでこられたことがある。そこで私はその方に、「ならば、その大正15年11月上京説なるものをご自身で検証作業を完了なされることで全てが解決出来ます」というようなアドバイスしてあげたのだが、その後検証作業は終えたのだろうか。残念ながらその連絡は未だ梨の礫だ。それはある意味当然だろう。元々無理筋だったということをこの梅野の証言は示唆していそうだからだ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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