みちのくの山野草

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3827 梅野健造のある証言(#4)

2014-04-06 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
伊藤儀一郎から事情聴取
 一般的にはその時期は不明だが、賢治が花巻警察署長伊藤儀一郎から事情聴取を受けたということはよく知られていることである。ただし、この伊藤が花巻警察署に勤務していた期間はほぼ大正15年10月~昭和2年6月頃であったことが阿部晁の『家政日誌』から明らかであるから、
 賢治が花巻警察署長伊藤儀一郎から事情聴取を受けたのは大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間のいつかである。
と判断できる。

梅野健造のある証言
 この度、賢治が事情聴取を受けたことに関して、梅野健造が「賢治との出会い」の中で
 昭和三年四月、労農党の主張は危険思想であるとする政府・取締当局の弾圧により本部・全国支部は解散された。これと前後して羅須地人協会は農民を思想的に指導しているとして賢治は花巻署に召喚・取調べを受け、やむなく協会を解散するに至った。
 その頃、健康を害していた私は一年あまり続いた〝無名作家〟を休刊していたが、昭和三年二月積雪深い桜の山荘に賢治を訪問した。案内された二階で炬燵を囲んだが精神的な苦悩から顔色が勝れなかったが相手をそらさない笑顔が痛々しく感じられた。
 私は暫くの無音を謝し、その後の文芸活動の足どりや文学上の諸問題について教えを乞いながら語ったが偶々羅須地人協会の解散に触れると
 -誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい-
と静かにその決心を述べられた。私は更に中央に興りつつあるプロレタリア文学運動にいて説明し、文学の時代性は理解しているが、いまはこれらに捉われないで真の道を索めたい、と心境を率直に語り、総合誌〝聖燈〟の発刊を準備中であることを告げると、深く頷かれ
 -それでいい、それで結構だと思う…-
とやさしく共感を示され〝聖燈〟創刊号に〝稲作挿話〟を寄稿されたのであった。
              <『賢治研究33号』(宮沢賢治研究会)9p~より>
と述べていることを知った。

賢治が警察から受けた取り調べ
 すると、この梅野の証言からは
(1) 宮澤賢治は昭和3年4月前後に警察から取り調べを受けていた。しかもそれは思想上問題があると思われたからであり、それがもとで賢治は羅須地人協会を解散した。
ということがまず導かれる。ならば、この(1)の取り調べが伊藤儀一郎によって行われたかといえば、それはないだろう。なぜならば、「大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間」が「昭和3年4月前後」となりうるかというと、常識的には否、だからである。したがってこの結果からは、賢治は少なくとも2回は警察から取り調べを受けたということが導かれる。この(1)以外に、伊藤儀一郎から受けた事情聴取があることになるからだ。
 ではもう一度先の梅野の証言を見直してみよう。すると、梅野が昭和3年2月に賢治の許を訪れた際に羅須地人協会の解散のことに触れたならば
 誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい。
と賢治は語ったということだから、昭和3年2月以前に賢治は(1)とは異なる「誤解のため取調」を受けていたこともあり得ることになる。
 ならばこの取り調べこそが伊藤儀一郎によって為されたものであろうか。しかし、伊藤が賢治を取り調べることができたのは当然「大正15年10月頃~昭和2年6月頃の間」でしかあり得ず、この期間に行われた取り調べのことを指して賢治が「誤解のため取調」とはたして言っただろうか。少なくともその期間からは半年以上も隔たっているのでこれは伊藤からの取り調べを指しているとは私には思えない。それよりは次のように考えた方が自然であろう。

昭和3年2月頃賢治は取り調べを受けた
 そもそも梅野の証言に従うならば、まず昭和3年4月前後の取り調べがあったことは確実である。そしてそのことがあったので賢治は、やむなく羅須地人協会を解散するに至った、ということにもなる。
 そして一方、梅野が昭和3年2月に下根子桜を訪れた際に、羅須地人協会の解散に触れたところ、『誤解のため取調を受けたがこれからも農村のため出来る限りの努力をしたい』と賢治は答えたということだから、もうこの時点で賢治は警察からの取り調べが既になされていて、それがもとで羅須地人協会を解散したということを、賢治は梅野に語ったということになる。つまり
(2) 昭和3年2月以前に賢治は警察から取り調べを受けてそれがもとで羅須地人協会を解散したが、これからも農村のため出来る限りの努力をしたい。
と賢治は言ったということになろう。
 したがって、この(1)も(2)も共に、警察から事情聴取を受け、それがもとで羅須地人協会を解散したという同じ構図となっていることので、これは同一のことを指していると考えるのが妥当な判断であろう。言い方を換えれば、
  賢治は昭和3年4月前後に警察から取り調べを受けていた。
という取り調べは
  昭和3年2月頃に行われた「誤解のため取調
のことを指していると考えるのが妥当であろう。すなわち、
 昭和3年2月頃、賢治は思想上の問題があると見られて警察から「誤解のため取調」べを受け、それがもとで羅須地人協会を解散した。………◎
という可能性の方がかなり大であるということが梅野健造の証言から言える。

「3.15事件」との関連など
 また、梅野が昭和3年2月に桜を訪れた際に賢治が語った「誤解のため取調」とは、時期的な視点からは、その直後に行われた「3.15事件」に関連したものであった可能性も否定できない。実際、梅野健造(高涯幻二・鮎川草太郎)とは、兄の梅野草二と共に当時花巻でプロレタリア文芸を推進していた<*>人物であり、当然梅野健造自身もその際に警察から取り調べを受けた可能性が大だからである。そこで、賢治のことも気になって梅野は『暫くの無音を謝し』ながら、訪れたという推測もできるからである。 
 もちろんこの梅野の証言からは、羅須地人協会の解散は昭和3年に入ってからと考えた方がより妥当であり、自ずから、
 昭和2年の2月1日付『岩手日報』の報道により解散したのは羅須地人協会ではなくて、この報道により賢治が解散をしたのはあの「楽団」の方であった。
ということにやはりなろう
 なお当然、伊藤儀一郎によって為された賢治に対する事情聴取は別の機会と考えた方がよさそうだ。そして、そのヒントを小原忠が教えてくれていると私は思っているのだが、それは後ほど述べたいと思う。

<*:註> 大正時代のおわりごろより昭和のはじめにかけて、花城小学校などを中心に綴方教育がさかんであった。そして「種蒔く人々」や「文芸戦線」「ナップ」、「戦旗」などが、弾圧下に密かに読まれたりした。花巻の地は、当時詩・短歌などの文学愛好グループが多く、現状打開の若々しい息に燃えた青年たちによって、文学熱がさかんなところであった。したがってプロレタリア系の文学者の来町も多く、文芸協会が結成されたり啄木会と共催による講演会が開かれたりした。賢治は、このような花巻の地から生まれた文学同人雑誌に、多くの作品をのせているのもゆえなしとしない。
          <名須川溢男著「宮沢賢治とその時代」、『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)所収、116pより>

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