みちのくの山野草

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梅木文夫(前編)

2019-01-17 08:00:00 | 賢師と賢治
《今はなき、外臺の大合歓木》(平成28年7月16日撮影)

 では今度は、梅木文夫なる人物について調べてゆきたい。
 名須川はこう書き出していた。
    ㈡ 梅木文夫
 社会主義研究と実践の団体牧民会から分離し、もっとさらに階級的自覚に立って、戦闘的前進しようと結成された下層民社。その「リーフレット下層民」に梅木文夫(明治四一年二月、花巻川口町御田屋町生まれ)について、

同志近況(大正十一年秋)
梅木文夫(無職)
無限社事件以来盛中退学、父君の下に鳴を沈めて黙道中

と、記されている。また、牧民会の「赤旗」には、梅木文夫のことについて、

▲盛中の梅木君遂に退学しました。春日校長の奴、どこ迄我々の仲間を迫害する奴だろう。あいつのために今迄暗々の中に我々の仲間が何人巧妙に退学させられたか知れない。………

とある。
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)468p~〉  
 この梅木については、以前〝3102 名須川の論文より(花巻農学校当時)〟において、やはり名須川溢男の論文「宮澤賢治とその時代」より、次のようなことを私は紹介した。
 さらにまた賢治は農学校教師ではあるが、学校内にとどまらず各地の農村をまわり、農事講演をしてい歩いた。…(略)…岩手の地における啄木会や牧民会に賢治は出ていた。あるいは加賀豊彦の講演に感激し社会問題に強い関心を示して、車夫などに社会主義の宣伝活動などをし、ために盛岡中学を退学させられた梅木文夫を中心に花巻の青年たちが、社会主義研究会を開いていたが、その青年たちが賢治を訪ねたり会合をもっていた。
              <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)110pより>
 賢治が啄木会の会員であったということは聞いたことがあるが、梅木らの「社会主義研究会」のメンバーが賢治の許を訪ねていたということは知らなかった。
また、同じく名須川の同論文において、
 その社会科学研究会は、花巻市桜の町営住宅(猫塚耕一借家)でおこなわれた。そばに刑事が見張りをしていた。時どき開かれたが梅木文夫が理論的な指導をしたようである。当時の参会者は今までに知り得たのは高橋慶吾、八重樫賢師、藤原清一、八重樫与五郎、猫塚耕一らであった。そばの町営住宅には一時的(?)だったか賢治がいたので、訪問したことなどもある。(昭和45年6月14日、猫塚耕一談)
             <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)111pより>
ということを、〝思考実験(官憲からのマーク、八重樫賢師)〟において私は紹介した。
 当然私は、「梅木文夫を中心に花巻の青年たちが、社会主義研究会を開いていたが、その青年たちが賢治を訪ねたり会合をもっていた」という記述が気になった。そしてもちろん、「そばの町営住宅には一時的(?)だったか賢治がいた」もである。そこで私はその後、梅木と賢治の親交の程度と内容を確認したく思いあれこれ取材を試みたのだが、何ら得るものはなかった。ならばこの論文「近代史と宮沢賢治の活動」の中にそれに関する記述があるのではと期待したのだが、残念ながらなさそうだ。

 一方で、盛岡中学時代の梅木について、名須川の論文はこう続く。 
 ところがある日、校内弁論の席上、「崩壊せんとする世界」という雄大な演題をひっさげて現れたこの梅木を見て、私はあっけにとられた。ふだん無口で、むしろ内気とも見られるこの少年が、開口一番、とうとう資本主義社会社会の悪を糾弾し、それがやがて帝国主義戦争によって崩壊し去ることを断言したのである。…(投稿者略)…
 まるで予言者のようだ。若き啄木もおそらく、こうだったにちがいない――と私は瞠目した――それから、間もなく梅木の姿は校内から消えた。
             〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)469p~〉
 この梅木の盛岡中学退学に関しては、以前〝471 梅木文夫について〟で次のように私は紹介したことがあった。
「牧民会(三八)」と梅木文夫
 昭和33年6月14日付『岩手日報』に載っていた「牧民会(三八)」には以下のようなこと等述べられていた。
 また、編集だよりには△盛中の梅木君はついに退学した。春日校長の奴、どこまで我々の仲間を迫害するのだろう。あいつのために今まで暗々の中に、我々の仲間が何人、巧妙に退学させられたか知れない。我々盛中関係の牧民会員が、梅木と関係あったかどうかは、世間の勝手な推測にまかせるとして、とにかく癪にさわる。――という一項もある。
 これらの記事から見ても、牧民会を中心とする社会主義者に対して、かなり、いわゆる紳士閥の攻勢が高まり、また教育界でも生徒の思想傾向について、きびしい圧迫を加えてきつつあったかを知ることができる。
 この『梅木君』というのは、花巻の旧家生まれの梅木文夫といって、頭脳の鋭い秀才だったが退学後年余にして病歿した。
 彼について、作家石上玄一郎は次のような思い出を語っている。――
 『私の盛岡中学時代に、梅木という上級生が、構内弁論大会で〝崩壊せんとする世界〟という題で演説を行った。その内容は、間もなく極端な帝国主義戦争の時代が来るが、次第に資本主義の世界は崩壊してゆくだろう。そしてかならず社会主義の時代がやってくる。――という論旨で、まだ中学の低学年であった私は、彼の新鮮さと大胆さに驚き、かつ深い感銘を覚えた。この梅木氏は、当時から社会主義団体の人びととも交遊があったせいか、とかく校内では社会主義者だというので白眼視されていた。その梅木氏のあり方が私のヒューマニテイを呼び、迫害者への同情と演説の内容から、私は次第に梅木氏の抱いている思想にひかれはじめたのであった』と。
         <『昭和33年6月14日付岩手日報』連載、鈴木彦次郎著「物語岩手社会運動史」より> 
と。梅木は石上玄一郞のみならず鈴木彦次郎にも強い印象と影響を与えていたわけだから、いかにずば抜けた人物であったかということが容易に創造できる。
 なお、『白堊同窓会会員名簿』(昭和59年3月版)によれば、梅木文夫は盛岡中学大正13年3月、第38回卒業生名簿の中の〝卒業外会員〟となっているから、おそらく大正8年入学生となろう。となれば、大正8年には約12歳のはずだから、梅木文夫はほぼ明治40年生まれとなろう。したがって、賢治より約11歳年下と考えられる。そのような梅木が賢治の許を訪ねたりしていたことになる。そういえば、賢治という人は自分と同年代というよりは、自分よりも一回り若い年下との交遊が多い傾向があと思うが、まさしく梅木はそのような人物の一人だったとも言えよう。
 また、上田重彦、すなわち石上玄一郎は昭和2年3月の卒業生だから、梅木よりも3学年下の後輩であったことが同名簿から知ることができる。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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