みちのくの山野草

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伊藤光弥氏の主張

2015-07-29 09:00:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 では今回は、伊藤光弥氏の「塚の根肥料相談所」が昭和3年3月15日にはたして開設されたのかという大いなる疑問、そしてそのことについての同氏の主張についてである。
 同氏は菊地信一の回想記「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一部、
 羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年三月十五日。雪きの消え失せた許りの並木敷地には、春の陽をいっぱいに受けて蕗の芽は萌え初めてゐた。
 柳原町長の盡力でポスターは貼られ、照井源三郎氏のお世話で慶長年間藩公の築かれた一里塚の向かひの店先に八畳敷と土間を提供され、荒造りの大きな卓子と火鉢二三個、そして四角の壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の関係の図が十数枚貼られ、風にガワガワゆらいでゐた。
 この町の南端―並木の間の光とかぜの中の小屋こそ、宮澤先生の努力で生まれた俗称『塚の根』肥料相談所であつた。…(以下投稿者略)…
 
             <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)14p~より>
を引用し、この菊地の証言を基にしてその開設時期は実は昭和三年ではなくて、前年の昭和二年のことではなかろうかと論じている。
 具体的には、伊藤氏は次のように続けている。
 この回想記にある昭和三(一九二八)年三月十五日は、共産党や労農党地方幹部などが全国一斉検挙された日である。…(投稿者略)…共産党やその同調者と見られた労農党、日本労働組合評議会などの幹部役員がこの日の検束対象となった。岩手県でも労農党盛岡支部や稗和支部の役員が拘束された。労農党シンパ(協力者)として支部結成や選挙運動に積極的な活動をしていた賢治が、はたしてこの日に取り調べを免れることができたであろうか。
              <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)16p~より>
というように、この「塚の根肥料相談所」は昭和3年3月15日から1週間ほど開かれたというのだから賢治は三月十五日の取り調べを免れたことになるが、はたしてそうだったのであろうかと疑問を呈し、菊地信一が石鳥谷肥料相談所の開設された日について
    羅須地人協会の生まれた翌年の昭和三年三月十五日。
と述べているが、
    羅須地人協会の設立は大正十五年であって、その翌年なら昭和二年のはずである。
              <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)17p~より>
からそれはおかしいとその訳を述べ、さらに論を進めて、続けて次のようにしてそれを裏付けようとしている。
 「その年は恐ろしく天候不順」であったと書いている。また、賢治が「陸羽百三十二号種を極力勧められ」、稲の倒伏を心配し「暑い日盛りを幾度となくそれらの稲田を見廻られた」などと書いているが、これらの記述は、かえって肥料相談の年が昭和三年ではなく昭和二年であったことを裏付けている。
              <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)17pより>
 さて、私はこの伊藤氏の主張を知って、ついつい昭和3年の夏の凄まじい「アカ狩り」にばかり目がいっていたが何でこのことに注意を払わなかったのかと悔いた。『そうだよな、この年には「三・一五事件」があったのだった』と私は自分の浅はかさにほぞをかんだ。
 この事件については、上田仲雄氏の論考「岩手無産運動史」によれば、
 所謂三・一五事件は、一道三府二七県に及ぶ、労農党、全日本無産社同盟、評議会、日農党の幹部の一斉検束を行い千五百六十八の検挙、送検七百名、被告訴五百三十人に及んでいる。
 この大検挙に追い打ちをかけ、四月十日、労農党、評議会、全日本無産青年同盟に解散を命じた。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)51p~より>
ということであり、「三・一五事件」は(その上田氏の表現を借りれば)「日本の無産運動にはかり知れない大打撃を与えた」のであった。そして奇しくも、『塚の根肥料相談所』の開設日とこの「三・一五事件」の起こった日は同一日であるということになっている。
 かつての私は、この「翌年の昭和三年三月十五日」という記述は単なる菊池信一の勘違いだろうと受け流し、その矛盾については検討もせずに来てしまったが、それは安易だった。どうやら、伊藤氏の「塚の根肥料相談所」の開設時期の指摘と前述した川村の証言も併せて考えれば、「石鳥谷肥料相談所」が塚の根に開設されたのは昭和3年3月15日とは言い切れないということだけはこれで確かとなった。新たな裏付けがほしいものである。もしその裏付けがなければ、この開設日を昭和3年3月15日としているのは「三・一五事件」の際に賢治が官憲から事情聴取されたことをくらますためではなかろうかと、変に勘ぐられかねない。
 なおもちろん、「塚の根肥料相談所」が石鳥谷に開設されたことだけは間違いない。それは菊池のみならず川村與左衛門や板垣亮一<*1>の証言からも明らかだからだ。問題は、それがいつ開かれたかということだ。

<*1:註> 板垣亮一の随筆によれば 
 石鳥谷肥料相談所は、午前八時ごろから、午後五時ごろまで開かれていたが…(略)…その相談所を訪れること三日間に及んだ私が聞いた説明の要旨は…
             <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)65pより>
ということである。

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