みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治三回目の「家出」>

2014-07-13 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
 では、先にチェックした
 (1) 賢治は、着京直後はある程度営業できるだけの体力はあった。
 (2) 賢治は、少なくとも暫く滞京するつもりでいた。
 (3) 賢治は、暫く滞京することを実家の父等には知れたくなかった。
 (4) 賢治が遺書を書くだけの理由は全く読み取れない。
 (5) 賢治には、この時の上京にはうしろめたい気持ちがあった。
に留意しながら、これは以前一度投稿したものであるが、その一部を変更して「東北砕石工場技師時代」の賢治の上京の真実の一つの可能性を探ってみたい。それは何人も唱えて等いない<賢治三回目の「家出」>に関してであり、そのタイトルは思考実験<賢治三回目の「家出」>である。

伊藤ちゑとの結婚話が「伏線」
吉田 先ずは、伊藤ちゑに関するいくつかの事項を時系列にしたがって並べてみよう。
鈴木 そうだな~
 大正15年秋~昭和2年夏:下根子桜の賢治の許に高瀬露出入り(菊池映一氏の証言より)。
 昭和2年秋   :伊藤ちゑ兄と共に来花、賢治と会う(10月29日付藤原嘉藤治宛書簡より)。
 昭和3年6月  :賢治伊豆大島行。
 同時期帰花後 :大島から戻った賢治は嘉藤治に、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったという。<*1>
 昭和3年8月~ :賢治実家に帰り、後病臥。
      (この間何もなし)
 昭和6年7月7日 :ちゑとの結婚話がまた持ち上がっていることを賢治自身が森荘已池に語った。
 同 年9月19日 :賢治40㌔あまりのトランクを持って出京。
 同 年9月20日 :賢治着京。以降滞京。発熱。
 同 年9月28日 :賢治実家に帰り、病臥。
 同 年10月24日 :〔聖女のさましてちかづけるもの
  推定同時期  :〔最も親しき友らにさへこれを秘して
 同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ
まあこんなところかな。
荒木 あれっ、露が賢治の許を訪れることを遠慮し出した時期とちゑが花巻にやって来た時期とはほぼ入れ違いなんだ。何だかこの二つには強い関連がありそうだな。
 それからもう一つ、賢治はその頃になると露のことを拒絶し出したと言われているのに、それから4年以上も経った昭和6年になっても、露に当てつけて「聖女のさまして」と詠むというのか。そんなの普通あり得ねえべ。賢治ってそんなに執念深いのか? もしそう詠むとするならば、その直前に結婚話が再燃していたというちゑの方がはるかにそのモデルとして妥当だべ。
吉田 そこなんだよ、昭和6年7月7日に賢治が森荘已池に対して語ったというところの、また持ち上がった伊藤ちゑとの結婚話、これが「伏線」となって詩聖女のさましてちかづけるものが詠まれたのではなかろうかと僕も考えていた。
荒木 もう少し具体的に説明してくれ。

ある一つの思考実験開始
吉田 これはあくまでも僕の推測であり、これから述べることはある一つの思考実験だがそれでもいいか。
荒木 中身によりけりだがな。さあ、どうぞ。
吉田 先に荒木も訝ったように、〔聖女のさまして…〕の「聖女」とははたして高瀬露のことを指すのか? 僕もどうもそうとばかりは言い切れないと考えている。なぜならば、菊池映一氏の証言によれば昭和2年の夏以降「先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました」と露は言っているということだし、その頃になると賢治は露を拒絶するようになったと言われているようだ。あげく、賢治は自分のことを「癩病」だと詐病し、その結果父政次郎から厳しく叱責されたということは事実であるとして間違いなさそうだ。
 しかし、その頃から約4年もの時を経た昭和6年の10月に、まさしく佐藤勝治も言っているようにこのようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」ような詩を露に当て付けて詠むと思うか。常識的にあり得ないだろう。
荒木 そりゃあたしかにおかしいことで、常識的にはあり得ねえべ。
鈴木 そこなんだよ。
 巷間伝わっている賢治の伝記において、常識的におかしいと思ったところは実はやはりおかしい。
ということが、私が調べた限りでは幾度かあったからな。
荒木 そっか、〔聖女のさまして…〕の「聖女」とは露のことではなくてちゑのことであり、ちゑとの結婚にまんざらでもないということが推察される「昭和6年7月7日の日記」に出てくるような賢治の想いが「伏線」となって、賢治をして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠ましめた、ってわけな。
吉田 まあだいたいそのあたりだ。
 昭和6年頃になると、賢治自身も「私も随分かわつたでしょう、変節したでしょう」というくらいだから、かつての賢治とはすっかり様変わりしてしまった。独身主義<*2>ももうやめた。なぜならば、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北砕石工場の技師技師となり、その製造を直接指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。最後の健康な時代であつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104pより>
と森荘已池が証言しているからだ。
 このように独身主義からはおさらばした賢治は、前々からちゑとならば結婚してもいいと思っていたがゆえに、再燃したちゑとの結婚話を持ち出してまんざらでもないことがわかるようなような口吻で「私は結婚するかもしれません――」と、7月7日には森荘已池に喋った。そして、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京した。

昭和6年上京当時ちゑは東京にいた
荒木 おっと、それはまさかの展開だな。そんな話今まであったけがな?
鈴木 私もそんなことは未だかつて聞いたためしがない。
吉田 もちろんあくまでも思考実験上でのハ、ナ、シ。
荒木 そりゃあそうだよな。とはいえ、この時の上京は東北砕石工場の壁材料等の宣伝・営業のためだったとばかり思っていたが、それだけではなくて、ちゑと会ってその結婚話を進めるためでもあったということな。
鈴木 だけど、その時の上京の際に賢治がちゑの住んでいた伊豆大島まで行ったという証言や記述はどこにもないはずだが。
吉田 いやぁ、違うんだなそれが。その頃ちゑは東京に戻っていたし、僕はこの時の上京はまたぞろ賢治が「家出」をするためだったと推測している。
荒木 昭和6年の上京と言えばいいのかそれとも出京と言ったほうがふさわしいのかわからなくなってきたが、その一つの目的はちゑと会って結婚の話を具体的に進めるためだったはとりあえず納得できるが、もう一つは「家出」のためだったというのか。おいおい、思考実験とはいえそれはあまりにも穏やかな物言いじゃないぞ。
吉田 まずは前者、ちゑとの結婚について。澤村修治氏が『宮澤賢治と幻の恋人』の中でこう述べている。
 これでは学校の経営もままならない。そうした不如意のあげく、同年八月一三日、七雄は遂に逝去する。…(略)…
 兄の逝去とともにチヱは東京に戻る。休職していた双葉保育園に保母として復帰。
              <『宮澤賢治と幻の恋人』(澤村修治著、河出書房新社)182pより> 
そしてここでいう「同年八月一三日」とは昭和6年8月13日のことだということが、同書から判る。
鈴木 そっか! だから賢治は直ぐに上京しなかったのか。昭和6年9月の上京の際の最大の目的は「化粧煉瓦」等の宣伝などではなくて、ちゑとの結婚話を進めるためだったのだが、その兄七雄が昭和6年8月13日に最期をむかえたので、兄の亡くなった直後のちゑに結婚の話を持ち出すことは流石に憚られたから、当初8月半ば頃を予定していた上京を暫く見合わせざるを得なかった。したがって、待ちに待っていたちゑとの再会が延びてしまったので気落ちした賢治は仕事が手につかなかったからその頃の動向一覧表には空白が多かったということか。(以前「なおこのことに関連しては後述する」としたことが、それが前述部分である)
荒木 そうかそうなんだ。昭和6年の賢治の上京時には既に七雄は亡くなっており、ちゑは東京に戻って住んでいたのか。すると、待ちに待っていた上京を賢治がしたという時期は、ちゑが伊豆大島から東京に戻ってきたタイミングであったというわけか。
鈴木 ということは、伊豆大島の場合とは違って、上京した賢治ならば会おうと思えば比較的容易にちゑに会えたことになるな。上京の前々月、再燃したちゑとの結婚話を持ち出して「私は結婚するかもしれません――」と森荘已池に喋っていた賢治のことだ、そのことをちゑと具体的に話し合おうと思ったこともあって同年9月に上京したは、たしかにあり得る。

実は「家出」だった
吉田 では次は後者について。
 『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、圖書新聞社、290p~)には、
 賢治が熱を出して寝ているという八幡館から電話連絡が入った菊池武雄が駆けつけて、
 「花巻のおうちへ知らせよう。」
と促したところ賢治は
 「いやそれは絶対困ります。絶対帰りません。知らせないでください。
と応えた。さらには、
 「よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわります。
と妙なことを言った。
 そこで、どうも賢治は花巻に帰りたくないのだろうと判断した菊池は、武蔵野に小さい貸家を見つけ出して賢治にそのことを知らせた。
というような貸屋探しが具体的そこに書かれている。
鈴木 つまりこの時賢治は花巻に戻るつもりは全くなく、このまま東京にいて托鉢などもして回りたい、ついては住む家を探している、というようなことなどを話したものだから菊池は貸家を見つけてやったという次第か。そういえば、かつての「宮澤賢治年譜」には
    東京に於いて死す覺悟にて、菊池武雄氏と種々談合せるも
とあったが、それがこのことだったと解釈すれば辻褄が合う。何しろ「談合」という表現をしているくらいだからな。何だか言われてみれば、たしかに大正10年の「家出」の時と同じようなにおいがしてきた。
荒木 そうか。思考実験としては、賢治は実質的に「家出」を目論んで上京したと吉田は主張したいわけだ。
鈴木 しかし、賢治はこの上京の折り直ぐに、たしか9月21日に「遺書」を書いていたはずで、着京即重態に陥り死を覚悟したと思うのだが。
吉田 たしかに定説ではそうなっているがそれは「遺書」ではないという見方も可能ではなかろうか。ちなみにその「遺書」の中身は
〔393〕(昭和六年) 年九月二十一日 宮澤政次郎・イチあて 封書
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日
                                                       賢治
父上様
母上様
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)379pより>
ということであり、その現物の一部は
【「賢治遺書」の写真】

              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)口絵より>
となっているのだそうだ。というわけで、どこにも「遺書」等というタイトルは付けていないから「遺書」とは言い切れない。なお、もちろん便箋はもう一枚あり、そこには「九月廿一日」の記載がある。
荒木 あっ、そうか奇しくも賢治の命日と同じだ。だからなおさら「遺書」と思いたくもなるが日にちの一致はそれとは無関係なこと。冷静に考えてみれば、折角上京したその直後に「遺書」を書くということは普通あり得ねえべ。その時賢治がいまわの際におかれたとなどということを俺は聞いてないぞ。実際その時に賢治が亡くなったわけでもないし…。
吉田 そこで僕は、これは「遺書」でも何でもなく、この文面は花巻から離れて「家出」をすることの決心、決して花巻の実家に戻ることはないという自分自身に向けたその決意表明だったとしても何ら不思議でないと考えているのだ。
鈴木 しかり。着京したと思われるのが9月20日、ところがその翌日に突如賢治は重篤となったので死を覚悟してこの「遺書」を書いた、ということは言われてみれば極めて奇妙だし不自然なことだ。普通に考えればそんなことはまずありえない。
荒木 たしかにおかしいよな。
鈴木 今までも、人間賢治に関してはおかしいと思われる場合は実はやはりおかしかったということがしばしば現実にあったことでもあり…

「和とぢ」の本はどこで菊池に渡したか
荒木 そういえば、この上京の折りに賢治が「和とぢ」の本をプレゼントしたという例の菊池武雄とは、賢治は何時どこで会ってそれを手渡したのだろうか。即重篤になったというのならばその機会がなかっただろうに。
吉田 そのことについては菊池自身が『宮澤賢治研究』所収の「賢治さんを想ひ出す」の中でこう言っている。
 その後去年の春突然駿河臺のある旅館から電話で「宮澤さんといふ方が上京していま風邪を引いて休んで居られる」と知らせてくれたので行つて見たら、いつものニコニコした顔で床に就いて居られたが私は容易でないことを直感しました。その時「お土産に持つて來たのだけれども形見になるかも知れぬ」といつて私にレコード(死と永生)二枚と○本などをくれました。私は何とかして健康回復のために力になり度いと願つたけれど、一つは賢治さんの性質も解つてゐるからそれも尊重したし、私も微力と生まれつきの不親切者故、なにもしてあげられませんでした。
               <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)325p~より>
荒木 あれっここには「和とぢ」の本などではなくて、プレゼントしたのは「○本」とあるけど? あっそうか、この「○本」は「和とぢ」の本つまり「春本」を憚った表現か。
鈴木 でも変だな。さっき吉田が教えてくれた堀尾の記述内容だと菊池は結構賢治の面倒を見ているのに、こちらの菊池自身の証言によれば菊池は何もしてやれなかったいうことだから矛盾がある。
吉田 矛盾ということで言えば、このことに関しては、深沢紅子の証言とも矛盾している。深沢は自分の随筆集『追憶の詩人たち』所収の「一ぱいの水-賢治との出会い」の中でたしか次のように語っている。
 昭和6年当時吉祥寺に住んでいた私の家に賢治がやって来て、
宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これを預かってください
と言われたと。
鈴木 えっ! 深沢紅子は菊池武雄と隣同士だったのか。
吉田 そうだよ。そしてこんなことも語っている。
 菊池さんとは私達夫婦も非常に親しい仲なので隣り同士に住んでいた。
鈴木 じぇじぇ、菊池と深沢夫婦はそんなに懇意だったのか。こうなればはっきり言ってしまうけど、何を隠そう、ちゑは深沢紅子に対して私×××コ詩人とお見合いしたのよと賢治との見合いのことをざっくばらんに伝えているんだ。<*3>
吉田 そうだったのか、な~るほどな。
鈴木 もちろん菊池は賢治とちゑの見合いを世話をしたくらいだから、ちゑとは何らかの繋がりはあっのだろうとは思っていたが、いままでなぜ深沢にちゑがこんなことを、しかもさらりと言ったのかその背景がいまひとつわからずにいた。それが、深沢と菊池は隣同士で住む程に親しくて
    深沢紅子⇔菊池武雄⇔伊藤ちゑ
という繋がりができていたのか。これで腑に落ちた。
吉田 しかも、伊藤ちゑは1921年盛岡高等女学校卒( 『宮澤賢治の幻の恋人』165p )、一方の深沢(四戸)紅子も同じく盛岡高等女学校1919年卒( 『追憶の詩人たち』巻末 )だから同窓生、高等女学校の就学期間は5年間なのでちゑと深沢は3年間同時期に盛岡高女に通っていたと考えられる。
 だから、
    菊池武雄⇔画家⇔深沢紅子⇔同窓生⇔伊藤ちゑ
という繋がりもあった。
鈴木 なるほど、そうなると菊池がちゑのお見合いをお膳立てしたということも頷ける。
吉田 そこで先程の荒木の質問の「どこで」に対する答にもなると思うのだが、深沢はたしかこんなことも語っていたはずだ。
 賢治はその時、『これを預かってください』と言って包みを二つ差し出して、一杯の水を飲んで帰っていった。
 夕方吉祥寺に戻った菊池がその二つの包みを開けるのを見ていたならば、小さい方の包みは「和とぢ」の本であり、もう一つの方はレコードだった。菊池は、「何で俺にこんなものくれたべなあ」とお国なまりの独り言を言った。
              <いずれも『追憶の詩人たち』(深沢紅子著、教育出版センター)124p~より>
などと。
鈴木 たしかに菊池と深沢の間には矛盾があるが、両者を比較すればこの件に関してはどうやら深沢の証言の方が信憑性が高いな。さっきの矛盾、今度の矛盾ともに菊池絡みだからな。ここは信頼度が高いのは深沢の方とならざるを得ないだろうから、吉祥寺でとなるか。もしかすると、菊池は何かを庇っているのかもしれないな。
荒木 つまり、『賢治はどこでそれを渡したか』の答は駿河台の八幡館でではなくて吉祥寺でだ、ということか。
吉田 そしてほら、この時の鈴木東藏宛書簡にこう書いてある。
〔395〕(昭和六年) 〔九月二五日または二十六日〕鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく…(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)380p~より>
と。
荒木 となれば、「廿日夜烈しく発熱致し」ということだから賢治は9月20日の夜からひどい熱発、その後は床に就いていたようだから、その前に吉祥寺を訪れていたことになり、それはやはり9月20日しかあり得ないな。
鈴木 それにほら、9月20日付鈴木東藏宛書簡〔392〕方も見てみると
    午后当地に着
とあるから20日の午後に着京しているようなので、その足で吉祥寺へ行ったかもしれないな。

吉祥寺行きは9月20日か同21日
吉田 実はこの件に関して、賢治はあの『雨ニモマケズ手帳』の二頁目にも次のように書き込んでいる。
【『雨ニモマケズ手帳』の一、二頁】

        <『復元版「雨ニモマケズ手帳」』(筑摩書房)より>
そこで、この中の大太文字だけを文字に起こしてみれば
    昭和六年九月廿日
    再び
    東京にて発熱。

となる。だから、賢治はやはり9月20日に突如「熱発」したとするしかないと、以前の僕はそう考えていた。
荒木 実はそうとも言えないというのか?
吉田 うん。というのも、この頃の賢治の体温はどうだったかというと、『解説 復元版 宮澤賢治手帳』には
    十九日  三七.二
    二十日  三七.三
    二十一日 三七.九

        <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(解説小倉豊文、筑摩書房)4pより>
    二十二日 三八.九(ママ)
    二十三日 三八.二
    二十四日 三八.二

        <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(解説小倉豊文、筑摩書房)6pより>
という記載がある。
荒木 なになにこんなことまで小倉は調べてるんだ。それしても、21日までの体温はいずれも37℃台じゃないか。賢治は「九月廿一日」付の「遺書」を書いたというのが通説のようだが、これぽっちの「高熱」がたった二日三日続いただけであのような「遺書」を書くか? 書くわけなぇべ。あれはもはや「遺書」などではないということだな。
吉田 うん、それはかなりの確度で言えると思う。なぜなら、実はこのときの賢治の体温が『兄妹像手帳』に賢治自身の手で次のようにメモされているからだ。
【『兄妹像手帳』の一四七、一四八頁】

               <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)134pより>
荒木 ということは、先程の俺の質問の残り「いつ」に対する答は、
 少なくとも9月22日以降の高熱から判断すれば22日以降に吉祥寺に行ったことはまずなかろうことと、着京が9月20日であることは間違いなさそうだから、吉祥寺行きは20日か21日であろう。
ということか。
鈴木 そうか、21日の可能性もありか。
吉田 そして、この手帳のメモ「昭和六年九月廿日/再び/東京にて発熱。」についてはその内容は一度検証を経ねばならないということだ。賢治の書いたことは全て正しいと思い込んでいる呪縛から逃れるためにも。
荒木 場合によってはアリバイづくりだったということさえも含めて…か。
*************************************************************************
<*1:投稿者註> 藤原嘉藤治は『新女苑』において、昭和3年6月の伊豆大島行から戻ってきた賢治に関して、
 大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と述べている。
<*2:投稿者註> 次の「この時よりも前」の「この時」とは昭和6年7月7日のことであるが、
 この時よりも前、竹馬の友安棲君に賢治さんは、
「俺は無妻主義でも何でもないのだ、そして世の中には妻になりたいといふ人はいくらもあるが、俺の方から妻にしたいと思ふ人がいないので獨身でゐるのだ」
といふたことがあるさうですが…
              <『宮澤賢治』(佐藤房著、冨山房、昭和17年版)214p~より>
と佐藤隆房は伝えている。なお、この「安棲」とは仮名である。
<*3:投稿者註> 現時点では差し障りがあるので一部伏せ字にした。なおちゑの発言については、二人の人から別々のルートで教えて貰ったことなのでその信憑性は高かろうと思っている。
 

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