《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ちゑとの結婚話再燃その当時(昭和6年7月7日頃)賢治がハイテンションであったということは、同じく前掲書の中の次の記述からもうかがえる。
「実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
「どういう生活をしてきた人ですか。」
と私がきく。
「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
「遺産が一万円とか何千円とか持っているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあっては――。」
と宮沢さんはいった。
「ずっと前に私との話があってから、どこにもいかないで居るというのです。」
私はそれは貞女というものですという。
「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
そういうので、どうしてですかときくと、
「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないでしょう」
と答えた。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)174p~より>という。
「どういう生活をしてきた人ですか。」
と私がきく。
「女学校を出て、幼稚園の保母か何かやって居たということです。」
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいう。
「遺産が一万円とか何千円とか持っているということなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあっては――。」
と宮沢さんはいった。
「ずっと前に私との話があってから、どこにもいかないで居るというのです。」
私はそれは貞女というものですという。
「自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」
そういうので、どうしてですかときくと、
「いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病気が出るか知れたものではないでしょう」
と答えた。
もちろん会話の中に出てくるこの女性とは伊藤ちゑのことであり、昭和6年7月7日頃の賢治はかつて昭和3年に「見合い」をしたと言われているちゑとこの期に至って結婚してもいいと心に決めつつあったという可能性が読み取れる。この7月7日の森荘已池とのやりとりからは賢治のうきうき気分が伝わってくからである。ところが、肝心のちゑの方はそんなことなどは全く考えていなかったようだから、そこには微笑ましい賢治が垣間見られる。まさに《愛すべき賢治》と言えよう。しかも、その1週間ほど前の7月1日及び2日の両日にわたる盛岡での搗粉販売営業では惨憺たる結果だったというのに、賢治は全く落ち込んでいなかったということがほぼ明らかだからだ。
賢治も普通の男
似たようなエピソードは他にもある。それはこの日から少し下った昭和6年8月23日のことである。『賢治と嘉藤治』所収の「藤原嘉藤治略年譜」には
昭和六年八月二十三日 宮沢賢治、八重樫祈美子、木村コウらと東公園にて座談会を催す。
<『賢治と嘉藤治』(佐藤泰平編著、洋々社)235pより>とある。そしてこの拠り所は、藤原嘉藤治が『新女苑』(昭和16年8月号)に寄稿した追想「宮澤賢治と女性」の中の次のような記述のようだ。
また昭和五年の夏の夜を記憶してゐるが、花巻の東公園の音楽堂で東京から帰省中の女性を囲んで座談会をやつたことがある。この夜の彼は、両親から限られた外出時間の許しを得て、病床から抜け出して来て参加した。この集りは、実のところ彼の日頃からの要求を入れて、僕が斡旋したのであつた。会を終へてから二人で、焼酎入りの薄荷糖をかぢり、ほの白い北上川を見下ろし乍ら話あつた。彼は「近来にない郊宴に招かれた」といつて大変よろこんでゐた。この席に列した女性の中に木村コウ子が居た。花巻高女出身で、先年亡くなつたが、この女性を彼はその時ひどく買つてゐた。彼女は上野の音楽学校在学中で、賢治の「春と修羅」の愛読者で、水彩や油絵もやる文学乙女であつた。彼女の一口二口の話し振りや、瞳の叡智的なしかも純情な輝きで、ぐつと感じたらしい。ところが不思議にも、彼女の容貌や体躯、趣味や智性も、前記の伊藤チエ子と、そつくり似てゐるのである。
<『賢治と嘉藤治』(佐藤泰平編著、洋々社)74pより>【東公園(「大正期の花巻地図」より抜粋)】
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)46p>
ただし、藤原嘉藤治は後年、「昭和五年の夏」のことを『わが年譜』および「東公園の夜」と題したメモには「昭和六年八月二十三日」と訂正していることを佐藤泰平氏は知った(前掲書50p)ので、前掲のような月日の年譜記載としているようだ。
さらにこの木村コウ子(杲子)に関して高橋文彦氏は、
みな子(木村圭一の妻、杲子の義姉:投稿者註)は言う。
「たまさんがここ(実家)を訪れたときに、杲子と賢治のことを話題にして、賢治が杲子のようなひととなら結婚してもいい、そう言っていたと私に語ってくれました」
一方、…藤原嘉藤治は…ときおり…ひろの家を訪れ、たまを交えて談笑したという。
ここでも〝賢っあんは杲子となら結婚してもいいと話していた〟ことが話題にのぼった。
<『宮沢賢治第5号』(洋々社)116pより>「たまさんがここ(実家)を訪れたときに、杲子と賢治のことを話題にして、賢治が杲子のようなひととなら結婚してもいい、そう言っていたと私に語ってくれました」
一方、…藤原嘉藤治は…ときおり…ひろの家を訪れ、たまを交えて談笑したという。
ここでも〝賢っあんは杲子となら結婚してもいいと話していた〟ことが話題にのぼった。
ということでもある。
したがって、どうやら少なくともこの頃の賢治に限って言えば、一般に言われているような堅物の賢治では全くなくて、普通の男とそれほど違わない賢治になっていたという可能性が極めて高そうだ。昭和6年7月7日に盛岡になんのために行ったのかは私にはしかとはわからないが、「カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ。」というような賢治だからなおさらにである。だからもしそうであったとするならばそこににも《愛すべき賢治》がいる。
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