みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

この病気で漸く熟柿になりかけた

2014-07-18 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
賢治の逡巡
 さて賢治は、鈴木東藏宛書簡〔395〕には
(昭和六年) 〔九月二五日または二十六日〕鈴木東藏あて 封書〔封筒ナシ〕
拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく…(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)380p~より>
と書き、あるいは兄妹像手帳』の154pには
廿八日迄ニ熱退ケバ
病ヲ報ズルナク帰郷
退カザレバ費ヲ得テ
(1) 一月間養病
(2) 費ヲ得ズバ
  走セテ帰郷
  次生ノ計画ヲ
  ナス。
              <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)293pより> 
とメモしていたわけで、高熱が続く賢治は八幡館で病に伏せながら、友人の菊池武雄に頼んで「数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらや」を借りて養病しようかなどとあれこれ逡巡していたことになる。

「走セテ帰郷」
 ところが賢治の熱は治まらなかったようで、『新校本年譜』によれば昭和6年9月27日のこととして、
 昼ごろ花巻の父へ電話する。小倉豊文の記述<*1:投稿者註>によると「もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御声を……」という言葉であった。驚いた父は帰花するように強く指示するとともに早速小林家(小林六太郎)へ電話し、寝台車をとって帰花させてくれるよう取り計らいをたのんだ。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)470p~より>
と記されている。
 もちろん父の厳命であれば賢治もその指示に従わざるを得なかったとは思うが、それ以前に、賢治は「もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御声を」というような弱音、それも「今際の際」のようなそれを吐く電話をなぜわざわざどうしてしたのだろうか、ということが私にとっては一番疑問に思う点である。一般に、賢治に関しては普通に考えておかしいというところは、やはりおかしいということを知ったしまった私からすれば、この場合もまさにその一つに当たる。
 そこで私なりに普通に考えて見ると、先の手帳に「退カザレバ…費ヲ得ズバ/走セテ帰郷/次生ノ計画ヲ/ナス。」とメモしていることに鑑みれば、賢治はこのメモに則って行動しただけだとも推測できる。つまり、賢治自身は<三回目の「家出」>の決意で出京したし、(もしかすると実は)賢治は父政次郎にそのことをにおわせていた。ところが不運なことに、着京後も賢治は高熱が続いてとうとうにっちもさっちもいかなくなってしまった。熱も退かないし滞京費用も得られなかったので賢治の選択肢は「走セテ帰郷/次生ノ計画ヲ/ナス。」しか残っていなかった。そこで父の性格を熟知している賢治は、先ほどのような弱音を吐いて見せることによって<三回目の「家出」>の無謀を侘び、父に赦しを請い、帰郷の許可を得たとも考えられる。
 そしてもちろん私だけではなく、賢治は意気込んで「家出」を試みたもののそれが頓挫したので、家に戻る許可を父から得るための伏線が先の内容の電話であったとも考えられないわけではない、という人だってあり得るだろう。実際、賢治は「走セテ帰郷」したのだから。

帰花
 ところで『新校本年譜』によれば、9月27日の夜行の二等寝台を使って賢治は帰郷し、
九月二十八日(月) 朝花巻駅着。迎えに出た弟清六によると「青じろい顔ではあったが、ちゃんと洋服にネクタイをつけ、実は容易ならぬ重態なのに苦しくないふりをして、汽車から下りて、家につくやいなや病床に臥してしまった」のであるが、汽車から降りるとき寝台車でなくて三等デッキから降りたという。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)471p~より>
と帰花の顛末が述べられている。
 たしかに宮澤清六の「兄賢治の生涯」(『宮澤賢治研究』(「宮澤賢治全集 別巻」、筑摩書房、昭和44年)253p)にはこの通りに書いてあり、この時賢治は重病であったのではあろうが、私はここでも違和感を感ずる。賢治がその時に洋服を着ていたとしても、なにも「ネクタイをつけ」る必要はなかっただろうし、わざわざ二等寝台車から三等デッキに移る必要もまたなかったであろうからである。逆に言えば、このような出立ちをしていて、そのような降車の仕方をしたというのであれば、それほど賢治は重篤ではなかったということを示唆していると考えるのが論理的である。一方で、そもそも「ちゃんと洋服にネクタイをつけ」などと書いていることにも、である。つまり何を言いたいのかというと、一体どこまでが真実であったのかがこのような記述の仕方からは読み取れなくなった私がそこにいるということである。

我儘ばかりして済みません
 さて賢治帰花後についてである。これも小倉の証言するところであるが、
 賢治はこの時はじめて父に向かって「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を発したという。
               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)24pより>
とあるが、これは意味深長な発言であると私には感じられる。もしこの時の上京が世上言われている東北砕石工場の壁材料等の宣伝営業のための出張であったとしたならば、普通「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を賢治が発することはないのではなかろうか。そのような出張は「我儘」などではないからである。それよりは、この発言はまたもや「家出」をしてしまった自分の非を父に侘びていると解釈した方が遙かに腑に落ちる。しかも賢治は当初帰花することをかたくなに拒否していたわけだし、しかもこの際にどれだけその宣伝営業のために日数を費やしたかというと、滞京8日間中のせいぜい2日に過ぎないからでもある。

熟柿になりかけた
 とはいえ、この時に賢治が<三回目の「家出」>を企図していたのだったとしてもそれは何も悔やむべきことではない。なぜならば小倉は前の文書に続けて、
 これについて父翁は私に、「これまでの賢治は渋柿でした。この病気で漸く熟柿になりかけたと申していいでしょう」としみじみ語ったことがあった。
と述べているからである。この父の言に従うならば、
    昭和6年9月の上京を境にして、賢治はやっと「渋柿」から脱して「熟柿」へと移って行った。
と政次郎は認識していたということになるし、そしてその判断に間違いはなかっただろうと私には思えるからである。
 一般に、父政次郎は息子賢治に対していつも冷静で客観的な対応をいつもしていたはずだ。例えば関登久也の「女人」では、賢治に対して
 或る日父上政次郎氏は「その苦しみお前の不注意から起きたことだ。始めて逢つた時に甘い言葉をかけたのがそもそもの誤りだ。女人に相對する時はげらげら笑つたり胸をひろげたりすべきものではない。」と嚴しく反省をうながされました。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)190p~より>
というように、高瀬露に対する賢治の軽率な言動を身びいきすることなく厳しく叱責しているからである。
 だからおそらく、父政次郎はこの時も賢治の企図していたことを見抜いていた(もしかするとこの時の賢治の出京は「家出」であると見抜いていた可能性も否定できない)。しかしそうは思いつつも、父政次郎は昭和6年9月にまた上京する賢治をあたたかく見送ったのではなかろうか。
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<*1:註> 『宮澤賢治の手帳 研究』によれば、
   「もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御聲をきゝたくなつたから………」
             <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
また、宮澤清六の「兄賢治の生涯」によれば、
   「そしてあまりにも兩親がなつかしくなって、家に電話をかけたが」
             <『宮澤賢治研究』(「宮澤賢治全集 別巻」、筑摩書房、昭和44年)253pより>
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