《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
先に私は、
さて、通説からすれば全く荒唐無稽なことだと嗤われることは承知の上で私が立てた仮説、
と述べた。 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
だったが、私の知り得る限りの関連する証言や資料等によってここまで検証してきた結果、この仮説を裏付けているものこそあれ反例となるものは何一つなかった。したがって、私自身はこの「仮説♣」は歴史的事実であったと確信している。おかしすぎることが
ところが、実は一時期、もしかするとこれは「仮説♣」の反例になるかも知れないぞと狼狽えたものがあったので、こここからはそのことに関して少しく述べてみたい。
大正15年12月2日の定説はおかしい
どうやら賢治は東京が大好きだったようで、大正15年に花巻農学校を辞して「下根子桜」に住まっていた時代、いわゆる「羅須地人協会時代」の約二年四カ月の間にも何度か東京へ行っていたという。比較的はっきり分かっているものとしては、大正15年12月2日からの約一カ月間の滞京と、昭和3年6月の18日間ほどのそれがあろう。
ところが今まで誰一人として公的には指摘していないし、なおかつ基本に忠実に調べれば容易に気付けることだと私は思っているのだが、前者の典拠がかなり危ういということを実証できた。さらには、これらの他にもこの時代に約三カ月間に亘る長期間の滞京を賢治がしていた蓋然性が極めて高いということも示すことができた。それはとりわけ、平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料(この資料はこれまで公になっていないはずだ)によってだ。
もう少し具体的に言うと、その中の一枚に下掲のような資料〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟があり、
大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記述がある。年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が定説の「12月」ではなくて「11月」のままだったからである。さらに、もう一枚の〝(その三)「附記」〟の方には、 関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないはずだ。ならば、同時代の上京に関して再検証をせねばならないと私は思ったので、以下にその検証を試みる。まず、いわゆる『新校本年譜』の大正15年12月2日の項についてである。そこには、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち澤里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉と記載されていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「……ものと見られる」とか「……のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしていたので私は吃驚した。そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
澤里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(投稿者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三カ月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三カ月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(投稿者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三カ月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三カ月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
となっていて、私は今度は愕然とした。
それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三カ月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三カ月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
その挙げ句、「先生は三カ月間……帰郷なさいました」というところの「三カ月間の滞京」を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても下掲の《表2『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》
から明らかなように、それができないという致命的欠陥があるからである。そしてこの致命的欠陥は次のことを逆に教えてくれる。典拠となっている「ものと見られる」というところの、〝関『随聞』二一五頁〟自体が実は同年譜の「大正15年12月2日」の記載内容の反例になっているということ、それゆえこの記載内容の少なくとも一部は事実と言えないということ、延いては典拠が危ういということをである。
つまり、『新校本年譜』の大正15年12月2日の定説はおかしいので即棄却されるべきものである。
一方で、武治の証言通りにこの「三カ月間の滞京」を『新校本年譜』の昭和2年11月~同3年2月の間に当て嵌めようとようとすれば、下掲の《表3『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》
から明らかなように、すんなりと当て嵌められる「三カ月間」の空白があることが直ぐ判る。
したがって、まさにこの〝関『随聞』二一五頁〟が、通説からすれば全く荒唐無稽なことだと嗤われる仮説、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
が定立できるということを否応なく教えてくれている。続きへ。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
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そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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