みちのくの山野草

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着京したものの熱発

2014-07-12 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
着京直後の賢治
 さて着京した賢治は、佐藤竜一氏によれば
 だが、東京に着いたとき、セールスマンとして活動する体力はもはやほとんど残っていなかったったのだ。
 神田の八番館にたどり着くや、早速営業に出かけたが、仕事を取れず、そのあげく肺炎になり、倒れてしまったのだ。
              <『宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)158pより>
ということだが、何を典拠として「セールスマンとして活動する体力はもはやほとんど残っていなかった」と判断されておられるのか私には定かでないが、少なくとも賢治の体調が万全でなかったことは確かに言えるだろう(ついでにいえば、賢治がこの時に「肺炎になり、倒れてしまった」ということだが、私にとっては初耳だったのでその出典を知りたいものだ)。
 しかしその一方で、佐藤氏も言うとおり「早速営業に出かけた」ということは、9月21日付東蔵宛書簡〔392〕
拝啓 昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共未だに確たる見込みに接せず候。何分の不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績を何卒お待ち願上候
から導かれるから、この21日付書簡に従うならば、「東京に着いたとき、セールスマンとして活動する体力はもはやほとんど残っていなかったったのだ」という見方については肯うことはできない。少なくとも20日及び21日についてはある程度営業ができるだけの体力はまだ残っていたと判断できる。この点は後ほど、賢治が吉祥寺に行けたか否かを考える際の一つのポイントになるので留意しておきたい。
 また、同じく東蔵宛の9月25日(または26日)付書簡〔395〕
拝啓 一向に御便りも申上ずお待ち兼ねの事と存候 実は申すも恥しき次第乍ら当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げず居り只只体温器を相手にこの数日を送りし次第に有之今后の経過は一寸予期付き難く候へ共当地には友人も有之候間数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり運を天に任せて結果を見るべく恢復さへ致さぱ必ず外交も致し或は易にありし様十一月頃は多分の注文を得るやも知れず小生のことはどうせ幾度死したる身体に候間これ以上のご心配はご無用に、且つ決して宅へはご報無之様願上候…
には、「廿日夜烈しく発熱致し…屡々昏迷」という記述があるが、これは21日付書簡に記載された「早速諸店巡訪致し候」とは矛盾しそうな点があることにも気付く。 さらには、「実は申すも恥しき次第乍ら」という弁解も気になるところである。何か後ろめたいことでも実はあったのだろうかと訝ってしまう。さらには「数日中稍々熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり…(略)…恢復さへ致さぱ必ず外交も致し」という部分からは、賢治は住む家さえも借りて暫く滞京して営業活動をするという目論見があったであろうことがわかるし、「決して宅へはご報無之様願上候」という懇願からは、その目論見を実家の等には知られたくなかった、ということなどがうかがえる。

着京後の賢治の真実は?
 そこで、これらの書簡から気になった点を箇条書きしてみると以下のようになる。
 (1) 賢治は、着京直後はある程度営業できるだけの体力はあった。
 (2) 賢治は、少なくとも暫く滞京するつもりでいた。
 (3) 賢治は、暫く滞京することを実家の父等には知れたくなかった。
 (4) 賢治が遺書を書くだけの理由は全く読み取れない。
 (5) 賢治には、この時の上京にはうしろめたい気持ちがあった。
こうして並べてみると、
 その「I.N.」が亡くなったせいでそのある人にしばし逢えなくなったので賢治は仕事が手につかなかったのかもしない、そう考えたならば説明がつくと私は感じた。
という推測を先に私は述べたのだが、いよいよこの推測もあながち否定できないと思うようになってきた。
 こうやってここまで賢治のことを調べて来てわかったことは、どうやら賢治は一つのことを長続きできないという弱点があり、その一つの表れが昭和3年6月の上京であるという見方ができることを先に知った。そしてここにきて、「東北砕石工場花巻営業所長」としての営業活動もそろそろ7ヶ月ほどが経ったのでその時の同じような心理状態の賢治になっていったという可能性を否定できないこともまた知った。「逃避行」だったと言う人もある昭和3年の上京の際も羅須地人協会の活動が始まってから約7ヶ月後のことであったことを思い出すと、賢治の悪い癖がまた頭をもたげてきて花巻から逃げ出したくなったので、この昭和6年の上京を賢治は決行したと解釈すれば腑に落ちる。簡単に言ってしまえば、前回はいわば「逃避行」であったが、今回は賢治3回目「家出」であった、と考えられなくもない。
 ひるがえって、巷間伝わっている通説の賢治は真実の賢治とはかなり乖離していることもあるということを今までしばしば思い知らされてきた。そして、巷間言われてきた賢治は実は創られた賢治であった点もいくつかあったということを検証もできた。そして、今回もまたか…という落胆も味わうことになるかも知れないが、それは真実を知るということに比べればいかほどのことでもない。作られた賢治ではなくて真実の人間賢治がわかってこそ初めて、文学者賢治及び賢治作品の魅力が弥が上にも増すであろうこともまたたしかであると確信するからである。
 そこで次回は、昭和6年の出京は実は「賢治三回目の家出」であり、それはちゑと結婚をして「東北砕石工場」の代理店をしながら東京で暮らすためだったという可能性があるということを、思考実験によって試してみたい。お気づきのように、昭和6年8月13日に亡くなったというあの「I.N.」とは伊藤七雄のことであり、賢治が逢いたがっている人とは他でもない、伊藤ちゑその人だったのである。

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