みちのくの山野草

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エピローグ

2014-07-30 08:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
現時点での結論
 さて、ここままで賢治の「東北砕石工場技師時代」のことを調べてきて特に思うことは、やはりこの昭和6年9月の上京と昭和3年6月の上京とはその構図が酷似しているということである。賢治はどうも物事を長続きできないという性向があり、熱しやすいがその分逆に冷めやすく、いともたやすく物事を諦める傾向がある。その典型が農繁期に行ってしまった昭和3年6月の「伊豆大島行」を含む滞京であった。それはちょうど羅須地人協会の実質的な7活動を始めて約8ヶ月が経った頃であった。そして今回もまた、東北砕石工場の嘱託となって約7ヶ月経った昭和6年9月の上京である。前者は佐藤竜一氏も主張するようにまさに「逃避行」と見られなくもなく、その時と同じように賢治はまたぞろそこから逃げ出したくなったのではなかろうかと考えたくもなる。もしそうだったとすれば、まさしくこの時の出京は<賢治三回目の「家出」>であり、このような見方は荒唐無稽であるとは言い切れくなってきた。それは今までの考察からも自ずから導けることでもある。
 従って現時点での私の結論は、
 昭和6年9月の上京の主たる目的は、世上言われているような東北砕石工場の壁材料等の宣伝営業のためのではなく、それはあくまでも名目に過ぎず、それよりは
 ・伊藤ちゑとの結婚話を取り進めるための上京であった。
 ・東北砕石工場花巻営業所の仕事から逃げ出したくなったための「家出」であった。
という可能性の方が遙かに大である、と考えられる。
 なぜならば、
 ・賢治は9月19日の出京時から微熱があったのにもかかわらずそれを強行したこと。
 ・滞京8日間中のせいぜい2日間しか宣伝営業を行わぬままに、賢治は「走セテ帰郷」してしまったこと。
 ・菊池武雄に頼んで、賢治は東京に住む家を借りようとしていたこと。
 ・帰花した後に、父政次郎に対して「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を賢治が発したこと。
 ・実際に帰花後、賢治はそれまでのような東北砕石工場花巻営業所長としての仕事をしなくなったこと。
などが裏付けてくれるからである。
 また、結果としてだが、父政次郎の言を借りれば
 この昭和6年の上京の最大の成果は、この上京を境にして賢治は「渋柿」から脱して「熟柿」へと移って行ったことである。
ということになりそうだ。

父政次郎あってこそ
 そもそも賢治が素晴らしい心象スケッチや童話を創作できたのは父政次郎あってこそだ、と私は思っている。花巻農学校の教諭をしていた時代の賢治のお金の使い方を知り、農学校を辞めた後の賢治がいかほどの金銭的援助を父から受けたかということを知ればそれは明らかだ。
 あるいはまた、賢治が亡くなった通夜の席で賢治が天才であるということについて父政次郎が
 「あれは、若いときから、手のつけられないような自由奔放で、早熟なところがあり、いつ、どんな風に、天空へ飛び去ってしまうか、はかりしることができないようなものでした。私は、この天馬を、地上につなぎとめておくために、生まれてきたようなもので、地面に打ちこんだ棒と、綱との役目ををしなければならないと思い、ひたすらそれを実行してきた。…(略)…」
              <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)256pより>
と語ったと、森荘已池は証言していることからも容易にわかる。したがって、父政次郎のことをけなす人もないわけではなさそうだが、それはとんでもないことだと考えている。
 そしてこの場合も、結果的にはこの時の<家出>を切っ掛けとして賢治は「渋柿」から「熟柿」へと変化して行ったのだから、それは何よりも父としては嬉しいことだったに違いない。それは政次郎が「しみじみ語った」ということからもその一端がうかがえる。そして賢治がこうなれたのもひとえに父政次郎が「棒と、綱との役目」を果たしてきたからであろう。
 また私個人としても、そうなっていった賢治であったとすれば何よりも嬉しい限りである。もしそうはならずにその後もそれまでのような賢治のままであったとすれば、正直賢治は鼻持ちならない(いわば「慢」であった)ことが多過ぎたと私は判断しているからだ。いわば、この時の上京によってまさに《愛すべき賢治に》なっていったとも言えそうだ。

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