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賢治の変節

2014-07-08 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
昭和6年は冷害だったが
 一方で、伊藤良治氏が指摘するとおり、
 肥料用炭酸石灰から搗粉へ、そして今や壁材料の製造・セールスに夢中になっている。酸性土壌改良のための炭酸石灰普及活動が、いつの間にやら工場経営次元のセールス活動にウエイトが移っている。
              <『宮澤賢治と東北砕石工場技師の人々』(伊藤良治著、国文社)169pより>
ことも気掛かりだ。
 実は岩手ではこの年昭和6年は、それまでに旱害はしばしばあっても冷害はなかったのだが、岩手県は暫くぶりの冷害で凶作となった。実際、昭和6年7月10日付『岩手日報』には
    本年稲作は平年作以下か 宮澤元花農教諭豫想を発表
という見出しの記事が載っていて、賢治が
 例年より分蘖の程度が少なく、若し、七月二十日以後にこれ以上分蘖した所でそれは出穂結実の可能性はなく早くも平年作以下の減収と観測してゐる、殊に昨今の朝夕の冷気が稲作以上頗る有害であると
と取材に答えている。ところが残念ながら、この年に冷害対策のために賢治が近郊の貧しい農民のために東奔西走したり、「オロオロアル」いたりしていたということを伝える資料や証言は管見故かある一つを除いて私は知らない。
 それどころか、前掲の書簡〔372〕では
 何分の苗不足と冷気に対し色々の原因にて不良なる成績を示したるもの之を石灰の害に帰するもの有之右説明には一寸骨折り候。
ととばっちりを受けているとぼやいているくらいだから、賢治の心はもはや農民の側にではなくて商人の側にしかない。まあ、そうならざるを得ないのが「営業マン」としての賢治の立場なのだろうが、かつての己とその時の己を比べて賢治は忸怩たる思いがあったのだろうかなかったのだろうか。もしあったとすればそこには《愛すべき賢治》がいることになると思うのだが。
 そういえば以前に一度触れたことだが、賢治が東北砕石工場技師になったことは「肥料による農業改良の仕事をえたことを意味する」という見方をする人もあったが、伊藤氏の先の指摘と久方ぶりのこの年の「冷害」に対して賢治が「オロオロアル」くことが殆どなかったようだということに鑑みれば、この当時の賢治はもはやかつての羅須地人協会時代とは様変わりしてしまっていたと言わざるを得ない。おのずから、私はやはり、「肥料による農業改良の仕事をえたことを意味する」という見方はできない。
 さて、前掲の「ある一つを除いて」の「ある一つ」とは、『新校本年譜』の昭和6年7月9日の項に載っている
 なおこの頃に、花巻駅で小原弥一(八重畑小学校教員時代、高日義海家の集会で同席する)にあい「冷害が心配で視察に行くところです」といい、「いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです」と大声をあげる。小原が問い返すと「岩手県は借金だらけです。この借金を返さないことなんです」と説明をはじめ、その声があまりに大きいので駅派出所の白鳥巡査がとびだして傍にきたがなおも大声を出し借金不払説をとなえ、白鳥巡査は危険思想かと緊張したが、改開始時刻になったために事は了る。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)453pより>
のことである。つまり、賢治が「冷害が心配で視察に行くところです」と言っていたという小原弥一の証言である。賢治はこのとき既に昭和6年の冷害になるであろうという虞を持っていたことがこの証言から導かれる。さりながら、この証言からは
 冷害対策のために賢治は近郊の貧しい農民のために東奔西走したり、「オロオロアル」いたりしていた、という賢治の姿は見えてこない。
それはこの小原の証言内容が事実であったとすれば、「オロオロアル」くことなどではなくて、その対策は「モラトリアムをやること」だと賢治は主張していたとも考えられるからであり、同時に、この証言は賢治の奇矯さを伝えてもいるからであろう。

賢治の変節
 そこで当然問題となるのが、賢治が周りの目も憚らずに声高に借金不払説などを公衆の場において唱えていたということであり、この時の賢治はかなり精神的にハイな状態にあったと思われる。これと符合するのが、前触れしておいた昭和6年7月7日における賢治についての森荘已池の伝える次のような一連の証言内容である。
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三冊の本を出す。和とぢの本だ。
あなたは清濁をあわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(略)…
 宮沢さんも、そうだそうだという。そして次のようにいった。
ハバロック・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちっとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね。」
 こんな風にいってから、またつづけた。
禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地がひっくりかえると同じことじゃないか。
何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」
 そういってから、しばらくして又いった。
昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといったそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
 私はその激しい言い方に呆れる。
草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
 石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、「私も随分かわったでしょう、変節したでしょう――。」
という。
「いや自分はそうは思いません。」
と答えたが、
「そう思う人があるかも知れませんね」
とも答えた。
               <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)176p~より>
 いみじくも、賢治自身が
禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。
とか、
何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。
はたまた、
 その三四冊の春本や商売のこと、この性の話などをさして、「私も随分かわったでしょう――。」
と言ったということをあの森荘已池が活字にして証言しているのだから、これらの証言にまず嘘はなかろう。
 したがって、もはや賢治はかつてのような賢治ではなくなってしまった。賢治は変節してしまったと言える。もちろん、そのような賢治はまさに《愛すべき賢治》である。そしてまた、この頃の賢治は精神的にかなりハイな状態にあったと結論していいだろうから、この点に関しては今後人間賢治を見ていく上での一つのポイントになってゆくであろう。

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