みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

思考実験<賢治三回目の「家出」(続き)>

2014-07-14 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
思考実験<賢治三回目の「家出」>(続き)
賢治三回の「家出」
吉田 いずれ、賢治の体温が高かったとはいえこの両日ならばまだ37℃台、無理すれば吉祥寺に行けないこともないから、このいずれかの日に賢治は少なくとも吉祥寺の菊池武雄の家に行き、また当時国分寺辺りに住んでいたと思われる伊藤ちゑの許へも訪ねて行った。まあ、これらはあくまでも思考実験上でのことだけど。
 ついでに言えば、場合によっては、この東藏宛書簡〔395〕中の「廿日夜烈しく発熱致し…熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり」は賢治の方便であった可能性もあるということも視野に入れる必要があるかもしれん。
荒木 どういうことだ?
吉田 他でもない、そうすれば少なくとも取り敢えず花巻の実家に戻らなくてもよいことになるから実質的な「家出」ができるだろう。裏を返せば、この東藏宛書簡は、実質的に賢治は三回目の「家出」をする覚悟であったということの一つの証左となりそうな気もする。
鈴木 それはちょっと論理の飛躍で、無理筋だと思うがな。う~む、段々何が何だかわからなくなってきた。
荒木 ところで賢治三回目の「家出」ということだけど、最初のはなんとなくわかるが…。
吉田 それは、最初の一回目が例の「突然ばったり落ちた」という、
 その時頭の上の棚から御書が二冊共ばつたり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに臺所へ行つて手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一緒に包み洋傘を一本持つて急いで店から出ました。
              <『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)47pより>
と関登久也宛書簡に書いてあるような、大正10年1月の衝動的で突発的な「家出」。
 二回目が、これもまた突如花巻農学校の職を辞して下根子桜で暮らしを始めたことも、確たる見通しもないままのそれだったのだから僕に言わせれば実質的には「家出」で、これ。
 そして三回目が、この昭和6年9月の「上京」だ。ただし殆どの人はそうは思わんだろうけどな。
荒木 いや、三回目も吉田に段々刷り込まれてきたのでそれもありかなと思うようになってしまった。実際、賢治は天才故の直情径行なところがあるし、二度あることは三度あるとも言うしな。
吉田 あっ忘れてた。僕と似たことを小倉豊文がこう言っていた。
 最後の上京にしても、その前後二回の家を出ての独立的生活にしても、賢治にとって実に思いで深いものであったろう。賢治はその都度命がけの「出家」を決行したのである。
               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)47pより>
と。ただし、こちらは文字が逆で「出家」だけど。
鈴木 なるほど、小倉も三回と見ていたのか。いずれ、この三回の「家出」にしてもあるいは「出家」にしても、まさしく不羈奔放な賢治の面目躍如というところかな。
荒木 皮肉か?
鈴木 とんでもない、このような賢治だからこそあれだけのことが出来たということだよ。あの『春と修羅』のようなものをスケッチ出来る人が今後現れることなど二度とないと思ってる。

思考実験<ちゑに結婚を申し込んだ賢治>
吉田 さて思考実験の続きだが、賢治が昭和6年9月に東京に「家出」をしようと思ったのは、もちろんちゑと結婚しようと思ったからだ。
鈴木 たしかにそう言われてみれば、先に引用した「昭和6年7月7日の日記」によれば、
   伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです
と認識し、しかも
 禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていたようだからこの頃になると賢治は独身主義を棄て、賢治はちゑならば
   自分のところにくるなら、心中のかくごで
来てくれると思っていた節もあり、賢治はいよいよちゑと結婚しようと決意した、という可能性はないとは言えない。
吉田 しかも「『三原三部』の人」によれば、
 けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。<*3>
というようなところまでも賢治は考えていたようだからな。 
 そこで賢治はちゑとの結婚を決意し、東京に出て「東北砕石工場」の代理店を開いて化粧煉瓦を売りながら生計を立て、「日常生活をいたわり合」いながらちゑと一緒に暮らそうと具体的な生活設計を立てた。そしていよいよ昭和6年9月19日、化粧煉瓦を詰めたトランクを持って花巻を後にした。
荒木 最後の部分だけはわかるけど、その前の部分はどうだべな?
吉田 まあまあ、単なる思考実験だ。続けよう。
 もちろん、上京した賢治はいの一番にちゑの許を訪ねてその決意をちゑに伝え、結婚しようと切り出した。ところが、『ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです』と認識していた賢治だったのだが、先に明らかにしたように、一方のちゑは賢治と結婚するつもりは全くなかったからきっぱりと断った。
鈴木 しかも、兄七雄が急逝したばかりだからなおさらに、きっぱりとその申し出を断ったということもありかな。
吉田 それもあると思う。
荒木 そういえば、以前にも話題になった伊藤ちゑが藤原嘉藤治に宛てた10月29日付書簡の中に、
 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれどあの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に書き代え頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。
と書いていることからは、ちゑは賢治との結びつきは疎ましく思っていることがわかる。そしてまた、この書簡からだけでなく、わざわざ保育園を辞めて大島までやって来て兄七雄の看病をするくらいだったということからも如何に兄想いであったかもわかる。そして賢治は兄とも親しかったというのに、亡くなった際には弔問に駆けつけもせずに、今頃やって来て、しかも結婚を申し込むなんて…とちゑは内心苛立ちを感じたかも知れないな。
鈴木 そうだその苛立ちといえば、「「三原三部」の人」なかに、森荘已池に対してちゑが
 あんまり火あぶりの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あのお方のお帰りになる後ろ姿に向かつて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
と真情をズバリ吐露しているくらいだから、そのような苛立ちはあり得ることだ。
吉田 ところがそこは鈍感な賢治。賢治とすれば、ちゑとならば『世の中の結婚とは一寸ちがって、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう』というような結婚生活を思い描いていたし、なおかつちゑは『どこにもいかないで』賢治との結婚を待っているとばかり思い込んでいたものだたから、賢治は予想だにしなかったちゑの拒絶に周章狼狽、悄然としてしまった。

決意の「家出」
吉田 しかし賢治とすれば出奔にも準ずるような「家出」の覚悟だったから、今更おめおめと実家に戻るというところまでは気持ちの整理もつかず、貸屋探しを菊池武雄に依頼した。
荒木 そうか。「家出」の覚悟だったからこそ当初は、上京して直ぐに熱発しても頑なに実家に戻ることを拒み、なおかつ東京で住む家まで探していた、ということか。
鈴木 それにしてもなあ、ちゑとならば結婚してもいいと覚悟を決めて折角「家出」までして来た賢治とすれば、それが完全に裏切られたと受け取っただろうな。
吉田 そのせいもあって緊張の糸が切れてしまった賢治は、もともと体調不十分だったこともあって気力も失せ、途端に発熱、床に伏した。
荒木 これで何もかも終わり、賢治は夢も希望も失ってしまってもはや生きる望みもなくなり、あの「遺書」を書いた。いや待て待て、これはやはりないな。あれぐらいの熱が続いたからといって「遺書」を書くわけがないのと同じように、女に振られたぐらいで自殺するような賢治ではないはずだから、この時に賢治が「遺書」など書くわけがない。
吉田 やはり、あれはあくまでも「家出」の決意書だったと僕は思うね。
 さて、連日の高熱で床に伏しながら賢治は今後のことに思いを巡らしたが、もはやちゑとの結婚の計画も頓挫した、「家出」をする意味もなくなってしまった。当然東京にいる必要もなくなってしまった。切羽詰まってしまった。
鈴木 そういば、9月27日に賢治は父政次郎へ
 もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御聲をきゝたくなつたから……
             <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
と電話したようだから、その時にどれほどの病状だったかはわからないにしても、精神的には賢治がとことんまで追い込まれていたということはあるだろうな。
吉田 その電話をうけて父は即刻帰花するようにと厳命、賢治は後ろ髪引かれる思いで帰花した。あるいは逆に「渡りに舟」だったかもしれないが、いずれにせよ帰花し、再び実家で病臥した。
 ちなみにこの時、花巻に戻った賢治は父政次郎に何と言ったか。小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』に
 賢治はこの時はじめて父に向かって「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を発したという。
               <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)24pより>
と記している。
荒木 もし、この謝罪の文言「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」がそのとおりであったとすれば、この時の賢治は「家出」という決意をして上京したという吉田の「私見」が、俄然説得力を持っていると思えてきた。だって、東北砕石工場の壁材料等の宣伝営業のための上京であったならばそれは仕事のためだったのだから「我儘ばかりして」いたという発言はあり得ない。ところが、その上京が<賢治三回目の「家出」>であればまさに「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という謝罪はピッタリな表現になるからな。

〔聖女のさまして…〕の「聖女」は露ではなくてちゑ
吉田 そして、実家で病に伏せながら賢治は『雨ニモマケズ手帳』の実質的な一頁に
    昭和六年九月廿日
    再び
    東京にて発熱。

というように、<三回目の「家出」>のことをまず書いた。
 そしてこの手帳を書き進めているうちに、ちゑの方も賢治とならば結婚してもいいと思っているものとばかり思い込んでいた賢治だったが、実際に申し込んだところにべもなく断られてしまって、ちゑに一方的に裏切られたという賢治の想いが日に日に募ってきて病臥中の賢治自身を苛み、次第に溜まってくるフラストレーションがついに爆発、10月24日「ななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕を『雨ニモマケズ手帳』に書いてしまった。
荒木 したがって、賢治がこの時に「聖女のさましてちかづけるもの」と詠んだ女性は伊藤ちゑのことだったと、そういいたいのだな。
吉田 前にも少し言ったように、もちろん高瀬露はクリスチャンだから一般に〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」とは露のことと決めつけがちで、実際殆どの人がそう思っているようだ。
 だが、もしその論理でいうならば露は「…さまして」ではなく、ずばりなのだからその場合には、
   聖女ちかづける
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも

というように、理屈上はならねばならぬ。
 また、その女性が仮に露だとすれば、「聖女のさまして」よりはズバリ「聖女」とみなされた露がかくの如き忌まわしき行為をするということになるのだから、ズバリの方がより辛辣に揶揄できることになって、その方が賢治としても清々するはずだ。
荒木 ところが、実際はあくまでも「さまして」だから、その点から見ても露ではない可能性が高いということな。
鈴木 一方のちゑであれば、まさしく「聖女のような人」となる。なぜならば以前にも引用したように、いみじくも賢治が
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。
とセルギー神父の話を引き合いに出して、賢治はちゑのことを
   おれは結婚するとすれば、あの女性だな。
と藤原嘉藤治に言っているくらいだから、まさしく
   ちゑ=聖女のような女性
だ。したがって、もしそのような女性から仮に裏切られてしまったと賢治が思い詰めたとすれば、まさに
   ちゑ=聖女のさましてちかづけるもの
と言い募ってしまいたくなるのも理屈としては成り立つ。このように吉田は考えたわけだな。
吉田 そう、そいうわけだ。
荒木 いいんじゃねぇ、なかなか説得力がある思考実験だった。
 折角、<三回目の「家出」>をしてまでちゑと結婚しようと思って上京したのに、ちゑに一方的に裏切られてしまった形になってしまった賢治はちゑに対する恨みと怨念が「伏線」となって、帰花してから約1ヶ月経ってもますます募ってくる。その苛立ちから来る恨みと憎しみを込めて〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んだという可能性が少なからずあるということがわかった。
 そしてもしかするとこのことは思考実験という範疇にとどまらず、一つの可能性として実際にあり得たことだということもわかった。
鈴木 つまるところ、〔聖女のさまして…〕の「聖女」は露とは限らない。この「聖女」とはちゑのことかもしれないし、はたまたちゑでも露でも全くないかもしれないということになる。
吉田 またそもそも、それぞれ
 露 :賢治の方から詐病までして拒絶したといわれている露に対して約4年後
 ちゑ:結婚するかもしれませんと賢治が言っていたちゑに対して約2ヶ月半後
となるどちらの女性に対して、佐藤勝治が言うところの「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当てこすりで詠むのかというと、その可能性は
   ちゑ≫露
となることは明らかであろう。
 言い換えれば、詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」が露であるという可能性は否定しないが、そうでない可能性が、それもかなりの程度あるということとなる。

真実は如何に
荒木 ということは、実験結果をまとめてみれば、
 ・昭和6年9月の出京は賢治三回目の「家出」であった。
 ・賢治は家を出てちゑと結婚をして東京で暮らそうと考えていた。
 ・ところがその結婚はちゑからにべもなく断られた。
 ・〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」とはちゑである可能性が高い。
ということか。
吉田 そして以上のことが先に挙げた項目
 (1) 賢治は、着京直後はある程度営業できるだけの体力はあった。
 (2) 賢治は、少なくとも暫く滞京するつもりでいた。
 (3) 賢治は、暫く滞京することを実家の父等には知れたくなかった。
 (4) 賢治が遺書を書くだけの理由は全く読み取れない。
 (5) 賢治には、この時の上京にはうしろめたい気持ちがあった。
と矛盾しているか否かだ。
鈴木 どこどこ、うむ~と、矛盾しているどころか傍証しているものばかりだとさえ言える。
荒木 ということは、この賢治「三回目の家出」は通説とは全く違っているが、十分にあり得たことだったということか…
吉田 いやいや単なる一つの実験結果にすぎない。
*************************************************************************
<*3:投稿者註>
 牛どん屋で畫飯を食べながら、伊藤さんと結婚するかも知れませんといわれ、けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがって、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。――というような意味のことをいわれたのでした。
             <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)114p~より>

 続きへ
前へ 

『東北砕石工場技師時代』の目次”に戻る。

みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4080 ミチノクコザクラ(7/12)  | トップ | 4082 岩木山のヤマスカシユリ? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東北砕石工場技師時代」カテゴリの最新記事