みちのくの山野草

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いよいよ出京

2014-07-11 09:00:00 | 東北砕石工場技師時代
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
出京直前の賢治の体調
 ではそろそろ賢治の最後の上京についてこれから少しく考えて見よう。
 そこでます、昭和6年9月の賢治の動向を以下に確認してみる。


               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より拾い上げた>
 したがって賢治は、出京直前には「肥料展覧会」がありそのための準備と、13日~17日の「肥料展覧会」期間中は宣伝説明を行っていたということになろう。そのことについて、佐藤通雅氏は次のように語っている。
 十五日に展覧会は終わり、十六日にはかたづけをすませた。そして十七日に上京する予定だったが、盛岡で発送した荷物がつかなかった。出品した見本をもっていくつもりだったので、到着をまつことになった。
 十八日にはときどき、大トランクにつめる。この日は旅程が半端になるため、家にとどまった。森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房)は、でかけるときのもようを、

 母は、
 「重いものは持たないで、赤帽に持たせるんだんちゃ。」といったが、虫が知らせるのか、とめたくてしょうがなかった。いよいよ家を出るとき、行かないでくれるようにと口に出していうとお父さんにきこえて𠮟られるので、母は店の片かげにかくれるようにして、そしておがむように手を合わせてあたまをさげ、「行かないでくれ、やめてくれ」といった。

と描いている。なかなか臨場感のある描写だが、小笠原露のときと同様、事実というわけにはいかない。
              <『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164p~より>
 ところでここでびっくりしたのが他でもない、なかなか臨場感のある描写だが…事実というわけにはいかない」という佐藤通雅氏の鋭い指摘であり、結構辛辣である。と同時に、そういえばこの出京時の賢治はかなり疲労が蓄積していたというのが通説だと思っていたが、もしかするとそうではなかったのかもしれないという疑問が湧いてきた。
 ちなみに、佐藤竜一氏はその時の賢治について
 賢治の疲労は極限に達していた。それでも、賢治は予定どおり、上京した。
              <『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』(佐藤竜一著、集英社新書)157pより>
と、その典拠は明示していないが、断定している。また佐藤通雅氏自身も、その典拠はやはり明示していないが、前掲書において
 十日夕に出品のかざりつけを終わる。しかし、ほとんど独力での奔走に、ほとほと疲れはててしまった。
              <『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164pより>
と述べている。
 一方このことに関して『新校本年譜』は、昭和6年9月11日の欄に
 本日から展覧会がはじまったが疲労のため出かけなかった、と推測。
というように記述してあるだけであり、当時の賢治の疲労蓄積等に関しては明らかな根拠があったわけでもなく、単なる「推測」にしか過ぎなかったようだということを私はこの度初めて知った。
 となれば、この出京の際に「賢治の疲労は極限に達していた」ということを裏付ける客観的な資料や証言があったわけではなさそうだ。せいぜい、私の知る限りではそれを傍証する次の賢治のメモがあるに過ぎないということになろう。そしてそのメモとは、以前にも引用した「兄妹像手帳」の体温の記載である。
【『兄妹像手帳』の一四七、一四八頁】

               <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)134pより>
たしかにこのメモによれば、少なくとも賢治に微熱があったことは事実であったであろう。

地質学者加藤謙次郎の証言
 ならばなぜ賢治は体調不良を押して無理矢理出京したのだろうか。もともとこの上京の最大の目的は壁材料等の宣伝・営業のためだったはずだからそれはそれほど火急のことではなく、もし体調が不良であったならばそれが改善されるまで待ち、万全の状態になってから出京するのが普通だろう。まして、そのときのトランクの重さは40㌔だったと言われているが、この出京時に賢治は壁材料等の他にレコードや春本も持参しているからかなりの総重量になったいたことは確かであろうから、それらを携えて体調不良な賢治が上京するということは土台無茶な話である。
 ちなみに、「トランクは40㌔」については伊藤良治氏も前掲書で指摘していておそらく20㌔程度であったであろうと推論しているが、それにしたってかなりの重さである。一般に賢治にまつわることで、普通に考えておかしいと思ったことはやはりおかしいということを私は何度か経験しているが、この件もまたしかりである。どうやら、「賢治の疲労は極限に達していた」ということを鵜呑みにはできないと直感した。
 それは実は、佐藤通雅氏はこの時の出京について、
 十九日の朝、一番の汽車で花巻をたった。まず小牛田に下車し、肥料会社と農業館をたずねる。つぎに仙台におり、農務課へいく。さらに東一番丁の古本屋文化堂をたずね、そこで偶然にも盛岡中学校の先輩加藤謙次郎に会って、家に案内されたことが知られている。
 二十日の早朝、仙台をたつ。森荘已池によると車中でねむり、耳が寒いと思って目をさました、座席の向こうに乗った人が、まどをあけたままおりたという。
              <『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)164p~より>
と述べているが、その加藤謙次郎が次のように証言していたからでもある。
   「賢治と私(三)」
 第二回目は昭和六年九月十九日仙台でつた。実をいうと日時など忘れていたが、賢治の年譜伝記から推すとそういうことになる。陽のかんかんと照る暑い日の午後であつた。東一番丁の文化堂という懇意にしている古本屋に立ち寄つたところ、賢つあんが来ていて浮世絵の話をしていた。話の様子では彼も亦顧客の一人であることが察せられる。
 その日の夕方私は彼を自宅に案内して夕食を共にし、夜遅くまで話し込んだ。彼は当時東北石灰工場で働いていること、石灰粉は胸の病氣によいこと。石灰搗粉は土壌改良に有効なこと等を話て居た。又石灰粉の需要は時季的に不同性があるので、閑期には石粉を配合した化粧煉瓦を造つて売る計画を説明し、その試作品を携えて名古屋方面迄売込宣伝に行つて来ると張り切りつて居り、胸が悪る(ママ)い様子は全然感ぜられなかつた。色々な試作見本を取り出して示された、石粉といつても、この場合はそんなに細かい粉末ではなく角礫砕砂であり、色彩大理石の屑や古生層に特有な濃い赤褐色や青紫色の輝緑凝灰岩、蛇紋岩等の砕屑をセメントで固めたタイル様の物であつた。今で言えば人造大理石、小型テラゾーというところであろうか。表面は磨かず、古典的な渋味もあつて、洋風建築の外装に張り付ければ面白そうであつた。彼はその色味に応じて北欧風とか独逸風などと説明し、「これなんか教会にいいぢやごわせんか」などと一人で喜んでいた。見本には一々銘を付けていたようだつたが私は忘れた。
              <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著、刊行会出版)315p~より>
 ところでまずこの人物についてだが、『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞岩手支局)によれば
 加藤は紫波町日詰の出身で、盛岡中学卒業後、東北大学理学部に進み、当時、東京帝大とそこにしかなかった地質学科を選んだ。卒業後研究室に残り、のちに東北大学理学部教授を務めたという。そして、戦後岩手県内をくまなく歩き回り、資源調査をしたうえで、精密な地質図を作成したということである。
                <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞岩手支局)76p~より>
という地質学者であり、おのずからこの証言内容の信憑性は高いものとなろう。その加藤が
    ・9月19日、賢治は古本屋に立ち寄って浮世絵の話をしていた。
とか
    ・9月19日、賢治は加藤の家に行って夜遅くまで話し込んだ。
さらには、
    ・9月19日、賢治は「張り切りつて居り、胸が悪い様子は全然感ぜられなかつた」。
ということを証言していて、しかもこの時の賢治の話しっぷりからして、花巻を発った9月19日の賢治が「疲労の極み」にあったとは普通は考えにくい、と誰しもが思うであろう。

現通説の信憑性
 となれば、巷間この時に
 その夜賢治が泊まった旅館では隣が遅くまで騒いでいたので仮眠もできず、汽車に乗ってから眠りこけ、寒いと思って目をさました。座席の向こうに乗った人が窓を開けたまま降りたからだった。
などと言われているが、はたしてこの通説もどこまで真実を語っているのだろうかと私は不安になってくる。
 ならばそもそもこの通説の出所はどこだろうか。そこでまずは、おそらくこれが最初に編まれたものと思われる草野心平編『宮澤賢治研究』(昭和14年)所収の「宮澤賢治年譜」を見てみよう。そこにはこの時の上京については次のように書かれている。
昭和六年
△ 九月十九日、炭酸石灰、石灰岩製品見本を携行、本復に至らざる身を無理に上京し、再び發熱し、神田の八番館に病臥す。東京に於いて死す覺悟にて、菊池武雄氏と種々談合せるも、父の嚴命により歸の省す。
 
なお、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)や十字屋書店版『宮澤賢治全集別巻』(昭和18年)所収のものも全く同一記載内容である。
 また、『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)の場合には、
九月十九日、仙臺を経て上京、二十日着京と共に發熱、病臥。父の嚴命により二十八日歸宅、再び病床生活に入る。
 それから、『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年)の場合には、
九月、炭酸石灰とその製品見本を持って上京し、神田區の八番館にて病臥、數日後歸宅そて再び病床生活に入った。
となっているから、これらの年譜がその出所とは思えない。
 一方、多分これがその時の事情をやや詳しく書いている最初の論考だと思うのだが、「昭和六年七月七日の日記」にはこのことに関して
 こういうことをして、そつちこつちまわつて歩いているうちに、九月十九日炭酸石灰や石灰岩製品の何貫目もある見本を持つて上京した。その前コンクリート屋を呼んで化粧レンガなども作つた。
母は、
 「重いものは持たないで、赤帽に持たせるんだんちや。」
 といったが、虫が知らせるのか、とめたくてしようがなかつた。いよいよ家を出るとき、行かないでくれるようにと口に出していうとお父さんにきこえて𠮟られるので、母は店の片かげにかくれるようにして、そしておがむやうに手を合わせてあたまをさげ、「行かないでくれ、やめてくれ」といつた。

 それでも賢治は無理に出ていつた。
 途中秋田により仙台に出て、一泊したとき、午後二時ごろまで飲んで騒いでいた連中があつて眠れず、四時仙台發の列車に乗つた。ぐすつりと眠つていると、何だか耳が寒いと思つて目がさめた。するとあたまも痛いのに氣がついた。向こうに乗つた人が、汽車の窓をあけたまま降りてしまつて、風が吹き込んでいたのであつた。東京につくと一緒にひどく高熱を出して、駿河台の八幡館という旅館で寝こんでしまつたのであつた。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年)110p~より>
と記述してあって、この後半の記述部分が出京時の現通説と符合していることがわかるから、おそらくこれが現在巷間言われている通説の出所であろう。
 すると思い出されるのが前掲の佐藤通雅氏の「なかなか臨場感のある描写だが…事実というわけにはいかない」という指摘である。まさに、先に佐藤氏が引用したその文章
 母は、「重いものは持たないで、赤帽に持たせるんだんちや。」といったが、…(略)…「行かないでくれ、やめてくれ」といつた。
に引き続く一文がこの通説の出所となっていたであろうことがわかるからである。するとおのずから、この出所についても同様、佐藤氏の忠告に従えば「なかなか臨場感のある描写だが…事実というわけにはいかない」という懸念が生じてしまうことになる。実際、そこには「途中秋田により」と記述されているが、こんなことは巷間全く言われていないはずだからなおさら懸念が増してしまう。

 というわけで、
 巷間言われている昭和6年9月19日の出京の際の現通説は事実を伝えているという確たる保証があるわけではない。
と言わざるを得ず、このことに関する現通説の信憑性は少なからず危ういものである。と同時に、
 賢治は昭和6年9月19日に出京を急いだ最大の理由は壁材料の宣伝のためではなくて、その他に大きな理由があった可能性が少なくない。
ということも導かれてしまう。

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