みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

全てを物語る父政次郎の厳しい叱責(第三章)

2014-03-17 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
全てを物語る父政次郎の厳しい叱責
“まだ残っている証言(ア)~(カ)”から言えること
鈴木 それでは先ほど挙げた“まだ残っている証言(ア)~(カ)”の中から、
   露一人だけが咎められなければならない理由があるのか
及び
   賢治はほとんど咎め立てされる必要がないといえる理由があるのか
という観点に立って、検討すべき証言を拾い上げてみたいがどうだろうか?
荒木 じゃあ、そうしてみるべ。
鈴木 ではまず露に関して検討すべき事項としては…
吉田 その前に、こうして見てみると「だらう」とか「様です」はたまた「といふ話もあり」などというように、「推測及び伝聞の部分」も多い。しかし、推測や伝聞では検証の資料たり得ないから基本的にはこれらは除外するしかないだろう。また、Kの「証言」は単独では使えないと僕たちは判断したのだからそれも同様だろう。
鈴木 それはそうだな。となれば…
 露に関しては
   (a)二度、三度昼食を持つて来たことがあります
   (b)執こく訪問した

一方、賢治に関しては
   (c)「本日不在」といふ貼紙を貼つて置いたり、或ひは別な部屋にかくれて、なるべく逢はないやうにしていたりしてゐた
   (d)他の人に物を輿へることは好きでも、他人から貰うことは極力嫌つた賢治氏

というあたりしか検討すべき対象となる証言は残っていないことになろう。
荒木 これはちょっとびっくりだな。つい今までは、あれだけ〈悪女〉にされたのであれば、結構沢山の重要な確たる証言があるとばかり思っていたが、たったこれぽっちか。
吉田 うん、たったこれだけとは意外だった。巷間いろいろと露は今まで論われてきたのだが、その信憑性を精査してみると、実はこの二つ(a)と(b)しかそれが担保されていないということなのか。
鈴木 私自身も驚きだが、そういうことにならざるを得ないようだな。
 では次。先ほどの(a)~(d)の各事項がはたしてズバリ
   露一人だけが咎められなければならない理由
及び
   賢治はほとんど咎め立てされる必要がないといえる理由
となるかどうかというとだが、言わずもがなだが、ない。全くない。
荒木 そりゃそうだべ。(a)に関しては実際に賢治が「大変気に病ん」だかもしれないが、それは露が悪いわけではない。また、(b)についてはここまで調べてきてみて明らかなように、少なくとも賢治は露の下根子桜訪問をかなりの回数許していたのだから、「執こく訪問した」ともし誰かが言うのであればそれは言いがかりだ。言い換えれば、(a)や(b)は「それが理由となって賢治はある時点から心変わりしてしまった」というその理由としてはあまりにも心許ない。
 一方の(c)については、いくら賢治といえどもあまりにも奇矯な行為だし、(d)は一般的に言えば身勝手な論理だからだ。
鈴木 あれれっ、賢治をとても尊敬している荒木が結構賢治に厳しい見方をするようになってきた。無理しなくていいぞ。
荒木 いや、もちろん俺の賢治を尊敬する気持ちに変わりはない。されど、その賢治に関わる女性が理不尽な扱いをされているとすればそれは看過できないことだと思っているだけだ。そもそもそのような不条理を賢治は一番嫌っているはずだから。
吉田 さすが荒木、物事のけじめがしっかりしている。それでは僕たちも情に流されることなく検討を進めて行こう。
 では次に念のため、Kの「証言」は単独では使えないと僕たちは判断した事柄についても少しく考えてみよう。実際、もしこれらが仮に事実であったとすれば検討に値する事項もなきにしもあらずだ。そこで仮に
   (e)然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つていた
を取り上げるとする。ところがそうするとなれば、それと同等の資格を有するであろう次のこと
   (f)その中には本などは勿論、布團の様なものもあつたさうです
も取り上げねば不公平になる。すると、露を咎めようとすれば、それと同じように、あるいはそれ以上に賢治の軽はずみな贈答が問題視されねばならないことになる。
荒木 たしかに、もし仮に男性がそのようなものを贈ったとなれば、関登久也も述べているとおりで、女性が益々思慕の念を強めるという図式は十分にあり得るわけだから、そのことで男性の方がより中傷されるということは十分あり得るだろう。
鈴木 Kの他の証言の場合だって似たり寄ったりで、たとえば同じく
   (g)某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、晝となく訪ねて來たことがありました
等の場合なども同様であり、もし仮に露がそうしたというのであれば、それに対する賢治の行為
   (h)門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗つて出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた
という奇矯な行為は三十を過ぎた大人の男がすることでもないから、もし露が咎められるとすればそれ以上に賢治の奇矯な行為の方が嗤われてしまうだろう。
吉田 ところがその実態は、露一人だけが悪し様に言い立てられて「悪女伝説」が巷間流布させられてしまったし、一方の賢治は聖人君子に奉られて揺るぎない。ということは、逆の見方をすればこのような噂話程度のものによってこの伝説は作り上げられたものであるということがほぼ明らかにできたということになりそうだな。
荒木 そしてそもそも、(e)にしても(g)にしてもそれはKの証言なのだかから単独には使えないものだし、他の人がこのことを証言しているわけでもないからなから、はたして(e)や(g)が歴史的事実だったかどうかは疑わしいべ。
鈴木 もちろんそうだ。だから結局、今回挙げた“まだ残っている証言(ア)~(カ)”を検討してみた結果によれば、所詮これらの証言内容の多くは単なる男女間のことを興味本位に仕立て上げた噂話程度のものであり、
 これらの「証言(ア)~(カ)」を典拠として、露一人だけを論って咎め立てすることは極めて不当だ。
と結論できるということか。
吉田 自ずから、一方で賢治がこのことでほとんど咎め立てされていないことは実に不自然なことだから、そこには何らかの意図的な動きがあったということも浮かび上がってこざるを得ない。
荒木 誰かが賢治を誰かが庇うために、露を貶めたという悪意の可能性が限りなく横たわっていたということになるのか。

父政次郎からの厳しい叱責
吉田 だから、賢治に対してはきつい言い方になるが、『これらの「証言(ア)~(カ)」を典拠として、露一人だけを論って咎め立てすることは極めて不当だ』というよりは、
 これらの「証言(ア)~(カ)」などを典拠として、賢治には殆ど痛手を負わせずに露一人だけを詰り、しかも不当に「悪女伝説」を巷間流布させた罪は大きい。
と僕は捉えている。少なくともあれだけのことを賢治はしていたのにもかかわらず、だからだ。
鈴木 その「あれだけのこと」とは、私たちが
   ①(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
   ②顔に灰を塗って露と会った。
   ③別な部屋に隠れていた。
   ④私は「癩病」ですと露に言った。

と判断していて、しかも『新校本年譜』は
 高瀬は関徳弥夫人ナヲと同級生だったので賢治が言ったという「癩病」云々を告げ、これが一部のうわさとなった。賢治は関家を訪い、ことの真実を語って誤解をといた。
と断定して記述している、一連の「言動」のことか?
荒木 そうそうそれなんだが、どうも俺にも違和感があるんだよな。続けてそこには
 うわさは父の耳にも入り、「おまえの苦しみは自分で作ったことだ。はじめて女の人とあったとき、おまえは甘いことばをかけ、白い歯を出したろう。女の人とあうときは、歯を見せたり、胸をひろげたりしてはいけない。」と戒めた。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)360p~より>
とあるからなおさらにな。 
鈴木 そこなんだよ。奇妙なことにこの父政次郎の叱責に関しては、Kの「賢治先生」では、
 お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に對して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて會つた時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を擴げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が惡かつたのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
             <『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』(宮澤賢治の會)4pより>
とあるし、関登久也の「女人」でも、
 或る日父上政次郎氏は「その苦しみお前の不注意から起きたことだ。始めて逢つた時に甘い言葉をかけたのがそもそもの誤りだ。女人に相對する時はげらげら笑つたり胸をひろげたりすべきものではない。」と嚴しく反省をうながされました。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版社)190p~より>
とあり、しかも小倉豊文は
  それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯を見せるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に―。
             <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)45p~より>
というように、「父政次郎の叱責」があったことをいわば駄目押しをしている。
荒木 ということは、『新校本年譜』は賢治がほぼ『私は「癩病」ですと露に言った』であろうことを臭わせながらも実は100%の断定はしていないのだが、
   賢治は『私は「癩病」です』と露に言った。
ということはもはや歴史的事実だったと断定していいと、俺は思うんだな。
吉田 普通の人はそう受け止めるだろう。それ故にこそKは、
 厳しく反省を求められ、
と、関登久也も
   嚴しく反省をうながされました。
というように、両者ともにきつい調子で叱責されたと書いたのであり、あげく、Kは『先生も又ほんとうに自分が惡かつたのだと自らもそう思ひになられたやうでした』という所感さえも述べていたのだと思う。賢治がもしそう言っていなかったのであれば、これほどまでに厳しくは政次郎から決めつけられることはなかっただろう。
鈴木 したがって、
 賢治は『私は「癩病」です』と露に詐病したということ、および、父政次郎が『おまえの苦しみは自分で作ったことだ。はじめて女の人とあったとき、おまえは甘いことばをかけ、白い歯を出したろう。女の人とあうときは、歯を見せたり、胸をひろげたりしてはいけない』と賢治を厳しく叱責したということは歴史的事実であった。
と言うしかないだろう。

政次郎の叱責の持つ意味
荒木 となれば、俺たちが
   ある時期まで賢治と露の二人は親密な関係であった。
  →昭和2年のおそらく夏から秋にかけて賢治が心変わりした。
  →賢治は露に「癩病」ですと詐病して露を拒絶するようになった。

と判断しているところのこの顛末も、かなり真実味を帯びてきた。
 一方、吉田はかなり厳しい見方をしているがそこまでだったかどうかはさておき、
 先の「証言(ア)~(カ)」を典拠として、露一人だけを論って咎め立てすることは極めて不当だ。
ということは明白になったようだし、俺たちのここまでの検証結果によれば一連の賢治の奇矯な言動に関わる証言はいずれもは<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例とはならないから…
鈴木 そりゃそうだよ。仮に、先の(a)や(b)が反例になって<悪女>にされたのでは、世のすべての女性がそうなってしまうだろう。
吉田 そうなったのではたまったもんじゃない。何のことはない、結論を言ってしまえば、この一連の賢治の奇矯な言動をどう評価するかは、先の政次郎の叱責『おまえの苦しみは自分で作ったことだ云々』に尽きるっていうことだよ。換言すれば、
 その全ての責任は吾が息子にありときっぱり言い切った、情におぼれずに冷静な大人としての政次郎の判断が事の真相の全てを雄弁に語っている。
と、僕はそう見ている。
鈴木 それにしても、なぜこの父政次郎の叱責のことを人々は重く捉えてこなかったのだろうか。それを的確に捉えておれば、初めからこんな「悪女伝説」等は起こりえなかったはずなのに。
吉田 いや、殆どの人はこの件に関しては実は賢治が悪いと思っているはずだ。鈴木だって前に言っていたじゃないか。
 実際私の周りでは、巷間流布している「露伝説」が話題になった際に、このことを多少知っている人の多くは
   『ああ、あれは賢治が悪いのさ』
と言うんだよな。
って。
鈴木 そうそうそうなんだよ…。
荒木 いやあ、でも嬉しいな。これで
   <仮説:露は聖女だった>は現時点でも相変わらず検証に耐えている。
とほぼ言えそうだ。
鈴木 露は巷間伝わっているような<悪女>どころか、思いの外、「露は実は<聖女>だった」に次第に近づいてきている。荒木、良かったな。
吉田 少なくともこれで、露の遠野時代および花巻の下根子桜時代において、露は<聖女>だったとほぼ言える。
荒木 さすれば、おいおい、後はこの下根子桜時代の分で検討されねばならないこととしては何が残っているのだ?

高瀬露関連を含む図書等一覧
鈴木 それに関してだが、高瀬露がらみのことが書かれている図書や文献等のうちで現時点で私が把握しているリストは以下のとおりだ。見落としもあると思うので気がつき次第追加訂正したいと思ってはいるが。
そう言って、私は次のような事が記載されている用紙「高瀬露関連を含む図書等一覧」を二人に手渡した。
************************** <「高瀬露関連を含む図書等一覧」> *********************************
( 1) 高橋慶吾宛の高瀬露からの「端書」(昭和2年6月9日付)<マツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ>
( 2) 「ダリヤ品評会席上」(昭和2年8月16日)<「クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて」>
( 3) 賢治と露の間で書簡の遣り取り?(昭和4年)
( 4) 関登久也の『昭和五年短歌日記』(昭和5年10月4日、6日)
( 5) 〔聖女のさましてちかづけるもの〕(昭和6年10月24日)
      宮澤賢治没 昭和8年9月21日(37歳) 
( 6) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(昭和10年頃開催か)
( 7) 『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)<「賢治先生」>
( 8) 『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)<「賢治先生の靈に捧ぐ 露草」>
( 9) 『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)<「面影」「賢治の集ひ 小笠原露」>
(10) 『新女苑』(昭和16年8月号)<「宮澤賢治と女性」藤原嘉藤治>
(10a) 『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月発行)<女人>
(11) 『宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版、昭和18年9月発行)<「面影」「返禮」「女人」「宮澤賢治先生を語る會」>
(12) 『續宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和21年10月発行)<座談会「宮澤賢治先生を語る會」>
(13) 『宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和22年3月発行))<「面影」「返禮」「女人」>
(14) 『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池、人文書房、昭和24年1月発行)<「昭和六年七月七日の日記」>
(15) 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)<「書簡の反古」>
(16) 『宮沢賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年8月発行)<12 「聖女のさましてちかづけるもの」>
(17) 『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)<佐藤勝治「賢治二題」>
(18) 『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)<「羅須地人協会時代(89p)」「風評(伊藤清)」>
(19) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年3月発行)<「女性」>
(20) 『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社、昭和42年発行)<39頁、推定取り消し>
(21) 『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭和43年4月発行)<「4 高瀬露のこと等」>
      高瀬露帰天 昭和45年7月23日(68歳) 
(22) 『賢治聞書』(菊池正編、昭和47年8月発行)<伊藤与蔵からの聞書> 
(23) 『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年12月発行)<「やさしい悪魔」>
(24) 『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年10月発行)<「)<「宮沢清六さんから聞いたこと」>
(25) 『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月発行)等<「露宛て新発見書簡下書」「賢治年譜」>
(26) 『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年2月発行)<「賢治年譜の問題点」(「露の手紙」について)>
(27) 『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月発行)<「二人の女性」>
(28) 『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社、昭和53年12月発行)<手帳複製版解説では一応全面的に取消した>
(29) 『啄木と賢治第13号』(佐藤勝治編、みちのく芸術社、昭和55年9月発行)<「宮沢賢治と木村四姉妹」(高橋文彦)>
(30) 『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年発行、48p)<父政次郎「白い歯を」など>
(31) 『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社、平成元年9月発行、197p)<中舘武左衛門宛書簡下書>
(31a) 『宮沢賢治・第九号』(洋々社、1989年(平成元年)11月発行)<小倉豊文「宮沢賢治の愛と性」>
(32) 『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫、平成3年10月発行)<「女性」>
(33) 『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店、平成7年7月発行)<荻野こゆき証言>
(34) 『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵等共著、河出書房新社、平成8年3月発行)<「賢治をめぐる女性たち-高瀬露を中心に-」>
      宮澤賢治生誕百年 平成8年8月
(35) 『七尾論叢 第11号』(吉田信一編集、七尾短期大学、平成8年12月発行)<「「宮澤賢治伝」の再検証(二)-<悪女>にされた高瀬露-」>
(36) 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月発行)等
(37) 『遠野物語研究 第7号』(遠野物語研究所、平成16年発行)<「宮沢賢治と遠野二」(佐藤誠輔)>
(38) 『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、平成18年3月発行、311p~)<「献身の病理」(「賢治研究2000年」)>
(38a) 『賢治文学「呪い」の構造』(山下聖美著、三修社、平成19年8月発行)<「賢治とアノ人との不思議な関係」>
(39) 『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社、平成19年10月発行)<伊藤与蔵「賢治聞書」>
*********************** <「高瀬露関連を含む図書等一覧」終わり> ***********************
検証に耐えている<仮説:高瀬露は聖女だった>
荒木 じゃじゃじゃ、結構あるもんだな。
鈴木 それで、今までに私たちが検討をしていなかったもので今すぐ検討を要するものは、
   (2) (10) (22)
というところだろう。なおこの時代のものではないが、賢治が下根子桜から撤退した後において問題となるのが、次の
 (3) (4) (5) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (25) (27) (28) (29) (30) (31)
ということになろうが、これらにつては後程改めて皆でまた考察せねばならないと思う。
 では(2)「ダリヤ品評会席上」についてだが、これは以前荒木がこんな詩もあるぞと言って教えてくれたやつだ。
荒木 あっ、そうそう。とかくK宛てのあの「端書」のせいで、昭和2年の6月頃から賢治は露を拒絶し始めたように言われているようだが、同年8月16日付けの詩「ダリヤ品評会席上」の中の連
   まことにこの花に対する投票者を検しましても
   真しなる労農党の委員諸氏
   法科並びに宗教大学の学生諸君から
   クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて
   云はゞ一千九百二十年代の
   新たに来るべき世界に対する
   希望の象徴としてこの花を見たのであります

              <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)192p~より>
で、賢治は「クリスチャンT氏」という表現を用いて、「そのような露」を詠み込んでいたというやつな。
 ちょっと俺には賢治の心理を計りかねるが、かといってこのことが<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例になり得ないことは明らか。問題なし。
鈴木 それでは次は(10)についてだが、元々は『新女苑』(昭和16年8月号)に所収されている「宮澤賢治と女性」からで、藤原嘉藤治は
 大正十五年の春、農学校の教師を辞し、自炊生活をし乍ら農民指導をしてゐた頃である。彼のよき理解者、援助者になるつもりの自讃女性が飛び込んで来たことがある。これには宮澤賢治も「あゝ友だちよ、空の雲がたべきれないやうに、きみの好意もたべきれない」といつた風な工合で、ほとほと困つたことがある。僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐたが、女の方でしびれを切らし、他に良縁を求めて結婚してしまつてけりがついた。
              <『四次元』第五号第一〇号、昭和28年より>
とそこで証言している。
吉田 嘉藤治は『僕も仲にはいつたりして、手こずつたが、反面、宮澤賢治なる者、果たしてどこら辺迄、その好意を受け入れ、いかに誘惑と戦ふかを興味持つて傍観したりしてゐた』ということで、間に立って困ったことがあったとしても、やや冷やかし半分のところもあったことがこの回想からは窺える。そしてそもそも、あのMがあれだけ悪女扱いをしているのに、嘉藤治の場合はもっと身近にいてしかも親友なのだから、もしそれほどまでに悪女であったとしたならばM以上に彼女の行為に対して憤り、激しく強く詰るはずなのにそのような節はこの証言からは微塵も感じられない。したがって、この嘉藤治の証言は件の仮説の反例とはなり得ない。
鈴木 それでは(22)の、伊藤與蔵からの聞き書き『賢治聞書』からで、
 伊藤忠一君は自分で新しいフルートを買いましたが、それでも駄目でした。
 みんなは途中で投げ出したかたちになりました。
 最初の演奏会をやろうという勢いもなくなりとうとう中止になりました。先生のオルガンだけは上手になり伴奏などもつけて、ひけるようになりました。たぶん高瀬露子さんに習ったのだろうとみんなで話していました。
              <『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明編著、時潮社)42pより>
というものもある。
荒木 これなどは逆に、この当時はまだまだ賢治と露の関係は良好であり、露が賢治の許に出入りしていたことは協会員の伊藤忠一も與蔵も知っていたということを教えてくれる。なおかつ、與蔵が「中止になりました」とも言っているということからは、その時期はあの新聞に載った昭和2年2月のことを指していると考えられるから、露が証言している下根子桜に出入りしていた期間「大正15年の夏~昭和2年の夏」を裏付けるものでもある。もちろん、この証言は<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例などにはなり得ない。
吉田 たぶん、賢治の下根子桜時代における関連証言はほぼ以上で尽きると僕も思うので、なあ鈴木、下根子桜時代における<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証結果をこれから荒木にまとめてもらおうじゃないか。
鈴木 そうだな、それはいい。少なくともここまでの検証作業によれば荒木の想いは叶えられていそうだから、やはり最後は荒木でしょう。
荒木 なんか悪いな。でも参ります。
(Ⅰ) さて、今回は「奇矯な賢治」ということに焦点を当てて、<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証作業をここまで行って来た。その結果、俺が抱いていた賢治とは真逆とも思える次のような言動
   ・(十日位も)「本日不在」の札を門口に貼った。
   ・顔に灰を塗って露と会った。
   ・別な部屋に隠れていた。
   ・私は「癩病」ですと露に言った。

を、賢治は実際に行った、ということはほぼ確かであるということを導けた。
(Ⅱ) 一方で、「悪女伝説」の典拠となっている「昭和六年七月七日の日記」の記載内容は、少なくとも露関連の事柄については検証もせず裏付けもとらずに、当時賢治周辺に広がっていた興味本位の噂話などを単に活字にしたものに過ぎないという可能性が極めて大きいことも知った。換言すれば、「昭和六年七月七日の日記」は「悪女伝説」の源になっているという実態はあるものの実はかなり信憑性が薄く、賢治の伝記研究の資料としては殆ど使えない、ということもほぼ導くことができた。
(Ⅲ) しかも露に関するKの言動には不審な点があるので、Kの証言は単独では使えないということが妥当であろうということも判断できた。
(Ⅳ) 同時に事の顛末は、
   ある時期まで賢治と露の二人は親密な関係であった。
  →昭和2年のおそらく夏から秋にかけて賢治が心変わりした。
  →賢治は露に「癩病」ですと詐病して露を拒絶するようになった。

であることもほぼ間違いなさそうだということも判った。
(Ⅴ) その上で、生き残った証言を用いて<仮説:高瀬露は聖女だった>の検証をしてみた結果、その反例となるものは何一つなかった。
(Ⅵ) したがって、<仮説:露は聖女だった>は棄却する必要はないということになり、
 下根子桜時代、謂わば「羅須地人協会時代」においても、<仮説:露は聖女だった>は検証に耐えることができた。
となる。
吉田 それから、下根子桜時代以前及び遠野時代においてもこの<仮説:高瀬露は聖女だった>が棄却されることがないことは、前者においては明らかなことだし、後者におけるそれは以前既に僕らが検証できたことだから、残された期間、賢治が下根子桜から撤退した昭和3年8月~露が遠野に異動した昭和7年3月の間を除けば、少なくとも<仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてもいいということになる。
荒木 ああ良がった。嬉しいな、現時点では露は聖女だったと相変わらず言えるなんて。仮説は相変わらず検証に耐えているっ! よし、これで少しは露も喜んでくれるべ。
鈴木 いやぁわからんぞ。残された「昭和3年8月~昭和7年3月の間」にどんでん返しが起こるかもしれんぞ。
荒木 ……
吉田 鈴木も人が悪いな、折角荒木はホット胸をなで下ろしていたというのに。ほにほに。
鈴木 ごめんごめん、つい軽口を叩いてしまった。よしそれじゃそのお詫びと、今まで付き合ってくれた二人に感謝の意を込めて俺が奢るから飲みに行こうか。

〔うすく濁った浅葱の水が〕
吉田 この前は鈴木にはすっかりご馳走になってしまったが、やはり居酒屋『早池峰』は雰囲気も落ち着いているし酒も肴も旨かった。今度は俺が奢るから、いつかの山行後にまたあすこ飲みに行こうよ。
荒木 うんいいな。あそこの店のおやじ味があるしな。
 さて、ところで、この前「ダリヤ品評会席上」の詩が話題になったよな。あの詩の中に露が「クリスチャンT」として詠み込まれていたわけだが、何であのような詠み込まれ方を露はされたのだろうかということが気になってその後、露らしき人物が詠み込まれている賢治の詩が他にはないものだろうかと思って探してみたならば、二人は知ってる詩だとは思うけど、次のような詩が見つかった。
 鈴木、ちょっと『校本宮澤賢治全集第四巻』を見せてくれ。
そう言って、『校本全集第四巻』を受け取った荒木はその頁をめり、
 一〇三九 〔うすく濁った浅葱の水が〕 一九二七、四、一八、
   うすく濁った浅葱の水が
   けむりのなかをながれてゐる
   早池峰は四月にはいってから
   二度雪が消えて二度雪が降り
   いまあはあはと土耳古玉のそらにうかんでゐる
   そのいたゞきに
   二すじ翔ける、
   うるんだ雲のかたまりに
   基督教徒だといふあの女の
   サラーに属する女たちの
   なにかふしぎなかんがへが
   ぼんやりとしてうつってゐる
   それは信仰と奸詐との
   ふしぎな複合体とも見え
   まことにそれは
   山の啓示とも見え
   畢竟かくれてゐたこっちの感じを
   その雲をたよりに読むのである
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)66p~より>
という詩を私たちに見せながら続けた。
荒木 この詩のここを見てくれ、
   基督教徒だといふあの女の/サラーに属する女たちの
とあるだろ。
鈴木 そうかなるほど。この“基督教徒だといふあの女”とは高瀬露のことだったというわけか。よく見付けたな荒木。
吉田 すごいじゃないか。
荒木 じゃじゃじゃ、照れるな。
鈴木 実は以前、この詩については「うすく濁った浅葱の水が」の「浅葱」にちょっと違和感を抱いたことはある。
荒木 それはどんな?
鈴木 ちょっと横道に逸れてしまうけど、実は賢治の「冬のスケッチ 二」にもこれと似た
   まさに浅葱の春の水なり
という表現がある。
 ところが、春の川の流れの色と言えば「葱緑」の場合が実際にあり、まさに葱緑の場合こそ雪解けの水、春の流れだなと思うことがしばしばあるんだな。逆に春の水が浅葱に見えたという経験はいまだかつてない。だから私ならばこの場合は、
   うすく濁った葱緑の水が
であり、
   まさに葱緑の春の水なり
としたくなる。
 これに対して一方、同じく賢治の詩「鳥の遷移」には
   鳥がいっぴき葱緑の天をわたって行く
という表現がある。しかし私からすれば空が「葱緑」ということはあり得ない。それこそそれは「浅葱」故に
   鳥がいっぴき浅葱の天をわたって行く
としたくなる。
 だから、賢治は「浅葱」と「葱緑」の使い方がが全く逆であるという違和感を私は抱いていた。やはり賢治って私のような凡人とは色彩感覚がかなり違うんだなと。
 ただし、残念ながら「基督教徒だといふあの女の/サラーに属する女たちの」の部分までは気付いていなかった。

賢治の猜疑心と自信のなさと
吉田 僕も全く知らなかったな、露が関係するこんな詩があるなんて。しかも、「基督教徒だといふあの女」の考えが「信仰と奸詐との/ふしぎな複合体とも見え」るというようなことは、賢治が「あの女」に対して“奸詐”というきつい言葉を使うなどということはゆめゆめ思ってもいなかった。
 ところでこの“サラーに属する女たち”とはどんな意味だった? 荒木。
荒木 それはさ、同巻の下書稿のところを見てみると
・下書稿(二)においては、“俸給生活者”に対して“サラー”と賢治はフリガナを付けているから
   「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち
ということになるのだろう。また、
 ・下書稿(四)においては
   [あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]に書き換え。
となっていることがわかる。まさしく“あの女”とはクリスチャンで俸給生活差者、高瀬露その人だと俺は理解したのだ。だって、賢治周辺の女性でこれに当てはまる人は他にいないべ。
鈴木 たしかにそれは言える。しかしなあ、この詩の中の“”は高瀬露、そしてこの時期賢治はその露に対して“奸詐”という辛辣な言葉を投げつけていたということになるのか。これはちょっと驚きだ。
 しかし変だぞ、この詩を賢治が詠んだのは昭和2年の4月だよな…
吉田 うん、そこなんだよ。時系列に従って並べてみれば、
  〔うすく濁った浅葱の水が〕 :昭和2年4月18日 基督教徒だといふあの女の/サラーに属する女たちの
  「マツ赤ナリンゴモ」の端書:  同 年6月9日 先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。
  「ダリヤ品評会席上」    :  同 年8月16日 クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて
という流れだよな。
 賢治って、この「マツ赤ナリンゴモ」の端書が書かれた6月頃あたりから露のことを拒否し始めたと言われているようだが、実はもう既にその約2ヶ月前の4月の時点で“奸詐”というきつい言葉を露に対して使っていたことになる。
鈴木 また逆に、そのような6月以降にわざわざ詩の中に露のことを“クリスチャンT氏”と詠み込んでいる。それも、“農学校長N氏”の前に置いているから、この時は露のことをそれほどないがしろにしているようには思えない。
荒木 初めの頃は何のわだかまりもなく賢治は露は親しく交際していたものの、どうやら賢治は途中から露に対しての猜疑心というか疑心暗鬼が生じるようになっていたということがこの時系列から推察される。
 結局、賢治はいろいろと露に世話になっていたものの、自分に自信が持てなかった故に心の底から露のことを信頼することはできなかったのかもしれないな。

賢治は露のことをかなり気にし続けていた
吉田 こうしてみると、賢治の露に対する想いは揺り戻しがあった、あるいはまた、揺れを繰り返していたという可能性が下根子桜時代にはある。
荒木 それとも、露は昭和二年の夏からは下根子桜を訪れるのは遠慮したということだから、一度は露を拒否してみたものの、実は賢治は露に対してかなり未練があったということかもしれんぞ。この「時系列」を眺めてみればそんな感じもする。
鈴木 所詮これらはあくまでも詩、そこにはフィクションもありなのだから賢治と露の関係にそっくりそのまま還元はできないないのではあろうが、さりながらなんか暗示的だな。
吉田 そうなんだよな、賢治の晩年の「文語詩」、それも妹のクニに対して『なっても駄目でも、これがあるもや』と語ったという「文語詩」の中には恋や女性を詠み込んだ詩も多いが、それでもその中には僕の知る限りでは女性の名を特定できるものは全くないと思う。
 ところが、この下根子桜時代に詠まれた2つの詩〔うすく濁った浅葱の水が〕「ダリヤ品評会席上」の場合は明らかにそれが高瀬露であることが特定できる。たぶん賢治の詩の中で、賢治の相手として噂されている女性の中でそれが誰であるかを特定できる唯一の、2つだから唯一のは変か、まあそんな作品ではなかろうか。
荒木 だから、なんだかんだ言われているが俺はますますそう思うようになってきた。賢治は高瀬露が実は好きだったし、しかも嫌われたくないと思っていたことが少なくともある一定期間あったのだと。賢治は露のことをかなり気にし続けていたに違いないと。
鈴木 あのような「詐病」をしたりして賢治は露のことを拒絶したようだが、たしかに賢治はその後も露のことが気掛かりだったと言えそうだな。もちろんだからといってその後の賢治が奇矯だ等と言うつもりはなく、かえって親近感が湧いてくるのでまさしく《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということになるのだが、そろそろこれで「奇矯な賢治」については終わりにして次へ行こう。
吉田 そうだよな。今回の件は端的に言えば“父政次郎の厳しい叱責が全てを物語っている”ということができて、
 羅須地人協会時代の高瀬露が<悪女>にされる理由など全くなく、悪いのはすべて我が息子賢治にある。
という父政次郎の見方と判断に尽きる、ということになりそうだ。
荒木 では、<仮説:高瀬露は聖女だった>は羅須地人協会時代の場合おいても検証に耐えることができたということでまたまた一安心できた。ならば、次は羅須地人協会撤退後の検証に移るべ。

 
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