みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ(第四章)

2014-03-19 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『<聖女>高瀬露』の改訂版である
賢治と結びつけられることを拒絶するちゑ
 では今度は昭和6年についてである。
検討すべき残りの資料は何か
鈴木 まず後はどんな資料が残っているを一度確認しておきたい。
 以前、
 賢治が下根子桜から撤退した後において問題となるのが、次の
   (3) (4) (5) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (25) (27) (28) (29) (30) (31)
ということになろうが、これらにつては後程改めて皆でまた考察せねばならないと思う。
と述べたものだったが、これらの中の
     (3) (4) (15) (25) (29) 
についてはその後考察が済んだ。なおかつ(19)及び(21)は「昭和6年7月7日の日記」からの「抄」だからこの2つについても実質検討は済んでいる。
 したがって、現時点で私が知っている露関連の資料等の中で検討せねばならないと思っているリストはその残りで、以下のとおりだ。
( 5) 〔聖女のさましてちかづけるもの〕(昭和6年10月24日)
(16) 『宮沢賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年8月)
(17) 『四次元44』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)<佐藤勝治「賢治二題」>
(20) 『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社、昭和42年)
(27) 『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年3月)
(28) 『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社、昭和53年12月)
(30) 『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年10月)
(31) 『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社、平成元年9月)
これらのうち、最後のものを除いては皆昭和6年10月24日付の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕に関連している資料ばかりだ。
荒木 じゃあ、いよいよ「昭和6年」に入るべ。

〔聖女のさましてちかづけるもの〕
吉田 それでは、「昭和6年」については〔聖女のさましてちかづけるもの〕に尽きることになりそうだがいよいよ始めるとするか。
荒木 そもそも、その〔聖女のさまして云々〕とはどんな詩なんだ?
吉田 それは、例の『雨ニモマケズ手帳』の中に書かれた、昭和6年10月24日付の次のような詩だ。
  10.24 ◎
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
   わがとり来しは
   たゞひとすじのみちなれや

             <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)36p~より>
そして、この「聖女のさま」した人物とは「現通説」では高瀬露ということになっている。
鈴木 ちなみに、この詩その手帳にどのように書かれているかというと、このようになっていて、
【「雨ニモマケズ手帳」29p~30p】

【「雨ニモマケズ手帳」31p~32p】

           <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
これを文字に実際起こしてみると次のようになる。
10.24◎
   聖女のさまして
       われにちかづき
           づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に
        釘うつとも

   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
              れる
   いま名の故
             足を
               もて

   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
            なれや

           <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>

全く逆であった可能性も
荒木 それにしても、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺えるね。
吉田 内容的には、相手に対しては「悪念」というきつい用語を用いようとしたり、その人を「乞ひて弟子」となったと見下ろしたり、「足をもて/われに土をば送るとも」というようにどうも被害妄想的なところがあったり、一方自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いているところもあったりのこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕から浮き彫りになってくる賢治は、女性から言い寄られた男のそれではなくて、かえってつれなくされて虚勢を張っている男ともとられかねない。
鈴木 それから、「あゝみそなはせ」とあることからは、賢治としてはこの相手の女性のことをそれまではかなり評価してきたということが言えそうだ。
荒木 そうか、そのような女性に対してまさか「悪念」などという言葉を使おうとしたとはな…それも詩においてだぞ。今、電子辞書で引いてみたならば
 悪念:悪事を心にたくらんでいること。他人に恨みを抱くこと。悪心。
              <『広辞苑』より>
とある。ちょっとショックだ、今まで抱いてきた賢治のイメージからはほど遠い詩だ。この詩を詠む前に賢治には余程のことがあっんだろうな…劇的な何らかの出来事が。
吉田 それにしても、下根子桜時代のおそらく昭和2年の夏頃から、
   しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』359pより>
ということのようだが、それから約4年以上も時が経ってからもこのような、佐藤勝治の表現を借りるならば
 彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。これがわれわれに奇異な感を与えるのである。
              <『四次元44』(宮沢賢治友の会)10pより>
と言うような詩を詠む賢治の心理は僕にはわからん。いくら何でもこれだけの長期間怨念を持ち続けることは普通の人はしないだろう。
鈴木 「現通説」ではこの「聖女のさま」した人物は高瀬露だが、もしそうだとするならば露を拒絶し出した時から、いま吉田が言ったように約4年後でもこれほどの「憤怒」を込めた〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠むなどということはとても私にも考えられないことで、さっき荒木が言ったように、おそらくその間に賢治は予想もしていなかったような劇的な出来事に遭遇していたと考えた方がいいのではなかろうか、と私も思い始めている。
荒木 あるいは、俺は賢治が大好きだから賢治がどうのこうのとは言いたくないが、さっき吉田がさりげなく『つれなくされて虚勢を張っている男ともとられかねない』と言ったが、一般的に言えば実は振られた男の恨み節のそれと考えることの方が遙かに理にかなっていると指摘されるかもしれんな。
吉田 実は案外、二人の関係は巷間伝わっているような立場とは全く逆であったという可能性もまたある。
鈴木 立場が全く逆であったという可能性か…流石にそれはないだろうと思っていたが、いままで賢治のことを少しく調べてきてみてつくづく思い知らされたことは、巷間流布している通説とその真実とは全く逆だったということがいくつかあったからな。まして学問のスタートは疑うことから始まるともいうからここは先入観を棄ててみるか。
荒木 先入観を棄てるというならば、そもそも本当にこの「聖女」とは露なのかということも含めてな。この詩からは、それが露だということは簡単には言い切れないのではないべが…。
吉田 関連して、今あることを思い付いた詩がある。
鈴木 なんだそれは?

〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕より
吉田 それは、「文語詩未定稿」の中の詩〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕だ。
 ちなみにその中身はこうだ。
そう言って吉田は本棚から『校本全集第五巻』を抜き出してきて、次の詩を荒木に見せた。
   最も親しき友らにさへこれを秘して
   ふたゝびひとりわがあえぎ悩めるに
   不純の想を包みて病を問ふと名をかりて
   あるべきならぬなが夢の
     (まことにあらぬ夢なれや
      われに属する財はなく
      わが身は病と戦ひつ
      辛く業をばなしけるを)
   あらゆる詐術の成らざりしより
   我を呪ひて殺さんとするか
   然らば記せよ
   女と思ひて今日までは許しても来つれ
   今や生くるも死するも
   なんぢが曲意非礼を忘れじ
   もしなほなれに
   一分反省の心あらば
   ふたゝびわが名を人に言はず
   たゞひたすらにかの大曼荼羅のおん前にして
   この野の福祉を祈りつゝ
   なべてこの野にたつきせん
   名なきをみなのあらんごと
   こゝろすなほに生きよかし
              <『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)226p~より>
荒木 へえ~これって、さっきの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕の雰囲気とよく似た雰囲気の詩だな。

二つの詩の比較
吉田 やはりそう思うだろう。まして、この「校異」を見てみると、ほらここにはこう書いてある。
   体温朝より三十八度なれども
   絶対の安静を要するにより
   藤原にさへこれを秘して
   わがあえぎ悩めるに
   汝ふたゝび不純の想を
   包みて病を問ふと来り
   訪ふはあるべきならぬなが夢のねがひ
   然らば記せよ
   女と思ひて今日まで許しても来つれ
   今や生くるも死するも
   なんじが曲意非礼を忘れじ
    …(略)…
              <『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)818p~より>
荒木 そっか、「最も親しき友ら」とは藤原嘉藤治のことだったのか。
吉田 そう。そして、この中の「汝ふたゝび不純の想を/包みて病を問ふと来り」という表現がもし事実に即したものであるとするならば、この時ある女性は病気見舞ということで賢治の許を実際訪ねて来たことになる。
鈴木 ということは、これらの二つの詩が同一のモチーフを詠んだものであれば、昭和6年にこの女性は実際に賢治のところに見舞に来ていた可能性が大となるというわけか。
荒木 それじゃ先ずはちょっと分析してみっぺ。これらの二つの詩を較べてみるとどう対応するか。ちょっと待てよ……
聖女のさましてちかづける ⇔ 不純の想を/包みて病を問ふと来り
たくらみすべてならずとて ⇔ あらゆる詐術の成らざりしより
いまわが像に釘うつとも  ⇔ 我を…殺さんとするか
あゝみそなはせ       ⇔ なんぢが曲意非礼を忘れじ
われに土をば送るとも   ⇔ 我を呪ひて…
たゞひとすじのみちなれや ⇔ こゝろすなほに生きよかし
ざっと見ただけでもこれだけの対応ができるんじゃないかな。その可能性はありだな。
鈴木 しかも、今『宮沢賢治必携』を見てみたのだが、それによれば、
 文語詩制作開始は昭和4年12月頃で、昭和5年8月以降のある時、明確な目的意識のもとに文語詩制作へ向かったと推定できる。
              <『宮沢賢治必携』(佐藤泰正・編、學燈社)83pより>
とあるから、昭和6年10月24日付の〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
吉田 なっ、だからこの二つの詩は、昭和6年の病臥中の賢治の許にわざわざ見舞に来た同一の女性に対して、あろうことか「訪ふはあるべきならぬなが夢のねがひ」とさえ言い放って、その女性に対して憎しみと苛立ちをぶっつけた詩である可能性がすこぶる高い。
鈴木 待て待て、この前後といえば、私たちの結論に基づいて時系列で並べれば
昭和6年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
 同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話
 同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく
 同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの
  推定同時期  :〔最も親しき友らにさへこれを秘して
  推定同時期  :賢治をある女性が見舞っていた。
 同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ
ということになる。
 いままでは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうなってくると何かが少しずつ見え出してきたような気がする。さっき荒木と吉田がそれぞれ、
   一般的に言えば実は振られた男の恨み節のそれ
とか、
 実は案外、二人の関係は巷間伝わっているような立場とは全く逆であったという可能性があるな。
と言ったことが私にも少しわかりかけてきたぞ。
吉田 これにはさ、さらに伏線があると思うんだな…。
荒木 それはまたどんなだ。

賢治自身のある証言(賢治とちゑの結婚話)
吉田 それはさ、鈴木がいくつかの出来事などを時系列に従ってさっき並べているのを見ていて、あのことが伏線になっているのではなかろうかと思い付いたのだ。
荒木 なんだその「あのこと」とは?
吉田 それは、昭和6年7月7日、賢治に会ったMが賢治から聞いたことを書き記していた自分の日記から書き写したものだという、次のやりとりに関わってだ。
…その日の日記を書きうつそう。 
昭和六年七月七日。
 …(略)…あるきながら、
実は結婚問題がまた起きましてね。」
という。
病氣になるまえ、大島にいつたことがありましたが、その大島で肺を病む兄を看病して居る二十七歳になる女の人です。」<*1>
という。
「どういふ生活をして來た人ですか。」
と私がきく。
女学校を出て、幼稚園の保母か何かやつて居たということです。(ママ)
「それで意志がおありになるのですね。」
と私がいふ。
遺産が一万円とか何千円とか持つているといふことなのでしてね、いくらおちぶれても、金がそんなにあつては――。」
と宮沢さんはいつた。
ずっと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。」
 私はそれは貞女というものですという。
自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね
 そういうので、どうしてですかときくと、
いつ亡びるか解らない私ですし、その女の人にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないでしょう
と答えた。
               <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)105p~より>
 あの昭和3年6月の伊豆大島行から約3年を経て再び持ち上がった賢治と伊藤ちゑの結婚について、賢治自身の口からMが聞いたということをこう証言しているということになる。「あのこと」とは再び起こったこの結婚問題のことだ。
荒木 たしかに、賢治がちゑに好意を抱いていたことは長編詩「三原三部」から窺えるし、賢治が伊豆大島行を終えて帰花して後に藤原嘉藤治を前にして、
 あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな。<*2>
                 <『新女苑』八月号 実業之日本社 昭和16・8>
と述懐していたということを鈴木が前に教えてくれたことがあったから、賢治自身はちゑとなら結婚してもいいと思い続けていたかもしれんな。
吉田 この賢治とMとのやりとりからは、賢治はちゑとの結婚についてはまんざらでもなさそうだしな。
荒木 そう言えば以前、〔うすく濁った浅葱の水が〕について考察した際に、
   露に対しての猜疑心というか疑心暗鬼が生じるようになっていた。
というようなことをたしか俺は言ったはずで、いわばあの当時の賢治は女性に対する不信感が募っていたと思っていた。
 ところが昭和6年7月頃の賢治の女性観は、あの当時のそれとは打って変わってしまったということだべが。それとも、露とちゑという人物の違いによる対応の違いなのだべが。

様変わりしてしまった賢治
鈴木 そこなんだよな、それは女性観の変化だけでもなく、人物の違いだけでもなくて、昭和6年当時の賢治は他の面でも全く様変わりしてしまっていたということがこの同書に引き続いて綴られていて、それを初めて読んだ時私は驚天動地だった。ちなみにそれは次のように記述されていて、
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
あなたは清濁をあわせのむ人だからお目にかけましょう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だった。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …(略)…そして次のようにいつた。
ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になって、伏字にしなければならなくなりますね
 こんな風にいつてから、またつづけた。
禁欲は、けつきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地がひつくりかえると同じことぢやないか。
何か大きないいことがあるという、功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういってから、しばらくして又いった。
昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな偽善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に呆れる。
草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしょうね。」
と私は答えた。
いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう
              <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)107p~より>
と述べられているんだ。
荒木 じゃじゃじゃ、こりゃたまげだな。
鈴木 でも実は一番驚いていたのは賢治自身だったかもしれない。この後で賢治はMに対して
 石川善助が何か雑誌のようなものを出すというので、童話を註文してよこし、それに送ったそうである。その三四冊の春本や商賣のこと、この性の話などをさして、
私も随分かわつたでしょう、変節したでしょう――。」
という。
              <『宮沢賢治と三人の女性』(M著、人文書房)109p~より>
ということだからだ。
吉田 なお、「春本」についてはこの時のみならず、この後の昭和6年9月の上京時にも携えて行っていて、菊池武雄にはそれをプレゼントしている。
荒木 そうだったんだ、その当時の賢治は。まあ…まさしく《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということだとすれば歓迎すべきことなのかもしれんけどな。
鈴木 それにしてもな、『功利的な考へからやつたのですが』はな……たしかに賢治は様変わりしてしまった。
吉田 いや違う。僕に言わせれば、『何とそういう考え方でそれまでやっていたというのか!』ということだな。
 まあでもそれが賢治の生き方だったのだから、僕がとやかく言える筋合いのものではないけどな。また持ち上がったちゑとの結婚話に対して賢治が乗り気になったことに対しても。

ちゑ自身はどう思っていたか
鈴木 ただし問題は、ちゑの方が一体どう思っていたか、と吉田は言いたいんだろ。
吉田 そうなんだ。「「三原三部」の人」を通読してみれば、ちゑ自身は全くそうは思っていなかったことがそれこそ判然としている。
 たとえば次の、ちゑがMに宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)157pより>
から判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 さらにだ、Mがちゑのことを書いて載せた短歌雑誌『六甲』をちゑに送ったことに関連して同書簡では、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻<*3>の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口では申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)158pより>
と、「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑはMに迫っている。
鈴木 ちょっと待てちょっと待て、ちなみに今調べてみたのだが、『宮澤賢治と三人の女性』の114pにはM自身が 
   全集六巻の解説中に簡単に触れておきました。
と言及しているものの、私が所有している十字屋書店版『宮澤賢治全集 六巻』には、それは昭和27年発行第3版だが、そこにはMの「解説」が所収されておらず、あるのは『同 別巻』の中にある。
 それからえ~とえ~と、『修羅はよみがえった』を見てみると
 第六回配本の「雜篇、別巻」の年表・書翰等は新たに編集することを要したし
              <『修羅はよみがえった』(宮沢賢治記念会、ブッキング)158pより>
と述べられていることから、ここでMが言っている「全集六巻の解説」とはおそらく間違いなくこの『同 別巻』所収の
    「全集第六巻並に別巻解説」
のことであろうと判断できる。

ちゑはきっぱりと拒絶していた
吉田 どこどこ、済まんが鈴木ちょっとそれを見せてくれないか。
 あっ、やっぱり。ほらこの「解説」の中にはちゑに関する次ような記述がある。
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文で良く書きつくせるところではありませんから後日に譲ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
とある。
荒木 つまり、いま吉田が読み上げた部分に相当する原稿を
   抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とちゑは懇願し、
   さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。
とMに具体的な行動をとるように強く迫ったということか。
吉田 そしておそらく、それが為されないであろうと見通してちゑは、再度Mに同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)164pより>
とMの行為をはっきりと断罪しているわけだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑはやってたのか…完全なる拒絶だな。よっぽど結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることを伊藤ちゑきっぱりと断っていたのさ。

関係者の証言も裏付けている
鈴木 考えてみれば、ちゑの実家は大金持ちだからおそらくお嬢さん育ちだし、ちゑは当時の言葉で言えば「モダンガール」、翔んでる女性の一人であったとも仄聞している。一方の賢治はその頃は定職も持たない当時の言葉で言えばそれこそ「高等遊民」だった。
吉田 しかも、同書に載っているのだが、ちゑがMに宛てた手紙の中で
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(M著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、「伊豆大島行」に関わる見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてやむを得ず、しぶしぶした見合いであるということがわかる。ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 それゆえにこれだけ頑なにちゑは拒絶したのかもしれんし、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。にもかかわらず、Mはそれを無理矢理に結びつけようとした。
鈴木 さっき吉田も指摘したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私×××コ詩人とお見合いしたのよ』<*4>という発言をちゑ自身が知り合いに対してしていたということを、私は複数の人から聞いている。そして複数の人がこのことを私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間ではよく知られていることでもあろう。
 また私自身も、「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」を裏付ける証言を直接関係者から聞いてる。
 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時のM宛の書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡でもちゑは同様なことを次のように
 又、御願ひで御座います この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と書き記している。
吉田 ちなみに、ちゑが言うところのその「御本の後に御附けになりました年表」を見てみると
 昭和三年 三十三歳(二五八八)
  六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄の病を療養看護中の伊藤チヱを訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
              <『宮澤賢治全集 別巻』(宮澤賢治著、十字屋書店、昭和27年第3版)より>
となっていて、ちゑの言うとおりの内容になっている。

ちゑも露と同じく被害者
荒木 なるほどな。さすれば、Mに対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだから伊藤ちゑの本心はもはや明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の年表であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも
 今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
と哀願しているわけだから、伊藤ちゑが賢治と結びつけられることをどのように思っていたかは言わずもがなだ。
吉田 まさしく、ブログ“「猫の事務所」調査書”の管理人 tsumekusa 氏が
Mは結局そんな伊藤チヱの願いを無視してしまいました。
そして他の賢治研究家たちもMの著書から
伊藤チヱの願いを見ているであろうにもかかわらず同じくそれを無視してしまいました。
伊藤チヱの気持ちを踏みにじってしまったのです。
高瀬露が多くを語らないからと好き勝手に書くのも悪質ですが、
伊藤チヱがこうやって一生懸命に訴えているにもかかわらず
それを無視して書いてしまうのもまた悪質です。

願いは聞き入れられず気持ちは届かず、
自分のことを大々的にそして過剰に美化されて伝えられてしまった
伊藤チヱの心の傷は如何ばかりだったでしょうか。
良く書かれたか悪く書かれたかの違いはあれど、
伊藤チヱも高瀬露と同じ被害者なのではないかと考えています。
と主張するとおりだと僕も思う。
鈴木 なお伊藤ちゑは、先ほどの嘉藤治宛書簡の最後に次のような歌
 彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
 大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ
を詠んでいるし、ちゑは同書簡中に
 幾年か前六郎兄と歩いた大和地方の秋の事を思ひ出して居ります
としたためているから、この歌についてはその時の事を詠った歌であろう。行ったのは六郎ということだから、おそらく七雄が亡くなってからの旅だったのだろう。
荒木 あれだけMに哀願し、懇願したのにそれが叶わなかったちゑの心情を察すれば、この歌はかえって切なくなるな…。おそらく「彼岸花」に兄七雄のことを託して詠ったに違いない。
 ところで、前に吉田が言っていた「伏線」はこれらとどう繋がるのだ?
***********************************************************************************
<*1:投稿者註> 「病氣になるまえ、大島にいつたことがありましたが、その大島で肺を病む兄を看病して居る二十七歳になる女の人です。」の部分は、『宮沢賢治の肖像』に所収されている「宮沢賢治と三人の女性」の場合には削除されている。
<*2:投稿者註> 藤原嘉藤治は『新女苑』において、昭和3年6月の伊豆大島行から戻ってきた賢治に関して、
 大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
と述べている。
<*3:投稿者註> この「六巻」の部分は、『宮沢賢治の肖像』では
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六甲の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
となっていて、「六巻」→「六甲」と書き変えられている。
<*4:投稿者註> 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。

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