《創られた賢治から愛すべき賢治に》
出京の遅れさて、7月1日と2日にわたって行われたあの熱心な搗粉販売営業活動後の、東北砕石工場花巻出張所所長としての賢治の営業活動はどのようなものであったであろうか。
以前つくった「東北砕石工場技師時代の賢治の動向」一覧の後半部分を一度確認してみると、
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より拾い上げた>
となっている。この表によれば、8月12日には
壁材料等出来。上京して宣伝予定。
とあるし、実際8月13日付東藏宛書簡〔378〕にも
標本は昨日迄に全部仕上り居候間今明日中旅費算段つき次第出京
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)368p~より>と書き記されている。
ところがどういうわけか、賢治が出京したのはそれから一ヶ月余も経った9月19日だ。先にも述べたように賢治は上京を急いでいたはずだったのに、この一覧表を見る限りにおいては賢治は病臥したわけでもないし、営業活動のために外へ出かけた形跡も殆どなかったようだからそれほど多忙だったわけでもなさそうだ。ならばなぜ賢治は直ぐ上京しなかったのだろうか?
あっ!そうかありかもな、私は突然思い出したことがあった、この昭和6年8月13日といえばあの人「I.N.」が亡くなった日だということを。このことが賢治の上京が遅れた最大の理由であった可能性があるということを私は突如思いついた。なおこのことに関連しては後述する。
それにしても、賢治は「東北砕石工場技師時代」は猛烈セールスマンであったなどとよく言われているが、この時期の一覧表の空白の多さを眺めていると、賢治の営業活動にはそれほどの猛烈さが感じられない。そう思っていたのだが、この上京である人に逢えると思って首を長くして待っていたのに、その「I.N.」が亡くなったせいでそのある人にしばし逢えなくなったので賢治は仕事が手につかなかったのかもしない、そう考えたならば説明がつくと私は感じた。
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