みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

4078 種山高原(水辺の広場)

2014-07-13 08:00:00 | 北上・江刺周辺
 では今回は「水辺の広場」周辺の花等を報告し、種山高原シリーズを終えたい。

《1 ヤブタビラコ》(平成26年7日8日撮影)

《2 》(平成26年7日8日撮影)

《3 ツルアジサイ》(平成26年7日8日撮影)

《4 ミゾホオズキ》(平成26年7日8日撮影)

《5 ヒメヘビイチゴ》(平成26年7日8日撮影)

《6 ミヤマタニタデ》(平成26年7日8日撮影)

《7 〃 》(平成26年7日8日撮影)

《8 ノアザミ》(平成26年7日8日撮影)

《9 エゾアジサイ》(平成26年7日8日撮影)

《10 エゾボウフウ》(平成26年7日8日撮影)

《11 〃 》(平成26年7日8日撮影)

《12 〃 (特徴:総苞片も小総苞片ともになし)》(平成26年7日8日撮影)

《13 〃 》(平成26年7日8日撮影)

《14 トチバニンジン》(平成26年7日8日撮影)

《15 〃 》(平成26年7日8日撮影)

《16 ルイヨウショウマ》(平成26年7日8日撮影)

《17 ヤグルマソウ(花見つからず)》(平成26年7日8日撮影)

《18 バイケイソウ》(平成26年7日8日撮影)

《19 ウド》(平成26年7日8日撮影)

《20 ヤマオダマキ》(平成26年7日8日撮影)

《21 オトギリソウ》(平成26年7日8日撮影)

《22 ウツボグサ》(平成26年7日8日撮影)

《23 ホタルブクロ》(平成26年7日8日撮影)

《24 ミゾホオズキ》(平成26年7日8日撮影)


 以上で、今回の種山高原シリーズを終える。

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4 コメント

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タデ喰う蟲は好き好き ( 辛文則)
2014-07-13 14:20:17
  鈴木守様
  暫し御無沙汰いたしやんした。
  で、〈ミヤマタニタデ〉を漢字表記すると〈深山谷蓼〉とでもなるんでしょうかしらん。と、今回のお喋りの題目は、〈境・きょう〉つまり「客体対象としての物的存在」についてではなく〈人・にん〉つまり「主格現象としての心的作用」の方ということになります。ありていに道言(い)うと、「眼の着処(つけどころ)や着方(つけかた)」つまりは〈感じ方〉や〈観じ方〉というテーマ。
   この種の問題は、客観的物象あお物証とする唯物的検証とは馴染みませんし、論証的言語表現との相性は宜しくない訳ですが、マクロレンズが捉えたミクロなる「花の姿としてのミヤマタニタデの鮮烈さ」なのでした。
   で、いきなり、話はすっ遁で、「三回目の賢治家出」という着眼。左様な着眼ほど、宮澤政次郎・清六父子にとって忌まわしい眼はなかったんでせうね。何しろ、「宮澤家の名の面子・沽券」に抵触する訳ですから。
   で、この〈面子・沽券・体裁・世間体〉という〈名の問題〉への考え方や感じ方との絡みで、「賢治とその周辺」を見遣ると、……。でそれとの対比として、「モナドとしての賢治の胸の裏(うち)や如何なる乎」、などと。まあ。「存在者としての賢治」と「現象としての賢治との何れを関心の対象にしたいのかということになるのでしょうね。で、小生の関心事は、……。
   尤も、この両つの問題を、「互いに相反し合い両存両立でけへん」と考えるか、「畢竟するに相補相依的にして一如なるべし」と観じるかという辺りに。
    またまた、禅哲学風の蒟蒻道取に陥ってしまい欠礼いたしました。
    まあ、〈探求の虫〉にも色々居るが宜しということで〈蟲〉という字に遊びました。「言葉だけの無私」や「主義に拘る無視」を厭うという姓癖の故に。
       2014,7,13   文遊理道樂遊民文則 記
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タデ故喰う虫の可能性 (辛様(鈴木))
2014-07-14 07:24:06
辛 文則 様
 お早うございます。 
 さて〈ミヤマタニタデ〉ですが、表記そのとおりだと思います。花が極めて小さくて約3㎜ほどです。だからほとんどの方は気付かないと思います。ところが、近づいてよく見てみるととてもめんこい花です。
 ところでタデ科ですが、その仲間のスイバやギシギシはたしかによく虫に喰われていることが多いと思います。他の植物は案外そうでもないのに、です。そこでこの頃思っていることは、タデだからこそ虫に好かれていて喰われるのではなかろうかということです。私たち人間から見ればほとんど見栄えのしないタデ科ですが、虫からすれば全く逆で、とりわけ魅惑的な植物かも知れませんね。
 なお、荒唐無稽だと嗤われそうな「三回目の賢治家出」ですが、これはあくまでも思考実験上の話です。とはいえ、政次郎はこの実験を赦してくれていると思っております。なぜならば、父政次郎は息子賢治に対していつも冷静で客観的な対応をしていたと私は思うからです。換言すれば、政次郎は実は家出ということもあり得ると思いつつ、昭和6年に出京する賢治を見送ることができた父親だったと私は確信しているからです。
 そもそも賢治が素晴らしい心象スケッチや童話を創作できたのは父政次郎あってこそだ、と私は思っています。父政次郎のことをけなす人も少なくありませんが、とんでもないことだと私は考えております。
                                                               鈴木 守
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噫乎愉快なる哉、蓼食う蟲の本性は。 (辛文則)
2014-07-14 13:41:48
   鈴木守様
  「タデ故喰う虫」という〈道取(言語ゲーム)〉、「噫乎愉快なる文則(レトリック)なるべし」なのでござりました。〈故〉が肝ですよね。世俗の常識が、「無用無価値なる蓼など喰らう虫は無視すべし」といった塩梅に固着していることへの、「辛辣にして痛烈、なるクリティーク、而も同時に、それが気付かれ難い」といった言語ゲームになっているところが。
  それが当に、小生が、新渡戸稲造や夏目漱石が多用している道取としての、「〈有難い〉ではなく〈難有い〉」をである道得を、「他人本位の人真似」を百も承知で多用している因縁、という次第なのでして。敢えて、「因縁をつける」というのなら、十不善戒に道う〈妄言・綺語・悪口・両舌〉の如き〈口の不善〉ではなく、「好き因縁性起(いんねんしょうき=縁起)」として、その道を樂しむことができる方が面白い、と。「何故に楽しく面白いのか?」と問うならば、「深く考えも苦労もせずワカッタ気にナレル」からなのではなく、「定説や通説に対けて自ら疑問を懐き見直し考え直し新たな仮を作成しその説得性を吟味する難有い道程こそが愉快なのだ!」、と。〈クリエイティビティ〉とまでは言わないにしても、好奇心・探究心・開拓心・自己創出力・自己組織力などを一大事と作す個性的感受性、ということで。そういう四室資質の持ち主が嫌うのは、言わずと知れた権威主義。つまり、権威や権力への無批判な追従服従性が形成する附和雷同的群性。不埒な老荘哲学より穏便な孔孟思想でさえ、「莫附和雷同、和而不同、和而不流。」、と為すのは如何なるか、と。
  稲造も漱石も、「小和・小等・小志ならぬ大和・大等・大志とは如何?」と考え過ぎて、神経衰弱や霊魂病に罹ってしまった個人なのでしょうが、十九歳の機、「俺はどうしよもない脳病者だ!」と嘆き短歌に表現しちた賢治はどうだったんでしょう。
  〈大志〉という語が、〈ビッグデザイア〉や〈グレートウィル〉あるいは〈グランドホープ〉の訳語ではなく、「ビーアムビシャス.」や〈アムビション〉の訳語だとくのは如何。〈アムビ〉という接頭語の意は、〈双面的〉とか両極的〉の意なのですが、…。ところで、「帝国主義的大国化への様変わり」は衆生百姓にとっては〈大望・野望〉に違いありませんし、「超大国からの戦勝を得る」も同然なのでしょうが、稲造と漱石の世界観や価値観から見ると必ずしもそうではないように。送籍者漱石のそんな耳目が端的に現れているのが『吾輩は猫である』であり『草枕』なのだ、と小生には観じられるのですが、賢治の宙宇観や価値観から観た〈大志〉なるや如何、と。田中智学、石原莞爾、北一輝、甘粕正彦、板垣征四郎、東條英機の如きにとっては〈見直し〉の要はないでしょうが、米内光政、鈴木卓苗、野村胡堂、平井直衛、金田一他人、春日重い泰、太田達人などごとの如きにとっては如何、と。で、阿修羅賢治にとっては? で、もうひと声。「宮澤政次郎と宮澤清六にとっては如何?「」、と。実は、この疑問は、「1945年8月15日の天皇の声。」を如何に聞いたのか、という懐疑に直結するようにおもえるんですがいかがなんでしょう。
   で、この問題、〈過去の問題〈〉などではなく、〈現代の問題〉であり〈将来の問題〉であり、詩化も同時に而も、〈二千五百年前の問題〉でさえあったようにさえ、…。〈ホモという生きもの〉が、〈概念言語〉を獲得し、〈文化(カルチャー)〉を、そして〈文明(詩ヴィラりゼーション)〉というナニゴトカを獲得してしまったが故の〈アンビギュアスな難題〉として、永遠に。
   因みに、『荘子・天下篇』に、「物事〉の分別差別の指標」として〈小同異〉と〈大同異〉という二項分別概念が提示されていて、せつめ解説書の多くは、「種的レべルでの分別と類的レベルでの分別との別異性のことなのだ」などとシッタブッタことを書いていたのですが、ヘソマガリのヘンクツののモノの小生には腑に落ちないのでありました。種〉〈科〉〈属〉〈類〉〈門〉などと弁別し階層を上げて行くんとどうなるの、とか?「さて、〈門〉を出てからどうすればいいのかしらん?」、と。
   で、作呑理(サドンリー)、話かわって。
 ・〔聖女のさましてちかづけるもの〕の「聖女」とはちゑである可能性が高い。
  という大問題テーゼですが、この着眼は、「高瀬露はホントに悪女だったのか?」という検証過程で生起してきたのですか? それとも、実は、この問題設定こそが先行していたんですか?
   小生の猜疑心は、後者の方に傾いてしまうのですが如何でしょうか。通説・定説へのイチャモンとしては、こちらの方がインパクトがあるように感じられますし、「人生の不幸の全てはコミュニケーション不全の所産なり」というレアリティの喜悲劇の……。阿修羅賢治的な難題ではなく。吾等のごとき〈百姓衆生(ひゃくせいしゅじょう)〉が日常茶飯事として経験している「噫乎カナシキ哉カンチガイ」、ということになってしまう訳で。
   と、まだまだ書いてみたいことはあるのですが、宮澤政次郎観と宮澤清六観については、今は不言不道を護りたいと思います。
        2014,7,14  文遊理道樂文則の道く
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露の教え子に会って参りました (辛様へ(鈴木))
2014-07-16 05:01:16
辛 文則 様
 今晩は。いつもありがとうございます。
 明日の朝は早く出かける予定ですので、私とすれば珍しくこんな時間帯ににコメントをしております。
 さて、まずちゑの可能性の件についてですが、私としましては露が悪女に貶められているという理不尽さだけが気掛かりなことの主たるものですので、あくまでも検証過程で生起したものです。問題設定が先行していたわけではありません。
 普通に考えて、昭和6年の10月頃になってもまだ賢治が露に対してこんな当て擦りをするほどに執念深いとは思えませんから、「聖女」は露以外の女性であり、たまたま知った10月29日付藤原嘉藤治宛書簡からそう推測しただけのものです。
 どうやら、ちゑは当時のいわゆる「翔んでる女性」であったということのようですから、ちゑが直接賢治に会ってどう受けとめたかは私からすればほぼ明らかだと思えてなりません。また当時、伊藤家側は賢治との結婚に皆反対していたということを、ちゑ自身も森荘已池宛書簡の中ではっきり述べておりますし、ちゑの血縁関係の一人から私も直接同じ内容の証言を得ています。したがって、ちゑは「聖女」とされておりますが、ちゑ自身はそれをとても嫌がっていたとしか私には思えません。
 ところで本日、露に3年生の時の担任(昭和15年に)をしてもらったという教え子に会った来ました。露先生が世上言われているようなそんな先生ではありませんととても憂いておられ、そのことを何とか世に知ってもらいたいと強く願っていて、そのための準備を着々と始めておられました。
 その後その方と一緒に露の墓に参りました。露の冥福を祈りながら、やはりやるべき事が私にはまだもう一つあるのだと、心に決めました。
                                                               鈴木 守
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