このところ、落合正勝さんが著す服に関する本を続けて読んでいる。『男の服装 お洒落の定番』の中にこんな記述があった。
服が本当に好きなら、ブランドなどどうでもよくなる。そこにスタイルとファッションの大きな相違がある。本当に好きで、好きだから自分だけのスタイルが成立するのと、他人の視線を意識するために何かに頼り、ファッションを完結させるという違いだ。(中略)スタイルの目的は、自分の視線によるその人らしさで、ファッションの目的は他人の視線を意識した流行の領域に属する。
ファッションとは流行を追いかけた一種の借り物でしかなく、スタイルとは自分らしさを表に現したものということなのだと理解した。だから、スタイルとは単に何を着るかのみに止まらず、その人の目指す生き様の現れということなのだろう。そして、こうとも言っている。
カジュアル・ウェアとカジュアル・フライデイは全くの別物である。前者は衣類という具象、後者は思想そのものだからだ。(中略)僕たちが常に考えなければならないのは、「服」ではなく「服装」で、服を身に着けたときの状態である。「服」は単なる具象としての服であり、人が服のなかに収まった「服装」の「装」は思想だと考えるべきなのだ。
その人が目指す生き様であるならば、確かにそれは思想の領域だ。服に「着られる」のではなく、どう「装う」かを志向した上で服を選ぶことで、服と人格が一体化した「スタイル」に昇華する。
そして、トドメとして氏はこう言っている。
「どう」着るかこそ、まさに服装の基本なのだ。(中略)「どう」着るか分からず、さらに「何を」着るべきなのかも分からず、挙句の果てにブランドに走る。それを着ていれば、本人にとって間違いなく楽だからだ。お洒落を目指す人にとって、これは一種の怠慢である。
服が本当に好きなら、ブランドなどどうでもよくなる。そこにスタイルとファッションの大きな相違がある。本当に好きで、好きだから自分だけのスタイルが成立するのと、他人の視線を意識するために何かに頼り、ファッションを完結させるという違いだ。(中略)スタイルの目的は、自分の視線によるその人らしさで、ファッションの目的は他人の視線を意識した流行の領域に属する。
ファッションとは流行を追いかけた一種の借り物でしかなく、スタイルとは自分らしさを表に現したものということなのだと理解した。だから、スタイルとは単に何を着るかのみに止まらず、その人の目指す生き様の現れということなのだろう。そして、こうとも言っている。
カジュアル・ウェアとカジュアル・フライデイは全くの別物である。前者は衣類という具象、後者は思想そのものだからだ。(中略)僕たちが常に考えなければならないのは、「服」ではなく「服装」で、服を身に着けたときの状態である。「服」は単なる具象としての服であり、人が服のなかに収まった「服装」の「装」は思想だと考えるべきなのだ。
その人が目指す生き様であるならば、確かにそれは思想の領域だ。服に「着られる」のではなく、どう「装う」かを志向した上で服を選ぶことで、服と人格が一体化した「スタイル」に昇華する。
そして、トドメとして氏はこう言っている。
「どう」着るかこそ、まさに服装の基本なのだ。(中略)「どう」着るか分からず、さらに「何を」着るべきなのかも分からず、挙句の果てにブランドに走る。それを着ていれば、本人にとって間違いなく楽だからだ。お洒落を目指す人にとって、これは一種の怠慢である。
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