「幸福への原点回帰」 鍵山秀三郎・塚越寛・著、文屋、2007年12月28日
p.52 周りに一人の理解者もいない中で掃除を始めたとき、私もその効果を期待しなかったわけではありません。ただ、結果を急がなかったということはあります。極端に言うなら、日本から発射したロケットが地球の反対側を飛んでいるハエに当たるかどうかの確率ほどの可能性でも信じ、急がずに掃除を続けてきた結果、今があります。
p.53 微差の積み重ねが、よくも悪くも、やがて絶対差となって表れるものです。
p.56 自社の経営へのプラス効果も考えて公的な場を掃除することを、「偽善だ」と評価することもできるでしょう。しかし私は「偽善であったとしても、善を行わないでいるよりは、世の中のお役に立っているのだから、偽善も結構」と割り切っています。
p.76 やめたいけれどやめられない人というのは、裏を返せば、目指す目標に到達するための努力を怠る人だと思います。「できるならやめたい」くらいではかないませんが、固い意志をもってそれを断行できれば、新しい道が開けるはずです。
p.86-7 深耕を続けていくうちに、まるで地下水の豊かな水脈に行き当たるかのように、さまざまな業界との接点が生まれ、不思議なことに用途もジワジワと広がっていきました。
p.87 儲からないからと、すぐにあきらめて別のものを探すのでなく、そこでふんばって深耕する。どこまで深く耕すことができるか、その知恵くらべこそが商売というものではないでしょうか。
p.103 会社の成長について、私が基準にしているのは、「人を幸せにしながら成長しているか。人を不幸にしながら膨張しているのか」ということです。言うまでもなく、前者が理想の姿、後者があってはならない姿です。
p.116-7 私利私欲が根底にある行為は、発端がどんなに小さなことであっても、そのマイナス作用が次なるマイナスを呼び、それらが積もり積もって大きな悪循環を引き起こすでしょう。
p.121 掃除は、直接の利益をもたらすものではありません。しかし、結果が保証されていないことを、どれだけ一生懸命にできるかが、いい会社をつくるために大事なことではないでしょうか。
p.123 極論すれば、会社経営とは「ファンづくり」だと言ってもよいのではないでしょうか。
p.132 価値のあること、価値観は、時代とともに変わるものです。経済指標や成長率ランキング、シェアランキングといった量や大きさを基準にした価値観を、そろそろ見直すべきではないでしょうか。ランキング争いに躍起になり、ヘトヘトになることに、どんな価値があるのでしょうか。
p.138 私もお金儲けを否定はしません。ただし、他人をだまし、迷惑をかけ、誰かの犠牲のうえに立ったお金儲けは間違っています。そのような行為は、「儲け」ではなく、「搾取」であり「詐取」でしょう。
人を使って自分のいいようにしようという発想や仕組みは、私腹を肥やすのと同じだ。正当な利益は理解が得られても、不当な評価や扱いをすること自体、自らの品格のなさを示しているかのようでもある。
p.140 消費者が安売りを望んでいるかというと、必ずしもそうではないと感じています。会社の経営姿勢をご理解くださるお客様は、値引きなどしなくても商品を買ってくださいます。
薬局がどのような姿勢でいるかわからないから、何のためにジェネリックを進めようとしているか理解できないから、ジェネリックの使用促進が進まないのではないだろうか。安くなるからといわれて、余計にウマい話には飛びつかないような行動になっているようにも見える。ジェネリックへの不安というよりも、薬局や薬剤師に対する不透明さが使用促進にマイナスに作用しているようにも思われる。
p.144 製造業は秒単位で動いていますし、自社内でコントロールができます。しかし、たとえばサービス業や運送業には、その性質上、どうしても遊びの時間が生じます。雇用者による搾取を防ぐために、最低限の基準を定めておくことは必要ですが、細部まで一律の法で縛ろうとすると、本来守られるべき労働者に、逆に負担を強いることにもなりかねません。
p.145 時間を省くことは、手間ひまを省くことです。手間ひまを省くことによって成長する人はいません。どんなに優れた能力に恵まれた人でも、手を尽くすことなしに人格的な成長を遂げることはできないでしょう。
p.147 経済というのは、人間の生活を支える一要素にすぎません。私たちは決して経済のために生きているわけではないのです。
p.151 本来、店を増やすのは、お客様に価値が認められ、求められて行うことではないでしょうか。
p.153 「業界で一番になろう」「日本一になろう」といった目標を果たしたところで、それが企業や社会に何をもたらすのでしょうか。それを誰が望み、誰が期待しているのでしょうか。
p.155 成果主義では、早く結果が手に入りさえすればよいわけです。人をだましても、ごまかしても、手を抜いてもかまいません。ですから、人々はだんだん手抜きをするようになりました。
慣れて、コツが掴めて、自ずと省力化できるのならまだしも、省力化が目的となって“やった形”を作るだけで、中身が成長しないのであれば、手抜きや見せかけになるだけだ。そういった背景にあるのは成果主義であり、それも「利益」という成果を求める考え方が強すぎるからだろう。
p.159-60 社員のモラルを高めるためにも、社会的に義憤を感じる熱血漢でなければいけません。
p.164 「人間の真の幸福は自由の中にではなく、義務の甘受の中にある」
ほんとうの幸福というのは、決して自由きままに生きることではありません。そこには幸せはないと思います。義務は甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。
p.174 鉄道や電話など、官営から民営に転換した組織がいくつかあります。そこで間違えてはいけないのは、民間企業になることと儲けを出すことは別問題だということです。
株式会社になろうと、公団になろうと、事業そのものの公共性はまったく変わりません。公共事業が民営化されることのいちばんの目的は、公共事業を民間の洗練された上質なサービスのレベルにまで高めることです。株価の上昇も、利益の増大も、本来の目的ではないと思います。
民間企業のほうが、顧客や社会のほうを向いて工夫もすれば努力もしているだろう、それを民営化する組織に生かすことで、公共性の質の向上を狙ったわけだ。それが、自分たちの優位性を使って独占的な利益確保につなげようとするから、自分たちの社会の中での存在を忘れてしまうから、おかしな出来事が発生してしまうのだろう。
p.179-80 知識というのは、いくらたくさん持っていても、自分で貯金を貯めこんでいるのと同じで、他の人は誰も使えません。しかし手足や体を使って得た知識は知恵となり、ふたたび実践に生かされて、人々の役に立つことができます。それにこそ、知識の価値が生まれるように思います。
p.224 どんなに物知りな人でも、自分が去った後の世を思うことがなければ、愚か者と呼ばれて当然だろう、ということです。浄土真宗の教えも、現世利益に終始するものではなく、将来を良くするために生かすべきと言われているのではないでしょうか。
p.278 鍵山さんが「益はなくとも意味がある」という考え方を尊重されるのも、自分が得をすることよりも、誰かのために役に立ちたいという公の意識の表れだと思います。
p.52 周りに一人の理解者もいない中で掃除を始めたとき、私もその効果を期待しなかったわけではありません。ただ、結果を急がなかったということはあります。極端に言うなら、日本から発射したロケットが地球の反対側を飛んでいるハエに当たるかどうかの確率ほどの可能性でも信じ、急がずに掃除を続けてきた結果、今があります。
p.53 微差の積み重ねが、よくも悪くも、やがて絶対差となって表れるものです。
p.56 自社の経営へのプラス効果も考えて公的な場を掃除することを、「偽善だ」と評価することもできるでしょう。しかし私は「偽善であったとしても、善を行わないでいるよりは、世の中のお役に立っているのだから、偽善も結構」と割り切っています。
p.76 やめたいけれどやめられない人というのは、裏を返せば、目指す目標に到達するための努力を怠る人だと思います。「できるならやめたい」くらいではかないませんが、固い意志をもってそれを断行できれば、新しい道が開けるはずです。
p.86-7 深耕を続けていくうちに、まるで地下水の豊かな水脈に行き当たるかのように、さまざまな業界との接点が生まれ、不思議なことに用途もジワジワと広がっていきました。
p.87 儲からないからと、すぐにあきらめて別のものを探すのでなく、そこでふんばって深耕する。どこまで深く耕すことができるか、その知恵くらべこそが商売というものではないでしょうか。
p.103 会社の成長について、私が基準にしているのは、「人を幸せにしながら成長しているか。人を不幸にしながら膨張しているのか」ということです。言うまでもなく、前者が理想の姿、後者があってはならない姿です。
p.116-7 私利私欲が根底にある行為は、発端がどんなに小さなことであっても、そのマイナス作用が次なるマイナスを呼び、それらが積もり積もって大きな悪循環を引き起こすでしょう。
p.121 掃除は、直接の利益をもたらすものではありません。しかし、結果が保証されていないことを、どれだけ一生懸命にできるかが、いい会社をつくるために大事なことではないでしょうか。
p.123 極論すれば、会社経営とは「ファンづくり」だと言ってもよいのではないでしょうか。
p.132 価値のあること、価値観は、時代とともに変わるものです。経済指標や成長率ランキング、シェアランキングといった量や大きさを基準にした価値観を、そろそろ見直すべきではないでしょうか。ランキング争いに躍起になり、ヘトヘトになることに、どんな価値があるのでしょうか。
p.138 私もお金儲けを否定はしません。ただし、他人をだまし、迷惑をかけ、誰かの犠牲のうえに立ったお金儲けは間違っています。そのような行為は、「儲け」ではなく、「搾取」であり「詐取」でしょう。
人を使って自分のいいようにしようという発想や仕組みは、私腹を肥やすのと同じだ。正当な利益は理解が得られても、不当な評価や扱いをすること自体、自らの品格のなさを示しているかのようでもある。
p.140 消費者が安売りを望んでいるかというと、必ずしもそうではないと感じています。会社の経営姿勢をご理解くださるお客様は、値引きなどしなくても商品を買ってくださいます。
薬局がどのような姿勢でいるかわからないから、何のためにジェネリックを進めようとしているか理解できないから、ジェネリックの使用促進が進まないのではないだろうか。安くなるからといわれて、余計にウマい話には飛びつかないような行動になっているようにも見える。ジェネリックへの不安というよりも、薬局や薬剤師に対する不透明さが使用促進にマイナスに作用しているようにも思われる。
p.144 製造業は秒単位で動いていますし、自社内でコントロールができます。しかし、たとえばサービス業や運送業には、その性質上、どうしても遊びの時間が生じます。雇用者による搾取を防ぐために、最低限の基準を定めておくことは必要ですが、細部まで一律の法で縛ろうとすると、本来守られるべき労働者に、逆に負担を強いることにもなりかねません。
p.145 時間を省くことは、手間ひまを省くことです。手間ひまを省くことによって成長する人はいません。どんなに優れた能力に恵まれた人でも、手を尽くすことなしに人格的な成長を遂げることはできないでしょう。
p.147 経済というのは、人間の生活を支える一要素にすぎません。私たちは決して経済のために生きているわけではないのです。
p.151 本来、店を増やすのは、お客様に価値が認められ、求められて行うことではないでしょうか。
p.153 「業界で一番になろう」「日本一になろう」といった目標を果たしたところで、それが企業や社会に何をもたらすのでしょうか。それを誰が望み、誰が期待しているのでしょうか。
p.155 成果主義では、早く結果が手に入りさえすればよいわけです。人をだましても、ごまかしても、手を抜いてもかまいません。ですから、人々はだんだん手抜きをするようになりました。
慣れて、コツが掴めて、自ずと省力化できるのならまだしも、省力化が目的となって“やった形”を作るだけで、中身が成長しないのであれば、手抜きや見せかけになるだけだ。そういった背景にあるのは成果主義であり、それも「利益」という成果を求める考え方が強すぎるからだろう。
p.159-60 社員のモラルを高めるためにも、社会的に義憤を感じる熱血漢でなければいけません。
p.164 「人間の真の幸福は自由の中にではなく、義務の甘受の中にある」
ほんとうの幸福というのは、決して自由きままに生きることではありません。そこには幸せはないと思います。義務は甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。
p.174 鉄道や電話など、官営から民営に転換した組織がいくつかあります。そこで間違えてはいけないのは、民間企業になることと儲けを出すことは別問題だということです。
株式会社になろうと、公団になろうと、事業そのものの公共性はまったく変わりません。公共事業が民営化されることのいちばんの目的は、公共事業を民間の洗練された上質なサービスのレベルにまで高めることです。株価の上昇も、利益の増大も、本来の目的ではないと思います。
民間企業のほうが、顧客や社会のほうを向いて工夫もすれば努力もしているだろう、それを民営化する組織に生かすことで、公共性の質の向上を狙ったわけだ。それが、自分たちの優位性を使って独占的な利益確保につなげようとするから、自分たちの社会の中での存在を忘れてしまうから、おかしな出来事が発生してしまうのだろう。
p.179-80 知識というのは、いくらたくさん持っていても、自分で貯金を貯めこんでいるのと同じで、他の人は誰も使えません。しかし手足や体を使って得た知識は知恵となり、ふたたび実践に生かされて、人々の役に立つことができます。それにこそ、知識の価値が生まれるように思います。
p.224 どんなに物知りな人でも、自分が去った後の世を思うことがなければ、愚か者と呼ばれて当然だろう、ということです。浄土真宗の教えも、現世利益に終始するものではなく、将来を良くするために生かすべきと言われているのではないでしょうか。
p.278 鍵山さんが「益はなくとも意味がある」という考え方を尊重されるのも、自分が得をすることよりも、誰かのために役に立ちたいという公の意識の表れだと思います。