昨日、第一回日本ジェネリック医薬品学会が笹川記念会館で催された。使用促進に向けて目を引く発表はなかったが、医師、薬剤師を中心とした積極的な説明が必要だと繰り返し述べられていた。
後発医薬品は、先発品とあらゆる面で同一ではないが、臨床使用上同等と考えてよいというレベルのコンセンサスを得るにはもう少し時間がかかるような気がした。医療従事者の中に、抵抗感を示す者がいるのだ。その最たるものが、昨年の日本医師会によるアンケートである。
後発品の承認条件は、生物学的同等性や溶出試験で十分品質が担保されているとされるが、承認条件とは少し離れた部分で違いを感じざるをえない側面がないだろうか。それは、OD錠や点眼液、湿布薬などでの使用性に関する部分だ。味、刺激性、粘着性といったものは、臨床効果の同等性を確保するという意味での品質上の承認条件とは、直接関係しない。しかし、臨床ではけっしてないがしろにできない部分である。気にするな、ガマンしろとは言えない。
そういった違いを感じさせる原因を残したまま、承認上同等性が確保されていることを繰り返し強調していても、使ってみれば違いを感じざるをえないのだから、ジェネリックに対する不信感や信頼性は改善されていかないように思われる。
かといって、それらまで承認条件で同等性を求めていれば、開発費に跳ね返ってくる。最大のメリットである価格差が得にくくなる。製薬メーカーも、そういった部分に、いい意味であれば違いを持たせ、差別化する余地があるとはいえ、気遣いを欠くと、結果としてジェネリック全体の信頼を損ねることになることに気づくべきではないかと思った。いや、気づいているメーカーもあるかもしれない。
承認条件部分さえ整えれば、残された部分は自由で、どうでもいいのではない。承認上求められていなくても、先発品と遜色ない状態を主体的かつ自主的に確保しておくことが大切ではないか。近いうちに「先発品とは違う」段階から「同等と考えてよい」段階へと信頼を得ないと、使用実態は遅々として進まないばかりか、使用促進を図ろうとしても、しばらくの間、両者の主張がかみ合わないままさらに時間を費やしてしまうのではないか、と思った。
使用感の違いは、飲んだり点眼したり、“味見”をしてみるわけにはいかない部分である。メーカーが主体的に改善する部分ではないだろうか
後発医薬品は、先発品とあらゆる面で同一ではないが、臨床使用上同等と考えてよいというレベルのコンセンサスを得るにはもう少し時間がかかるような気がした。医療従事者の中に、抵抗感を示す者がいるのだ。その最たるものが、昨年の日本医師会によるアンケートである。
後発品の承認条件は、生物学的同等性や溶出試験で十分品質が担保されているとされるが、承認条件とは少し離れた部分で違いを感じざるをえない側面がないだろうか。それは、OD錠や点眼液、湿布薬などでの使用性に関する部分だ。味、刺激性、粘着性といったものは、臨床効果の同等性を確保するという意味での品質上の承認条件とは、直接関係しない。しかし、臨床ではけっしてないがしろにできない部分である。気にするな、ガマンしろとは言えない。
そういった違いを感じさせる原因を残したまま、承認上同等性が確保されていることを繰り返し強調していても、使ってみれば違いを感じざるをえないのだから、ジェネリックに対する不信感や信頼性は改善されていかないように思われる。
かといって、それらまで承認条件で同等性を求めていれば、開発費に跳ね返ってくる。最大のメリットである価格差が得にくくなる。製薬メーカーも、そういった部分に、いい意味であれば違いを持たせ、差別化する余地があるとはいえ、気遣いを欠くと、結果としてジェネリック全体の信頼を損ねることになることに気づくべきではないかと思った。いや、気づいているメーカーもあるかもしれない。
承認条件部分さえ整えれば、残された部分は自由で、どうでもいいのではない。承認上求められていなくても、先発品と遜色ない状態を主体的かつ自主的に確保しておくことが大切ではないか。近いうちに「先発品とは違う」段階から「同等と考えてよい」段階へと信頼を得ないと、使用実態は遅々として進まないばかりか、使用促進を図ろうとしても、しばらくの間、両者の主張がかみ合わないままさらに時間を費やしてしまうのではないか、と思った。
使用感の違いは、飲んだり点眼したり、“味見”をしてみるわけにはいかない部分である。メーカーが主体的に改善する部分ではないだろうか