今日、百間川の河川敷内では見かけ無いが、昔から一帯には田畑が広
がっていて、その歴史は弥生時代まで遡り、当時から当地では稲作が行
われていたらしい。
流域一帯は、埋蔵文化財包蔵地に認定されていて、百間川遺跡と総称
される遺跡群では、過去には大規模な発掘調査も行われ、水田跡からは
稲株跡も見つかっている。
その昔、岡山の城が築城されるにあたり、近くを流れる旭川を、城を
巻くように蛇行させた。
その為それ以後は、城下で度度洪水の被害を受けるようになった。
江戸時代に入りその治水対策として、熊沢蕃山の「川除の法」を基に、
藩主の池田光政の命により、津田永忠が放水路を築造する事になった。
それが、旭川が増水した時に放流する為の川の掘削である。
その川幅が凡百間有った事から、川は「百間川」と名付けられた。
旭川に大荒手(越流堤)を設け、増水時はここから越流させるもので、
そこが百間川の源流となる。
更にその下流には、貯留効果と流れ込む土砂の沈殿を防ぐため、二つ
の荒手を設けた。この三段方式の放水路のお陰で、本流の約半分を分流
させることが出来るようになったと言われている。
とは言え、当時の技術では強固な堤防は築けなかった。
高さもなく、その後増えた道路や鉄道の陸閘(切り通し)部分等も有り、
近年に入っても流域地帯の水害は絶える事が無かった。
本格的な堤防の改修が行われるのは、明治以降のことである。
近年になると国交省により、凡半世紀もかけて堤防等の嵩上げ増強・
修復工事が行われている。
堤防は高く強固となり、切り通しは全て廃止され橋が架けられた結果、
鉄道の陸閘遺構は残念ながら全て消滅してしまった。
折角の施設なので、一カ所ぐらい遺構として残れば良かったのに、
と思いはするが、一方で、これらの荒手は補修・改修が行われ、300年
以上岡山城下を洪水から守った勇姿が見事に甦っている。(続)
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