山陽本線は熊山の駅を過ぎると、山陽自動車道の高架を潜り、その先で一級河
川・吉井川を橋梁で越え万富に向かう。
この吉井川橋梁は岡山生まれの名随筆家内田百間が自身の随筆集「安房列車」
に“日本で唯一曲がった鉄橋”と紹介したことで一躍有名になり、以来鉄道写真フア
ンの撮影ポイントとして知られたところだ。
測量ミスなどと汚名を着せられ面白おかしく語られたりもしたが、実際のところは、
熊山山塊にトンネルを掘るのを避け、山裾に沿って鉄橋を曲げたものらしい。
こういった事例は、全国でもいくつかあるそうだ。
この吉井川は古くから高瀬舟による海運が開けたところでもある。
流域にある4世紀末の古墳からは、舟形土製品が出土している。
高瀬舟は、全長が20m、巾2m位の舟底が平らで、舳先が高くせり上がり、中央に
帆柱が立った船のことで、浅瀬でも運行が出来る構造となっていた。
室町時代には、上流の林野や津山あたりまでの舟便が有り、馬に換算すると40
頭分もの荷を積んで上り下りしていたと言う記録が残されている。
下りが一~二日、上りで三~四日、上り下りすると一週間程度で有ったと言う。
『作州和計河にてタカセ舟を見ておもへらく、百川皆舟を通すべしと、』
(吉井川は古くは、周匝川、和気川などいろいろな名前が有ったらしい)
江戸時代初期吉井川で高瀬舟を見て大いに驚いた角倉了以は、京都の嵯峨野
に帰って川浚えを始めたと言う。
(「岡山紀行今昔」富岡敬之 昭和55年・山陽新聞社)(続)
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川・吉井川を橋梁で越え万富に向かう。
この吉井川橋梁は岡山生まれの名随筆家内田百間が自身の随筆集「安房列車」
に“日本で唯一曲がった鉄橋”と紹介したことで一躍有名になり、以来鉄道写真フア
ンの撮影ポイントとして知られたところだ。
測量ミスなどと汚名を着せられ面白おかしく語られたりもしたが、実際のところは、
熊山山塊にトンネルを掘るのを避け、山裾に沿って鉄橋を曲げたものらしい。
こういった事例は、全国でもいくつかあるそうだ。
この吉井川は古くから高瀬舟による海運が開けたところでもある。
流域にある4世紀末の古墳からは、舟形土製品が出土している。
高瀬舟は、全長が20m、巾2m位の舟底が平らで、舳先が高くせり上がり、中央に
帆柱が立った船のことで、浅瀬でも運行が出来る構造となっていた。
室町時代には、上流の林野や津山あたりまでの舟便が有り、馬に換算すると40
頭分もの荷を積んで上り下りしていたと言う記録が残されている。
下りが一~二日、上りで三~四日、上り下りすると一週間程度で有ったと言う。
『作州和計河にてタカセ舟を見ておもへらく、百川皆舟を通すべしと、』
(吉井川は古くは、周匝川、和気川などいろいろな名前が有ったらしい)
江戸時代初期吉井川で高瀬舟を見て大いに驚いた角倉了以は、京都の嵯峨野
に帰って川浚えを始めたと言う。
(「岡山紀行今昔」富岡敬之 昭和55年・山陽新聞社)(続)
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