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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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宇高連絡船(玉野市電廃線跡を歩く)

2025-03-24 | Weblog
 岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」は、海上11.3海里
(21.0㎞)の鉄道連絡船である。明治42(1909)年に港が開港、翌年
宇野線が開通すると時を同じくして運航を始めている。
以来長年に渡り、本州と四国を結ぶ大動脈として機能してきた。



 宇野港は昭和5(1930)年2月7日に、県下では初めて「開港場」に指
定された。これは、通商・貿易の為に外国船に開放される港の事で、同
年の7月に中国大連間に定期航路が開設され「照國丸」が就航している。
 戦後の復員兵や引き揚げ者などの運搬では大活躍したが、次第に衰退
し後に撤退している。



 一方宇高航路は順調で、当初は玉藻丸や児島丸が他の航路から転属
され運行していた。玉藻丸には船内売店が開かれ、ビフテキ20銭、フ
ライ15銭、ビール24銭等、洋食が評判を呼んだという。
又国内航路では初めて船内にランプに変る電灯の照明が採用された。
戦後になると、紫雲丸型と呼ばれる新鋭船三隻も投入されている。



 昭和25(1950)年になると、連絡船は貨車に留まらず、本州と四国
を結ぶ夜行列車を客車ごと乗せるようになる。
(ただ、客車のスペースは6両分しか無かった。)
乗客は宇野と高松での深夜二度に渡る乗り換えがなくなり、眠っている
間に移動が出来、これは大好評であった。



 ところが昭和30(1955)年5月11日、紫雲丸が第三宇高丸と衝突し
沈没する。国鉄史上、「戦後最悪五大事故」の一つと言われる大事故を
引き起こしてしまった。
乗っていた修学旅行中の学童・生徒ら168人の死者を出す大惨事である。



 以後、旅客の安全を確保するため客車の航送は中止となった。
又これを契機として、永年燻り続けていた本四架橋(本州四国連絡橋)
の構想が、一気に具体化することになる。(続)





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