
国鉄の「宇高連絡航路」の盛況を受けて、昭和36(1961)年には、
民間の旅客フェリー「宇高国道フェリー」が新たに参入する。
この時児島湾の干拓事業は既に竣工し、岡山市と香川県の高松市を結
ぶ「一級国道30号線」は開通していて、フェリーが瀬戸内海の海上部を
担う事で、岡山市内から高松市内まで自動車での移動が可能となった。

フェリーは24時間運航で、「昼も夜も19分ごと、待たずに乗れる」
がキャッチコピーで、最盛時は68往復/24時間であった。
就航する各船も豪華さを競い、テレビの搭載は当たり前、デッキに
噴水の装飾を施し、船内にはエスカレーターを導入したり、中には浴
室を備えた船まで現われた。

一方開業60周年を迎えた宇野線には、特急・うずしおや、急行・砂丘
しんじ、寝台急行・鷲羽、瀬戸等が乗り入れていた。
昭和47(1972)年3月15日、新大阪と岡山間に待望の山陽新幹線が
開通すると、「宇高連絡航路」には「海の急行便ホーバークラフト」が
投入される。これまでの連絡船が凡そ1時間かけていたところを、僅か
23分で駆け抜けるようになる。

宇野港の整備も順調に推移し、昭和30(1955)年には第一突堤が完
成している。これにより8000トン級の船舶の接岸が可能となり、入港
船の延べ数は以後10年間で凡そ2.7倍となる急成長を見ることになる。

新幹線開通と同年には、岡山から「特急・やくも」が山陽本線、伯備
線経由で一日4往復投入され、岡山から宇野を軸とする南北の「陰・陽
・四」の連絡幹線路が形成された。

嘗て明治の先駆者達が、「宇野に港を築けば新たな交通の要衝になる」
と、築港に情熱を燃やした先見の明は、これで証明されることになる。(続)


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