簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

大津宿(東海道歩き旅・近江の国)

2024-07-03 | Weblog
 東海道は、何時しか大津宿の中心地に入ってきた。
東海道では53番目、中山道では69番目に当たる宿場町で、北国街道の追
分けでもある。



 京都から辿ればここまで三里、初めての宿である。
草津から三里半歩いた旅人は、ようやく長い旅の終わりが見え、訛り言
葉にも京を間近に感じる事が出来たであろう。



 町の数96町、家数3,650軒と言われるだけに、東海道筋でも最大級の
1,5万人に近い人口を抱えていて、男女比では女が200人ほど多かった。

 本陣が2軒、脇本陣は1軒、旅籠は71軒を数えたという。
同じ湊町として栄え、七里の渡しが控えた宮宿の248軒とは比べようも
無いが、可成りの規模の宿場であった。



 大津に稲作の弥生文化が伝わったのは、弥生時代前期中頃らしい。
古墳時代には、この辺りにも首長の大古墳が出現している。

 「大津の名は天智天皇の都より言い始め・・・」と言われるとおり、
7世紀の天智天皇の時代には、飛鳥の岡本の宮から近江大津宮(大津
京、大津宮或は志賀の都とも言う)に都が移され、これが大津の名の
初めとされている。



 しかし、大津宮跡の推定地は市内に幾つかあり、未だに明確には分か
っていないらしい。これまでは穴太(あのう)、滋賀里(しがさと)、
南志賀町廃寺跡(みなみしがちょうはいじあと)、粟津(あわず)など
が有力な候補地とされていた。



 しかし近年、南志賀の榿木原遺跡では瓦が大量に発見され、俄に注目
を集めたという。
 ところが、近江神宮西の「近江大津宮錦織遺跡〈国史跡・名勝〉」では、
昭和49(1974)年の発掘で、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見された。
今日ではこちらが最有力地とされているが、まだ混沌としている。(続)





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