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2012-06-22 | bookshelf
大田南畝38歳。狂歌をひねっている最中。画:北尾政演

狂歌師として名声を得るも、恩恵を賜っていた田沼政権崩壊によって
この年に公けでの狂歌の筆を折ることに。

 蜀山人こと大田南畝は通称大田直次郎、名を覃(タンorふかし)、江戸牛込御徒町の組屋敷(現・新宿区北町・中町・南町地区)に幕府の徒士衆(かちしゅう)の子として1749年(1823年75歳没)に誕生しました。貧しくはありませんが、遊べるほど裕福な家柄でもありません。利発な南畝少年は、漢学・漢詩に長け、特に詩作は秀でていたそうです。
 幕府直参の武士の身分は、御目見以上(旗本)と御目見以下(御家人)に大別され、御目見以下(禄高百石or百俵以下)は譜代席と抱入(かかえいれ)席に細分され、譜代席は職を世襲できますが、抱入は一代毎に召抱え手続きをしなくてはならず、大田家は70俵五人扶持だったので、南畝少年は父親在勤中の16歳に御徒抱入になりました。この時点では、南畝の出世の上限は御目見以上譜代席まででした。
 徒士(かち)とは、もともと戦場を徒歩で戦う兵卒だったので、武士階級中でも馬に乗れない下級身分。南畝の時代には、将軍が外出する時に道筋の先払いをしたりする、普段は江戸城内の玄関の中にある遠侍(とおざむらい)の間の奥に詰めて、両拳を膝の上に置いて正座をして上司(老中・若年寄など)が玄関を通過する時は平伏する、あるいは勘定所で衛視をしたり、上司の警備をしたりする、といった勤務を順番に勤めていたそうです。つまりシフト制勤務ですが、このいかにも退屈そうな職務内容は太平の世ならではで、幕府直参御家人(今でいう一般公務員的身分)は仕事がなく1ヵ月30日中約6日(!)出勤。内勤以外の仕事は先に書いたようなものです。徒仕衆の俸給は70俵5人扶持と決まっていて、これを全て米に換算すると年間支給額は95俵2斗5升、変動米相場だったので換金額は一定しないのですが、南畝16歳の1765年は徒士衆の現金収入は年間40両未満だったそうです。しかし、当時の武家の多くは先代からの借金を持っていて、大田家も南畝が家督を継いだ時借金があったそうで、全額を受け取ることはできなかったようです。
 金はないけど余暇はある―ということで、多くの幕臣は浮世絵を描いたり戯作したり小遣い稼ぎをしてました。戯作で有名なのは朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。秋田佐竹藩士。狂名:手柄岡持。南畝より14歳年上)、恋川春町(こいかわはるまち。黄表紙の祖。浮世絵も描く。駿河小島藩士。南畝より5歳年上)などですが、南畝はまだ子供なので国学者や儒学者の門人になって勉強していました。
 同門に23歳年上の平秩東作(へづつとうさく通称:稲毛屋金右衛門。内藤新宿の煙草屋。学者名:立松東蒙<とうもう>。平賀源内をモデルとした戯作本を書いたり、田沼時代の勘定組頭土山宗次郎に命ぜられ蝦夷地調査へ行った時の事を綴った『東遊記』を著した)がいたことで、南畝少年の退屈な人生に変化が生じることに。
 1766年、18歳の南畝は平秩東作に連れられて、初めて平賀源内(1728-1780年。エレキテルの復元で有名。南畝より21歳年上)の家を訪れたのです。39歳の源内はちょうど人生の絶頂期。東作は源内のお仲間で、南畝の才能を認めて源内に引き合わせたのでした。南畝は源内の家に『寝惚先生文集』(狂詩集)の草稿などを持って行って見てもらったそうです。自作の詩などを褒めてもらったことで南畝は自信を得て、出版することにします。板元・甲椒堂須原屋市兵衛に取り次いで刊行させた人物は、平秩東作。
 19歳の南畝(狂名:寝惚先生)は狂詩狂文集『寝惚先生文集初編』で文壇にデビューしました。その13年後1780年、平賀源内は獄死します。

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