蜀山人肖像 画:鳥文斎栄之 1814年文化11年
蜀山人と号した65歳の南畝翁。まだ現役サラリーマン
蜀山人と号した65歳の南畝翁。まだ現役サラリーマン
南畝の狂詩は中国の古典漢詩のパロディで、センスのよいユーモアが当時の文壇にウケて一躍人気作家になりました。江戸時代は詩人とか学者とか作家とか評論家などは職業ではなかったので、執筆してもそれで身を立てるという概念はありませんでした。武士出身の文人はもちろん、町人出身の文人でも同じでした。一世を風靡した山東京伝も、戯作は本職(煙草入れ&薬種屋)の片手間サイドビジネス程度にやるものだという主義でした。
20代には山手馬鹿人(やまてのばかひと)などのペンネームで洒落本を発表。1772年に田沼意次が老中になり緩和政策がとられるようになると、江戸庶民文化が一気に開花し、閑を持て余した幕臣や金を持て余した商人が「狂歌」という遊びで盛り上がり、南畝は狂歌師・四方赤良としてその中心にいました。30歳の時には、高田馬場の茶屋で「月の宴」と銘打って5夜連続狂歌会を主催したり、34歳の時は吉原大門口の蔦屋重三郎宅で開かれた「耕書堂夜会」なるふぐ汁の会に出席したり、とかなり豪奢に遊んでいます。(南畝は蔦重の1歳上。耕書堂が通油町へ移転する以前から交流があったことが判りました)
特に、20歳の山東京伝が書いた『御存知商売物』を絶賛して京伝が有名になったことで知られる黄表紙評判記『岡目八目』を出版した1782年天明2年は、南畝にとって人生最大のバブル期だったようです。34歳の南畝は、勘定組頭・土山宗次郎(?-1787年横領罪で斬首)と親しく交際し豪遊していたことが、1949年昭和24年森銑三氏の研究によって明らかにされました。豪遊の実態は、南畝の日記『三春行楽記』に赤裸々に記してあります。当時土山氏も狂歌をし、彼のサロンには様々な身分階級の人物が出入りしていたそうなので、南畝が特別だった訳ではないでしょう。しかし、南畝が土山氏のお気に入りだったことは明白で、翌1783年出版した『万載狂歌集』(四方赤良、朱楽菅江<あけらかんこう>共編)にも土山氏の歌が数首入っています。
悪の世界(公金横領した金での豪遊)の恩恵を受けていた事実を、蜀山人を崇拝する研究者は認めたくなかったそうです。でも、『三春行楽記』がなくても、貧しい下級武士の若造が洒落本(遊廓の実態に取材した戯作)のヒット作を何冊も執筆できた事実から考えれば、安易に想像がつきます。南畝も人の子、清廉潔白ではなかったわけです。
田沼意次が実権を握っていた期間、1780年江戸は大雨続きで洪水だったし、日本近世史上最大といわれる天明の大飢饉(1783年~1788年)がありました。しかし、南畝には苦ではなかったようです。どうもこの人は政治や社会に余り関心がなかったんじゃないかと思います。1771年明和8年23歳の時に結婚した6歳年下の妻と息子がいるにも係わらず、37歳で吉原の遊女・三保崎を身請けして、自宅の敷地内に離れを作って住まわせたという無神経な男でもあります。そんなお金も土山氏から融通してもらったのかもしれません。でもそれがどうしたっていうんでしょうか。死んでしまった人の道徳観を非難しても意味がないと思います。私はありのままの南畝を受容れましょう。
そして、バブルは弾けてしまうものです。田沼意次が罷免され土山氏が斬首に処せられ、松平定信が老中になった1787年、四方赤良という狂歌師は消えました。
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