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2009-10-08 | bookshelf
 少し前に、泉鏡花の「歌行燈・高野聖」という短編5作のはいった文庫本を読んだ。

 毎度の事だが、作家の名前は歴史の時間かなにかで知ってはいるが読んだこともないし興味もなかった。
 手にとってペイジをぺらぺらとめくっていると、「宮重大根」の文字が眼に入った。おや?宮重大根(みやしげだいこん)といへば…とその続きを読むと、やはり「宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして、往来の渡船難なく桑名につきたる悦びのあまり……」ときたもんだ。これは十返舎一九「東海道中膝栗毛」の丁度真ん中あたり、レコードのA面が終わってB面の頭にあたる後半の始まり部分である。

 ひょっとして泉鏡花も「東海道中膝栗毛」ファンなのだろうか?

 確かに『歌行燈』のはじまりの文は膝栗毛五編の上の読初めなのである。そしてこの話は、弥治さん気取りの男と喜多八にさせられた老人の二人旅から話が始まるオムニバス形式の小説であった。

 ・・・とその前に、私は例によって「そのこと」を先に確認したくて解説を読んだ。果たして、泉鏡花は旅に出た際「東海道中膝栗毛」を聖書のごとく携帯していたくらいの入れ込みようだった。

 ああ、思わぬところで出遭った同志。私も東海道の宿場へ行った時は、その宿場が載っている膝栗毛の文庫本を携帯して現地で読んだ。
そうすると、なおのこと弥治北の当時がより身近に感じられて笑いもひとしお。

 十返舎一九の死後2年後の1833年広重は「東海道五十三次」を刊行。「膝栗毛」発表から約30年後のこと。広重が「膝栗毛」読者だったことは間違いない。
鏡花の「歌行燈」は1910年(明治43年)の作で「膝栗毛」刊行開始1802年から実に100年以上の時を経て「膝栗毛」は未だ人々に愛され続けている。

 十返舎一九や蔦屋重三郎が生きた時代は、江戸時代の天明文化・庶民の文化が花開いた時期だった。お上によって倹約令など出されたが、町人(文化人)はそれを公然と洒落本や狂歌で批判するくらいの時代だった。
諸国で大飢饉や大火・水害など天災が続発した時代でもあったが、庶民に悲惨さは感じられない。天明の次の年代・寛政、享和、文化も、歌舞伎や狂歌、浮世絵、滑稽本・人情本など文化的に豊かな時代だったと想像していた。

 泉鏡花の作品は体質的にあっていた。読んだタイミングもよかったんだろう。彼の作品についてはまたそのうち。
 私が浮かれ騒いでいた1700年代後半、弥治さん喜多さんとはかけ離れた膝栗毛を歩んでいた人物たちが居たことに気づいた。
昔読んだ、井上靖の「おろしや国酔夢譚」。映画にもなったから知ってる人も多いと思うが、そのお話(事実)の主人公・大黒屋光太夫(日本史年表では幸太夫になっている。ちなみにラックスマンはラクスマン表記だ。)が伊勢から船で商品を運ぶ途中漂流して着いたカムチャツカから長い年月をかけてモスクワまで行きまた東へ旅して日本にようやく帰国したが…という過酷な人生を歩んでいたのが、ちょうど天明~寛政にかけてなのだった。たまたま読む本がなくて引っ張り出してきた文庫本、、、これも何かの縁があったのだろうか。

 ちなみにこの時代は、フランス革命が1789年に起こり、アメリカではワシントンが初代大統領に就任している。光太夫たちがラックスマンに連れられて北海道根室に来たのが1792年。この頃江戸の町では文化人達が集まって狂歌会や宴会を華やかにくりひろげていた。蔦重も山東京伝も太田南畝も馬琴も北斎も三馬も鶴屋南北も一九も歌麿も円山応挙も司馬江漢も健在だった。
 その一方で、日本人が誰も知らない世界になんの因果か漂着した光太夫たち伊勢の商人・漁師たち。大半が異国で死に、生き残れた者も異国人として一生を終えた日本人もいた。光太夫ともう1名は、幸運にもロシアの通商使節団と共に再び日本の地を踏めたが、故郷の伊勢に戻ることは叶わなかったどころか、幽閉の身になってしまった。でも、まだ光太夫は歴史にその事実をとどめられたからいい。彼らの前にも難破して異国に漂着して日本に帰れなかった日本人は何人もいたのだ。
彼らは家族から死んだものとされ、国からも捜索などされることはないし、異国でも鎖国している日本に返す方法もわからず、かくして忘れ去られて異国で死んでしまった日本人がどれほど存在したのか。

 そう思って「おろしや国酔夢譚」を読んでいると、胸がしめつけられる思いである。

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